徳川吉宗の三男・源三の死亡日は4月26日か5月6日?

このQ&Aのポイント
  • 徳川吉宗の三男・源三の死亡日について、4月26日と5月6日の2つの日付が存在します。
  • 「徳川実紀」や「有徳院殿御実紀」では、源三の死亡日がどちらになっているのか詳細は不明です。
  • 一部の資料では、5月6日が源三の死亡日とされています。
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徳川吉宗の三男の源三について

徳川吉宗の三男・源三が亡くなった日は、4月26日 か 5月6日 のどちらが正しいのでしょうか? 徳川吉宗の三男の源三が亡くなった日について、4月26日 というのと 5月6日 というのの2つを見たことがあります。 源三が亡くなった日は、4月26日か5月6日のどちらが正しいのでしょうか? 徳川吉宗の三男・源三が亡くなった日付は、4月26日 か 5月6日 のどちらが正しいのかを教えてください。 「徳川実紀」や「有徳院殿御実紀」等では、どちらになっているのでしょうか? 因みに、(↓)下記の URL の「柳営婦女伝叢」の 165/280 コマ目のページでは、源三が亡くなった日は5月6日になっています。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945825 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945825 (↑)この 165/280 コマ目のページの “源三殿” の所 「徳川実紀」や「有徳院殿御実紀」等では、どちらになっているのでしょうか?

noname#238582
noname#238582
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回答No.2

半日経過していますので、既に御自身で御確認済みかもしれませんが… >「徳川実紀」や「有徳院殿御実紀」等では、どちらになっているのでしょうか? 下記のとおり「有德院殿御實紀」では、四月廿六日「御快愈ありし」、 五月六日「けふ逝去し給ふ」と記されています。 〇『德川實紀 第五編/經濟雜誌社/1904.6.25』 ・「有德院殿御實紀卷八 享保四年三月」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917878/312 <312/641>(609頁上段10-17行目) [欄外] 上 源三君生 〇十四日…(中略)…この日御子生れさせ給ひければ。宿老。少老更に出仕して賀し奉る。…(中略)…(日記。) ・「有德院殿御實紀卷八 享保四年四月」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917878/314 <314/641>(613頁下段10-13行目) 〇廿六日源三君御不豫の時御藥奉り御快愈ありしをもて。奧醫小森四倫賴英。赤松休庵則光に銀廿枚を下され。おなじ時志ば\/候して拜診せし寄合醫岡道溪壽益には時服をたまふ。(日記。) ・「有德院殿御實紀卷八 享保四年五月」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917878/315 <315/641>(614頁下段19行目-615頁上段2行目) [欄外] 上 源三君夭 〇六日…(中略)…このほど源三君御不例にわたらせられしが。けふ逝去し給ふ。よりて音樂を停廢するコト三日なり。(日記。) 以上

noname#238582
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 >「有德院殿御實紀」では、四月廿六日「御快愈ありし」、 五月六日「けふ逝去し給ふ」と記されています。 ありがとうございました。

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  • ithi
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回答No.1

jgadmzさん、おはようございます。 徳川家の公式記録ですから、5月6日で統一されていると思います。詳細は下記のULRを参照ください。 徳川源三 https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%BA%90%E4%B8%89

noname#238582
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

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