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ヤタガラス

ヤタガラス。 ヤタガラスの神格は富士山の号目に換算して8合目に見えます。ヤタガラスの一族に取って都合がいいようにしていると思います。例えば、イエス・キリストが張り付けになったT型十字架を地下に祭っていると言う話しですが、イエス・キリストが、自らが張り付けになったT型十字架を祭るように希望したでしょうか。イエス・キリストはそんな事は希望しないと思うのです。次に、日本列島を網の目のように、神社仏閣で結界を張り巡らしたようですが(そのお陰で徳川300年は平和だった)、それ以外は戦争ばっかりで日本を満足にコントロール仕切れていないのではと思うのです。本当に神格が高いのか疑問に思ったのです。

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  • roadhead
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回答No.1

神に序列はありません。 そこが勘違いの始まりです。 ヤタガラスは神の使いであり天使の様な神に仕える存在です。 イエス・キリストが張り付けられた十字架を奉るのは人がイエス・キリストを追いやり殺した罪を忘れないように戒めとして奉つり始めたものが時代を経て「人の罪を背おいて逝かれた」「イエス・キリストは初めから死ぬために遣わされた」と言う身勝手な解釈になっただけです。 マリア信仰はその罪を正面から捉えることが出来ない愚かしい人々が逃げて聖母として祭り上げたものでありマリアはイエス・キリストを産んだ事以外は何もしていません。 むしろイエス・キリストを産んだ事を恥じて生きていた愚かな女に過ぎません。 キリスト教の大元はイエス・キリストに従う1つの集まりでしたが犯した罪から逃げているうちに身勝手な解釈をして分岐して行った愚かしい宗教に過ぎません。

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