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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:山岡鉄太郎が居住していたと思われる場所)

山岡鉄太郎の居住場所は静岡の浜松にあった

このQ&Aのポイント
  • 鉄舟山岡鉄太郎は官軍の西郷隆盛に面会するために静岡の浜松に居住していた。
  • 山岡鉄太郎は浜松に滞在していた時、西郷隆盛の本陣に訪れ、面会を果たした。
  • 浜松は山岡鉄太郎が大切にした場所であり、西郷隆盛も彼を高く評価していた。

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回答No.1

環三通り播磨坂のあたりに文京区が設置した「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡案内板」 があるそうです。 http://sannpo.iobb.net/wp-googleearth_e/%E5%B0%8F%E7%9F%B3%E5%B7%9D-2/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%B3%A5%E8%88%9F%E3%83%BB%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F%E3%80%80%E6%97%A7%E5%B1%85%E8%B7%A1 「早朝上野の横丁から官軍がひしめく東海道を勝の書簡を懐に鉄舟が単騎で走る」とありますが、下記「山岡鉄舟研究会」によれば、薩摩藩士益満休之助が鉄舟の従者として従っています。 山岡鉄舟研究会 http://www.tessyuu.jp/archives/2006/10/post_117.html 一部抜粋します。 「徳川慶喜から官軍との交渉について、直接指示を受けた鉄舟は、慶応4年(1868)3月5日、赤坂・氷川神社裏の海舟邸を訪ねた。玄関口で厳しく警戒されたが、ようやく海舟と会えた経緯については既にお伝えした。 だが、海舟邸に益満休之助がいることに鉄舟は驚いた。(中略) (海舟は)薩人益満休之助を随行させ、更に西郷に宛てた添書を与えた」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)のであった。」

krya1998
質問者

お礼

詳しいご教示、本当にありがとうございました。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11128/34636)
回答No.2

https://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/ryogoku/ryogoku/hotplace/11341432/ 墨田区の堅川中学校の辺りに、その住まいがあったと伝わっているそうです。 山岡鉄舟は、馬に乗れたんですかね?江戸生まれの江戸育ちですから馬に乗る習慣がそもそもないですし、当時の武士の主な乗り物は「駕籠」です。あの赤穂藩取り潰しの知らせを赤穂に届けた武士は、早駕籠を乗り継ぎました。短距離の特急便を乗り継いだんですよ。そりゃそうとう揺られたと思いますよ。その知らせを届けたのちに過労で死んでしまったそうですから、相当だったでしょう。 そのうえ、山岡鉄舟は伝わるところによると身長188センチもあったといいます。日本の内国産馬は体高が120センチ程度ですから、足がつきそうなほどです。しかも、当時の馬は蹄鉄をしておらず、馬用の草鞋を履いていました。草鞋ですから、すぐ擦れて長距離を走るには向きません。そもそも江戸時代には馬で走るってことが基本的にはない時代ですからね。武士が乗馬するときは馬丁が轡をとっています。つまり歩行者以上の速度で走ることは原則的にはないのです。 時代劇では「急を知らせる早馬が駆け抜けるシーン」がお約束ですが、現実にはああいうのはまあ、創作といってもいいくらいだったと思います。単純な速度競争では、馬よりも飛脚のほうが早かったようです。 山岡鉄舟は今に伝わる写真でも肩の筋肉が尋常ではないマッチョなのがよく分かる人なので、相当に健脚だったのではないかなと推測します。

krya1998
質問者

お礼

詳しいご教示、本当にありがとうございました。 勉強になりました。

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