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戦国時代の医術と武士階級の姿
oska2の回答
- oska2
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>負傷の手当のための薬もあったと思うのですが、外科手術のようなものはあったのでしょうか? 傷・内科的な治療は、薬草・漢方薬・民間薬で治していました。 外科的な手術に関しては、どこまでを手術と看做すのかで異なります。 ただ、鉄砲での負傷は「直接、弾丸(玉)を小刀で取り出す」事は行っていた様です。 玉をそのままにすると、周辺から肉が腐りますから・・・。 また、指・腕・足を損傷して治療が難しいと判断すると「切断」した様です。 >大きな戦の後では、その大名家では、障がい者だらけなんていう現実もあったのでしょうか? 先ず、あり得ません。 負傷者の場合は「父に代わって。兄に代わって奉公」が基本です。 名誉の負傷では、奉公は出来ませんよね。 従って、家名存続の為に親族が代わって奉公にでます。 >戦力を保つために武士を補充するようなことは行われていたのでしょうか? 時代によって変わりますが・・・。 関ヶ原・大坂の陣までは、浪人が「一攫千金」を目的に集合していました。 宮本武蔵も、一介の浪人として参戦しています。 大きな戦では、近隣の住民に対して「労働力の提供・徴兵」を命じています。 戦いに素人の住民ですから、足軽戦闘員ですがね。 最期の大規模な徴兵は、幕末の(孝明天皇から国賊・朝敵とされた)天誅組です。 五条代官所を襲撃した後で、十津川住民を強制的に徴兵していますよ。 徴兵・食糧提供を拒否した者・郷士は、弁明の機会も無く問答無用で打ち首になっています。 >「跡取り息子」で間に合ったのでしょうか? その為に、側室が存在しています。 親族間での養子縁組も盛んに行われています。
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