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徳川吉宗の三男・源三について教えてください。

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徳川吉宗の三男・源三について教えてください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2

(↑)このページによると、徳川吉宗の三男・源三は、夭折したことになっているのですが、

もしそうなら、徳川吉宗の三男・源三は、何歳ぐらいで夭折してしまったのでしょうか?

徳川吉宗の三男・源三について、何歳ぐらいで夭折してしまったのか等、徳川吉宗の三男・源三についてわかる事を教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.4

ベストアンサー率 66% (503/762)

歴史 カテゴリマスター
追記、追記で申し訳ありません。徳川源三について、『有徳院殿御実紀』を見ると、誕生以来病気がちであり、誕生4日にして寄合医師に、時々登城し、往診することを命じています。4月26日の条で、「志ば志ば候して拝診」とあるので、その頻度も高かったことがうかがえます。通常であれば奥医師が見るのが普通ですが、誕生時の様子、その後の経過等から、虚弱であり、そのために寄合医師で、小児科(当時はこのような語句は使われませんが)の敏腕医師を往診にあてたものだと思います。
下に関連する記事を抜き書きしておきました。

享保4年(1717)3月18日
*寄合医岡道渓寿益に時々後閣(*大奥)に出て。御子を診ひまいらすべしと命ぜらる。

享保4年(1717)4月26日
源三君御子不予(*貴人の病気)の時。御薬奉り御快ゆありしをもて*奥医小森西倫頼英。赤松休庵則光に銀廿(*20)枚を下さる。おなじ時志ば志ば(*しばしば)候して拝診せし寄合医岡道渓寿益には時服(*季節の服)たまふ。

享保4年(1717)4月26日
源三君諡(*おくりな)まいらせて凉池院殿と称せらる。‐略‐東叡山(*上野の寛永寺)の浚雲院に葬りまいらす。

*寄合医=寄合医師のこと。寄合医師とは、幕府の医官の内、常時は登城せず、臨機に命ぜられて登城し、治療にあたる。
*奥医=奥医師のこと。奥医師は、典薬頭(てんやくのかみ)を除き、幕府医官の最高峰で、医業に優れたものが推挙されることも多いため、民間から登用された者もある。

なお、下記及びNO1での記事以外の記事の日付と概要は次の通りです。
3月15日=群臣賀詞登城。
3月21日=祝と下賜・褒賞。
4月6日=祝
5月7日=弔意。葬送の命。
5月8日・9日=葬儀。
お礼コメント
noname#234238

とても詳しい御回答ありがとうございました。

No.1 の御回答によると、享保4年3月14日 に誕生して、

享保4年4月26日に亡くなったのですね。

2ヶ月弱で亡くなってしまったのですね。

よくわかりました。

ありがとうございました。
投稿日時 - 2018-12-04 12:58:21

その他の回答 (全4件)

  • 回答No.5

ベストアンサー率 66% (503/762)

歴史 カテゴリマスター
たびたびの追記で申し訳ありません。引用部分に漢字の間違い(誤記)をしましたので、訂正いたします。下記の文中の「  」の部分です。

享保4年(1717)4月26日
源三君諡(*おくりな)まいらせて凉池院殿と称せらる。‐略‐東叡山(*上野の寛永寺)の「浚雲院」に葬りまいらす。

誤記=浚雲院
訂正=凌雲院(りょううんいん)
*「凌雲」は雲より高く上ること。俗世間を超越することの意味です。
なお、当時の年齢は、数えで計算していますので、誕生と同時に「1歳」となります。
お礼コメント
noname#234238

御回答ありがとうございました。

享保4年4月26日に亡くなってしまったのですね。

当時は、数え年なので1歳で亡くなったことになるのですね。

寛永寺の凌雲院にお墓があるのですね。

とてもよくわかりました。

ありがとうございました。
投稿日時 - 2018-12-04 13:02:46
  • 回答No.3

ベストアンサー率 66% (503/762)

歴史 カテゴリマスター
ところで、余分なことではあるのですが、源三・小五郎(一橋宗尹)の生母について、Wikiでは「深心院」となっていますが、『有徳院殿御実紀』の死亡記事には、「源心院と法諡し」として「源心院」としたとあります。どちらが正しいか分かりませんが。

享保6年(1721)10月7日
小五郎君の生母(谷口氏。)うせらる。これは谷口長右衛門正次が女にて。はやくよりつかへ奉り。*お梅の局といふ。*享保四年三月十五日第三の御子源三君をまうけ。ことし閏七月十五日小五郎君をまうけたりしが。其後病おほくけふうせられしなり。廿一歳とぞ聞えし。源心院と法諡し東叡山に葬らる。
*お梅の局=阿梅局の表記もあり。
*享保四年三月十五日=同じ『有徳院殿御実紀』の源三の誕生の当日の記録は、NO1で書いたように3月14日になっています。『徳川実紀』は、他の記録と突き合わせると、なぜか日付が1日、2日ずれることがあり、源三の誕生の日付の違いについても、同じなのかも知れません。
お礼コメント
noname#234238

御回答ありがとうございました。
投稿日時 - 2018-12-04 13:03:28
  • 回答No.2

ベストアンサー率 19% (1703/8604)

Cvbfgdhjsさん、こんにちは。

0歳のようですから、本当の夭折のようです。他の回答者様の言うとおり、行事が行われたほかは何も事績がありませんね。宗尹よりも2歳年上の兄であり、深心院のページから1719(享保4)年生まれであることは確実です。
深心院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2
源三
https://books.google.co.jp/books?id=6Y3x_sQOdFUC&pg=PA317&lpg=PA317&dq=%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2&source=bl&ots=hTzWixrHsK&sig=bZxoQLMUE80fumkHHyycPiHZ9Bo&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjP4YafnYPfAhUUIIgKHdweCKw4FBDoATAAegQIBhAB#v=onepage&q=%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2&f=false
お礼コメント
noname#234238

御回答ありがとうございました。
投稿日時 - 2018-12-04 13:04:47
  • 回答No.1

ベストアンサー率 66% (503/762)

歴史 カテゴリマスター
『国史大系 徳川実紀』の中の、『有徳院殿(吉宗)御実紀』の中に次の文があります。

享保4年(1717)3月14日
この日御子生れさせ給ひければ。宿老。少老更に出仕して賀し奉る。

享保4年(1717)3月21日
七夜の御祝あり。‐略‐けふ御子に御名まいらせられて源三君と称せらる。

享保4年(1717)5月6日
このほど源三君御不例のわたらせられしが、けふ逝去し給ふ。よりて音楽を停廃すること三日なり。

誕生から逝去までが二カ月足らずであったため、この記事以外は、誕生に関しての祝と褒賞、逝去に関しての葬儀関連の記事になります。
将軍の子女に関しては、夭折の者についても、誕生と逝去について『徳川実紀』に記載されていることが多くあります。
お礼コメント
noname#234238

御回答ありがとうございました。

とてもよくわかりました。
投稿日時 - 2018-12-04 13:04:05
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