• 締切済み

ご意見お聞かせください。江戸時代ってどんな時代?

Webメディアの「アゴラ」で活動している、徳島文理大学と国士舘大学で教えてはる、八幡和郎さんは、「江戸時代=暗黒時代、今で言えば北朝鮮」と、一貫して言うてはります。「アゴラ 八幡 江戸時代」で検索🔎すると、いろいろ、スゴい文章がヒットします。 対して、僕は、これまでに読んだ本から察するに、江戸時代には至らない点も多かっただろうけど、少なくとも暗黒でも、北朝鮮でもないと思います。 まぁ、一口に「江戸時代」と言っても、都市と農村ではまったく事情が異なりますし、第一、江戸時代は長い。 戦国の余韻が残っていた初期と、明治維新直前では一緒になりません。それに、体験者もいない、となれば、結論や正解は出ませんわな。 で、皆さん方の、「江戸時代ってこんな時代」と言うお考えをお聞かせください。なお、その際に、「こう言う本にこう出てた」と、書名をあげてくださるとありがたいです。 で、まずは、僕の読んだ本,,,「花暦八笑人」(瀧亭鯉丈)「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)「浮世床」「浮世風呂」(式亭三馬) 「元禄御畳奉行の日記」(神坂二郎)「江戸の旅」(岸井良衛)「江戸の刑罰」(石井良助)「江戸名物評判記案内」(中野三敏)「幕末百話」「戊辰物語」,,,この辺です。 なお質問の性質上、ベストアンサーは決めません❗

  • 歴史
  • 回答数7
  • ありがとう数10

みんなの回答

回答No.7

bungetsuです。No2です。 藩校ができましたが漢文を教えるだけで、たいていの武士は九九もできませんでした。 Oh NO. 江戸に限って言えば、 武士は、もちろん、文武両道であるが、5歳~7歳ぐらいまでは、手習いで文字を覚えさせられた。7歳からはいきなり「中庸(=四書のうちの「礼節」の部分)」の素読から始まる。中味の意味までは教えてもらえない。8歳ぐらいになると師のもとに通い、10歳までに「四書五経」の素読を覚える。まあ、その間には、聞きかじりで意味を理解するようになる。武術は、剣道と水泳であった。 武士の子息が12歳になると、湯島聖堂附属の学問所で試験を受けた。出世を目指す者は特別試験の「素読吟味」にチャレンジし、さらには、「学問吟味」と呼ばれる国家試験があった。前者は年に1回。後者は3年に1度行われた。少なくとも、「素読吟味」に合格しないと、どんなに家柄が良くても家督相続さえ許可されなかった。 (7)下級武士から上級武士になるのすら不可能に近かった 親と子が同じ職業につくのが原則で、とくに、上級武士(馬に乗れて殿様に会える)とそれ以外が峻別されました。 現代だって同じではないでしょうか? 料理屋の息子は料理屋を継ぐ。 旅館の娘や息子の嫁は老舗旅館を継ぐ。 宮内庁の職員は天皇陛下に会える。我々庶民はよほどでない限り天皇陛下とは会えない。 (8)北朝鮮なみに禿げ山だらけで環境先進国は嘘 江戸時代にものを大事にしたりリサイクルが発達したのは事実ですが、それはものがなかっただけです。いまの北朝鮮がそうであるのとおなじです。そして薪や炭を主たる燃料にしたのでほとんどの山が禿げ山でした。 物は「腐るほど」ありました。 しかし、日本は儒教の精神があり、物を大事に使う、というのが基本でした。 使い捨てが「美学」なのでしょうか? 禿山だらけ? バカをお言いじゃありませんか。 「吉野杉」にしたって「高野檜」にしたって、何百年という年輪です。 全国各地には、それなりの銘木の産地があります。 どこから、そのような発想が生まれるのでしょうか??? 江戸時代は確かに燃料は「薪」でした。 しかし、やがては明治~昭和初期にかけては「石炭」。 そして今や、灯油、ガソリン、等の石油関係、あるいは、ガス関係。 これが近代的とでも言うのでしょうか? 後、何百年かで石油資源も尽きるとか・・・。 時代が発展する中では、次々と新しいエネルギーの開発が課題です。 原発、ソーラ・システム、風力発電、ごくごく自然の発展ではないでしょうか。 徳川幕府の時代は「木」、明治、大正、昭和初期の時代は「石炭」、今は主に「石油」、これから先は??? (9)北朝鮮と同じように餓死者が続出 日本の江戸時代は天明・天保・享保の飢饉などがあって、本当に何十万人もの「餓死者」が出ていた。天明の飢饉では、全国で30万から50万人の死者が出て、 確かに、食糧事情は天候に左右されたのは事実。 餓死者が出たのも確かです。 それを現代の季節が解らなくなるほどのスーパーなどでの野菜や果物。 「いちご」・・・・春。 「メロン」・・・・夏。 えっ、本当??? だって、一年中売ってるよ。 まるで、長屋の熊さんと八っあんの会話みたいですね。 これが江戸時代にはなかったから悪いと言うのでしょうか。 餓死者が出たのは徳川時代だけではありません。 「日本書紀」には飢餓の記録が頻出します。最古の記録は、崇神天皇5年で、 「疫病により人民の半分が死に、飢饉となった」 とあります。 欽明天皇28年(567)には、 「郡国、大水により飢え、人がお互いに食べあった」 と、いきなり食人の記録が書かれています。 養和元年(1181)には、京都で4万2300人が亡くなった「養和の飢饉」がありました。鴨長明の「方丈記」には、 「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり」 とあって、市中に遺体があふれ異臭を放っていたことがわかります。 昭和に入ってさえ飢饉による餓死者は出ています。 http://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html まだまだありますが「省略」。 (10)裁判や警察制度が不十分で切り捨て御免も伝説ではないし、サドマゾ刑罰に拷問もやり放題 確かに「斬り捨て御免」はありましたが、幕府の旗本や御家人、あるいは、各地の大名地であっても、斬った武士は、後刻(後日)、評定所に出頭して、明らかに相手に落ち度があったことの「申し開き」または「証拠を提示」しなければなりませんでした。 従って、武士にしても、何でもかんでも簡単に「切り捨て御免」はありませんでした。 拷問は自白の強要と言う観点からは、現代から見ればあまり良いとは思えませんが、それを言ったら拷問で一番有名なのは少し昔の十字軍とかも、クシザシとか、生きている人間の目玉をくりぬくとか。 また、秀吉の時代の「石川五右衛門」は釜茹での刑。 さらには、第二次世界大戦での、ヒトラー。 何の罪のない人々を何万人? 何10万人? 有無を言わせず殺した。 江戸時代より酷いじゃあありませんか。 奉行所擁護という観点から。面白そうな話を2~3つ・・・。 ★女の取り調べ 女に対しては、原則的に、責問や拷問はしないことになっていた。そして、取調べの最中、少しでも膝小僧から上を出すと調べは中断された。そこで、両膝を縛って取り調べをした。しかし、そのことを承知している女は、わざと後ろにそっくり返って、取調べをたびたび中断させたとか。 ★奉行所が三つ? すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄15年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保4年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。 ★大岡越前守が有名になったわけ 享保16年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。 ★南北奉行所・・・どっちが偉い? 南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。 最後に、やはりこの人も可笑しな人。 井沢元彦氏 「逆説の日本史」 浅野内匠頭が吉良上野介に人情に及んだ「松の廊下」。 松の廊下に描かれていた「松」の絵は、とても小さかった。 歌舞伎で見るような、あんなでっかい絵ではない。 「松」の絵が大きかろうと小さかろうと、特に歌舞伎などでは演出効果で、でっかく描いているのだろうから、どっちでもいいじゃないですか。・・・と、歴史学者や多くの歴史作家は「冷ややかな目」でみています。

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) 克明な反論、ありがとうございます。全て納得が行きます。 へぇ😮、中町奉行所って、あったんですか。( *゜A゜)「大岡裁き」には、実説があったんですね。 なんで、こんなアホが、いっぱしの知識人みたいに、飯🍚食ってるんでしょうね。( ・`д・´)

回答No.6

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 特に「江戸時代」は専門分野。 お勧め書籍としては、少々古くなりますが、 元東京帝国大学教授・三上参次「江戸時代史」(1)~(7)講談社 私も、PCで「アゴラ」読んでみました。 http://agora-web.jp/archives/2033224.html 八幡 和郎:評論家、歴史作家、徳島文理大学教授 なるほどねぇ。こういう考え方の人もいるのですね。いや、いても当然ですが、大学で教鞭をとり、学生にこうした自己流を教え込む(植え付ける)べきではありません。これまでの卒業生、そして現在の学生が、氏の考え方に感化されて支持して、中学校や高校の教師となって生徒に流布すべきではありません。社会から「弾き飛ばされて」しまいますよ。 私も氏の考え方を一つひとつ検証してみたいと思います。 (1)鎖国のせいで軍事力が低下し植民地にされかかった まずは、「鎖国」。 外国船の入港と外国との交流を制限しただけで、全てを閉鎖した訳ではありません。 徳川家康は米国人ウイリアム・アダムス(=三浦按針)を外交顧問とし、諸外国の正確な情報収集にあたらせ、オランダとの国交を結ぶ。後の出島でのオランダ貿易の基礎をつくった。 三浦按針は、当時の英国、スペイン、ポルトガル、オランダ、等の情報収集をした中で、オランダは、唯一、軍隊を用いず、商業船団だけで現在のジャカルタ辺りを拠点とした交易を推し進めていた。 そこで、按針は日本がオランダとの交渉の中で、 (1)長崎一ヶ所の港だけを解放する。 (2)その港は、あくまでも商取引の拠点であって、植民地とはしない。 という条件を提示。 オランダは英国、スペイン、ポルトガルに後れをとっていたため、新たな進出国が見つかったことに喜び、その条件を飲んで日本との交易を樹立したのです。 しかし、「鎖国」とは言っても、「四口」(よつのくち)と呼ばれて、 *中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。 *中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。 *中国やオランダから長崎へ、そして、幕府への路。 *蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。 が、開かれていました。 このように、一言で「鎖国」と言い、外国との交流が全くなかったかのように言われがちですが、最近では、「そうか、言われてみれば鎖国だったのかな?」と言う意見も多くなり、高校教材で山川出版社「日本史」では一切「鎖国」という言葉は使っていません。「海禁」と表現しています。その動きは中学、高校教材に広がりつつあります。 また、鎖国のせいで軍事力が低下した訳ではありません。国内でも対外的にも戦う必要性がなくなったから、軍備を増強する必要性がなかっただけです。 それだけ「平和」が280年も続いたということは、他の国にはない、とても素晴らしい国だった、と誇るべきではないでしょうか。 黒船が来た時、軍事力が低下していたので植民地化されそうだった。 黒船の来航目的は、米国の捕鯨船などに、水や食料、薪などの「補給基地」として開国を迫っただけです。ただし、日本は「中々、開国をしない国」と世界から受け止められており、そのため、江戸湾内に入って測量や空砲などをぶっぱなして「脅し」をかけただけで、植民地化しよう、などとは考えていませんでした。 (2)科学技術も300年遅れたままだった 何をもって科学技術が遅れた、と言うのでしょうか? 日本でも「からくり人形」や「和時計」など、指先が器用な国民性から、小さな発明品は生まれています。 何も機関車や蒸気船などを造ることだけが科学技術ではないはずです。 (3)国民の大半は引っ越しも旅行も禁止の半奴隷状態だった 引っ越しができない・・・農村部でしょうか? 江戸市中でしょうか? 農村部で言えば、土地を所有していれば、その土地に定着するのが当然です。これは日本に限ったことではありませんよね。 また、江戸市中であれば、庶民は庶民で6畳一間の暮らしに、それなりに満足していました。 さらに言えば、江戸幕府は分国経営(合衆国のよなもの)で、各地の大名にその領土内の運営、経営を任せていましたから、よほどの事件(お家騒動など)でもない限り幕府が指揮権を発動することは控えていました。 旅行に関しては、江戸の街について言えば、 泰平の世が続いた江戸中期になると交通網も整備され、旅行がしやすくなっていった。「お伊勢参り」の伊勢大神宮は日本人の信仰の大元(おおもと)であり、江戸の家々には神棚が設けられ、どこの家でもお伊勢さまのお札が祀られていたほどであった。一生に一度でもお伊勢参りをすることが、江戸庶民の夢であった。年末になると伊勢神宮から「御師」(おし)と呼ばれる下級の神職がやってきて、「伊勢暦」や「一万度のお祓(はら)い」という神札を配って歩いた。そして、話がお伊勢参りのことにおよぶと道中での宿泊先などの斡旋もしてくれました。 現代の「JTB」とか「日本旅行」などと同じく「旅行斡旋業」の先駆けです。 幕府は江戸に関して言えば、「入り鉄砲に出女」を危惧して関所は設けましたが、女芸人であれば芸を披露すれば「手形」がなくても通過できました。割合、自由に旅をしていたのですよ。 (4)女性差別と部落差別は江戸幕府が創り出した 女性差別・・・とんでもありません。「男耕女織」(だんこうじょしょく)という熟語がありますが、男は外で農耕をしなさい。女は家で機織りをしなさい。実に優しい考え方ではありませんか。 さらに、江戸中期になると「五人組制度」が発令されましたが、これは、例えば病気などで一家の主人が死亡してしまい、女や子どもだけの世帯の農耕には、この五人組で助けてあげなさい。 また、川の氾濫などで一軒の家が流された。五人組で炊き出しなどの援助をしなさい。 「レディファースト」が必ずしも先進国とは限りません。 「部落」について言えば、 「非人」とは、本来は、世捨て人や僧侶などを指しましたが、やがては、 (1)姉妹伯母姪と密通した者。 (2)男女の心中(相対死)で女が生き残った場合。もしくは、両人とも生き残った場合。 (3)主人と下女の心中で主人が生き残った場合の主人。 などのように、人間としてあるまじき行為をした者が人間の身分を取り上げられて非人とされました。しかし、江戸府内では「弾左衛門」と言う者が頭でいましたが、家族や親類縁者が多少の銭を支払うことで「真人間」に戻れました。 また、各地の農村部で言えば、上記の他に村の秩序を乱した者、などがそれに当たり、どちらにしても、「人間としての道義違反」が対象です。 この人間としての「差別」は、現在でも「職業の優劣」などで残っているのではないでしょうか。 また、この「部落問題」がクローズアップされたのは、 明治4年(1871)に制定され、明治5年に編成された、いわゆる、壬申戸籍(じんしんこせき)に「皇族」「華族」「士族」「卒」「地士」「僧」「旧神官」「尼」「平民」「新平民」「非人」「穢多」(えた)、などの身分が記載されており、誰もが自由に閲覧できました。 ところが、昭和43年(1968)に、差別部落の人を探し出す事件が発覚し、大企業での採用取り消し、部落民との結婚禁止などという事件も発覚し、同年、「閲覧」および「公開」を禁止し各地の法務局に「永久封印」とされました。 つまりは、身分制度が悪いのではなく、それを悪用する人がいたから問題になったと考えます。 (5)武士道は明治時代に新渡戸稲造が捏造した はい、これは正解です。 (6)教育レベルは低く識字率が高いというのも嘘 とんでもございません。 米国の初代公使タウンゼント・ハリスが本国政府に送った書簡の中に、 「日本人は、少なくとも半分以上の人が文字の読み書きができる。さらには、日米和親条約の提携において、日本人は英語を覚えるのが著しく早い。これは、驚くべきできごとである。」 と記載されています。 米国の某資料によると、識字率は、 日本人・・・・約60~65% イギリス人・・約35% アメリカ人・・約25~30% フランス人に至っては・・何と約4% という統計が公表されています。 なぜ、日本人の識字率が上がったか。 これは、言うまでもなく、「寺子屋」のおかげでした。 お寺は江戸や大坂などの大都市はもちろん、地方でもお寺は大事にされ、そのお寺の「お礼」が寺子屋で文字や読み書き、さらには、算盤、なども教えたのです。 従って、例えば、江戸を例にとっても「札の辻」などに立てられる「高札」を大部分の庶民が読めました。 また、「南総里見八犬伝」などという小説が大ヒットしました。 ご存じ、「瓦版」なども飛ぶように売れました。 もっと手軽なところでは、「絵草紙」なども自由に貸し借りができ大概の人が読めたのです。 No2へ続く・・・

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) 本当に、詳しく教えていただき感謝(^∧^)です。 旅行ができない、禁止されてた,,,って、「東海道中膝栗毛」とか、上方落語の「旅ネタ」と、おもいっきり矛盾するんですよねぇ。この程度の常識の持ち合わせもないのに、大学院で教えるとは、エエ度胸ですな。(。・´д`・。) >御師 「伊勢音頭」の、福岡貢ですね。 江戸時代の教育水準が低いって、言ってる八幡せんせぇの教育水準も、大したことないですよね。( ・`д・´)

skyhigh555
質問者

補足

福岡貢で、追加です。「万呼べ万呼べ、万野を呼べ」ですな。

  • staratras
  • ベストアンサー率40% (1439/3512)
回答No.5

そのものズバリの書名ですが、「江戸時代とは何か 日本史上の近世と近代」(岩波書店)という書籍があります。著者の尾藤正英氏(1923年-2013年)は日本近世史・近世思想史の研究で知られた歴史学者で東京大学の名誉教授でした。 「江戸時代とは何か」ということを思想史の面から考えるよいきっかけになるかと思います。

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) むちゃくちゃ、僕が柔軟体操やってるみたいな(極めて固い)本ですな。 今さっき、春陽堂文庫の「旗本退屈男」をアマポチ(Amazonでポチッとな)した僕に、歯が立つかしらん?😅😅😅

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10466/32910)
回答No.4

「アゴラ 八幡 江戸時代」で検索してみました。思わず失笑してしまいましたね。そもそも「江戸(徳川)時代は暗黒の時代だった」というのは大日本帝国(明治政府)のプロパガンダなんですよ。明治政府は徳川幕府を倒して誕生しましたからね。前の時代は否定しておかないと。 そしてその大日本帝国のやり方をほぼそっくり真似したのが北朝鮮です。今の北朝鮮人民は、戦前の日本人みたいなものですよ。「神州不滅」「無敵皇軍」なんてね。 >鎖国のせいで軍事力が低下し植民地にされかかった 中国や朝鮮から侵略もされなかったし、国内で内乱も起きなかったんだから軍事力がそもそも不要でした。警察組織だけで国内治安を保つには十分でした。 >科学技術も300年遅れたままだった 江戸時代は200年ですから、100年捏造していますね・笑。吉宗時代に学術書や医学書に関しては解禁されるようになりましたが、当時の保守層は蘭学を「蛮学」と呼んで取り入れようとしなかったんですよ。幕府(政府)の問題ではなく、人々の問題です。 >国民の大半は引っ越しも旅行も禁止の半奴隷状態だった 別に日本に限らず、18世紀以前の農民のほとんどは自分が住んでいる場所から半径15キロを超えて移動することはありませんでした。これは海外の研究で明らかになっているんです。移動は馬か自分の足に頼らなければならない時代は移動するのはそれだけ困難なのです。 むしろお伊勢参りという「観光旅行」が存在していたのは世界的に見ても珍しいです。これは貨幣経済が行き渡っていたからという理由もあります。 >女性差別と部落差別は江戸幕府が創り出した 別に幕府の命令で作られたものではないですよ。最近は教科書からも「士農工商」は消されていますからね。 >武士道は明治時代に新渡戸稲造が捏造した これはまあ概ねそうですが、でも江戸幕府は関係ないですよね・笑。 >教育レベルは低く識字率が高いというのも嘘 江戸時代には「女性向けゴシップかわら版」があったんですよ。スキャンダルなんかを報じるものです。そういうのがあったということは、それだけ文字が読める女性が多かったのです。もちろんひらがなと簡単な漢字が読めるという程度でしたが、アルファベットは26文字しかないのに欧米の識字率はもっと低いよ。 >下級武士から上級武士になるのすら不可能に近かった そりゃ日本だけに限らず、世界中どこでも下級貴族から上級貴族になるのは極めて困難ですよ。 しかし江戸時代の場合、ジョン万次郎や最上徳内のように農民から武士に取り立てられることはしばしばありました。必要があればそういうシステムがあったのです。 >北朝鮮なみに禿げ山だらけで環境先進国は嘘 どこの話をしているのか、原典が不明。 >北朝鮮と同じように餓死者が続出 飢饉のときはね。でもそれは当時の世界中どこの国でも同じ。しかし江戸幕府は振袖火事以降江戸で災害が発生した場合は江戸城の備蓄米が窮民に無料開放されていました。それは最短で災害翌日に炊き出しが行われ、しかもお粥にして出されるという丁寧ぶりでした(普通にご飯にすると体力が消耗している被災者はお腹を壊して死んでしまうので、お腹を壊さないようにお粥にされていました)。 同じ頃の欧州諸国では、災害発生時の難民救済は教会の仕事で政府の仕事ではありませんでした。 >裁判や警察制度が不十分で切り捨て御免も伝説ではないし、サドマゾ刑罰に拷問もやり放題 警察制度が不十分て・・・勉強不足にも程があります。江戸で火事が発生すると、伝馬町の牢屋では罪人を解き放たれていた事実をどう思うんでしょうかね。 こんな人を教授にしている大学なんて、どんな大学なんだと徳島文理大学の偏差値を調べて・・・

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) 細かく指摘していただき、ありがとうございます。要は、重症の妄想に不勉強が併発したんですね。 質問の時には抑えて書きましたが、なにしろ、ウソでも大学院の教授なのに、どう検索🔎しても論文が出てこない。冗談みたいなアホです。 さすがに、平仮名の読み書きが出来たら学長表彰される○島文○大学と、極道館大学・大学淫狂授で、市長選挙に2度も落選してるだけの事はありますね。哀れです。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.3

 江戸時代が今の北朝鮮と同じだったと考えるような人を相手にしてはいけません。  本棚にたくさんの史書や歴史小説などが並んでいますが、たくさん読んでどこにナニが書いてあったかうろ覚え状態になっています。ベストアンサーは決めないということなので、私も気楽に、チェックせずに私の江戸観を披露いたしますが(質問を閉めるだけは閉めてくださいね)、様々読んで育まれた江戸観だとお持って下さい。  例えば、明治期に日本にやって来た人(イザベラ・バードさん?)は子供の識字率の高さに驚いてました。文字を知る子が自分の国より多い、と。  君主(為政者)の思想として、上杉鷹山の「伝国の辞(でんこくのじ)」を上げておきます。  それは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる「藩主としての心得」なのですが(手抜きしてウィキより引用) 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候  特に、3番目のヤツね。感動ものです。  この境地は、教えられず生まれたものではありません。彼を教え導いた先生(他藩出身)がいたわけです。つまり、そういう先生を偉いとして、藩主の師にしよう、師にすべきだという価値基準に立って世に押し出す人々が日本中のアチコチにいたのです。  だれも、「危険思想だ」なんて言わない。  出身地はどこだったか、現地ではその人を記念する大公園ができています。アメリカ大統領の・・・ T. ルーズベルトでしたっけ、この思想に感銘を受けて日露間の和平を仲介したのは。  キム王朝の王様が、このような発想(人民のタメにキム王朝があるのであって、キム王朝のために人民がいるのではない!)を持っていると、その人は思っているのでしょうか。  そのほかたくさんありますが、その人は、およそ、論じ合うに足りない人のようです。

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) 農文協の「聞き書・山形の食事」を読むと、上杉鷹山公は、領民の食事の改善にも気を配られた名君だったようです。もちろん、お書きになっている様な大政治家でもあります。「上杉鷹山・なせばなる」って歌🎤もありますな。八幡せんせぇは、それも否定したいのかなぁ? >論じ合うに足りない人のようです。 激しく同意します。まぁ、罵って軽侮するには足りる人ですが。 念のためですが、相手になんかしてませんのでご安心を。

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4846/10257)
回答No.2

その人の事は全く知りませんが、明治時代を賛美するためにその前の時代を悪く言っているのではないかと。 江戸時代というと、飢饉に苦しみながらも、生産力が上がっていった時代でしょうか。世界一の都市江戸や上方では都市文化が栄え、商業も発展した。

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) ねぇ。 外食が広がり、「一生に一度はお伊勢参り」と言われ、歌舞伎が大衆娯楽として定着し、滑稽本を始めとする戯作が栄え、北斎や写楽の絵画が受け入れられた時代が、真っ暗だったわけがないですよね。 やっぱり、八幡巻きは超ド級のアホバカですね。ついでに言うと、こいつは名題の痔民党・アへしんぞーばんざーい!でもあります。お暇なら、「アゴラ」をご笑覧(マトモな記事を書く人も多いですよ、例えば早川忠孝氏・常見陽平氏・駒崎弘樹氏とか。ノビーこと池田信夫と、新田哲史、それに、この八幡和郎みたいなゴミ生産者もいますけど。)ください。

  • gongorogon
  • ベストアンサー率16% (705/4247)
回答No.1

頭が切れて平等なお裁きをする名奉行、遠山の金さんがいた時代。本ではありませんが、テレビでやってましたよ。

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) そうそう、ご存知いれずみ判官、千恵蔵で,,,え、古すぎ?う~ん、なら橋幸夫、松方弘樹、中村梅之助。「この桜吹雪が、目に入らねぇか❗」←ホントに言ったんでしょうか。入れ墨のお奉行がいたのは事実らしいですが。

関連するQ&A

  • 江戸時代のベストセラー。

    江戸時代のベストセラーと言えば、十返舎一九『東海道中膝栗毛』を思いついたのですが、『東海道中膝栗毛』以上に売れた本はありますか。 また、どのくらいの部数(冊数)が売れたのでしょうか。 Wiki「東海道中膝栗毛」によれば、 「人気作品となり刊行は『東海道中膝栗毛』と『続膝栗毛』あわせて20編・21年間の長期に及んだ」とあります。 よろしくお願いいたします。

  • 近世文学とお菓子、江戸時代の食文化

    大学で近世文学ゼミに所属している者です。 卒論で、江戸時代のお菓子、または庶民の食文化を扱いたいと考えているのですが、具体的な構想がなかなか固められません。 お菓子やその他の食べ物が登場する近世文学作品といえば、お菓子好きな十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や、井原西鶴の作品群を思いつくのですが…。 それらから、何をどう論じればいいのやら、困っています。 江戸時代には料理本などもたくさんありましたが、文学とは離れてしまうでしょうし…。 アドバイスやヒント、アイデアをお聞かせ願えれば幸いです。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代、関西の浮世絵師・版元は・・?

    江戸時代、出来れば延宝(1673)~元禄(1704)時代の、 関西に居た浮世絵師及び版元を調べています。 江戸(東京)に限ると腐るほど資料は見つかるですが 関西に関しての浮世絵・版元の資料は少なく感じます。 江戸に出版が集中していたが関西に版元も絵師も居た、 と記述もどこかで見たのをチラッと見たのを 覚えている程度です。 市販されているよい文献などありましたら教授 いただけると幸いです。 ネットや図書館でも探しているのですが 持ち出し禁止の本などが多く、ヘタに西鶴さん なぞの原文も解読できず・・・・・ ヤレ困ったなと言う感じです。

  • 江戸時代の本

    江戸時代、東海道中膝栗毛とか町人が読むような小説等の本の値段は現代の貨幣価値に換算するといくらくらいしたのでしょうか? 現代の本の値段に比べてどのくらい高かったのでしょうか。

  • 江戸時代の娯楽

    江戸時代の代表的な娯楽というとどんなものがあったのでしょうか? 素人の私が思いつくのは歌舞伎や浮世絵、本(小説)、落語とかそんなものです。

  • 江戸時代の京阪の絵師・版元は・・・?

    個人的に調べています。 江戸時代、主に元禄期前後の大阪・京都、京阪の絵描き、版元はどこの誰だっただろうかと探していますがかなり資料が少なくあります。 浮世絵全盛期、西ではどのようにして出版が行われていたのか、質問の仕方が乱暴で恐縮ですがご教授いただけると幸いです。

  • お薦めの江戸文学は?

    岩波文庫の「東海道中膝栗毛」を読みました。 次は、どの江戸文学を読もうかと考えています。 「浮世風呂」なんかが良さげですが、いかがでしょう? 滑稽で読みやすいのがいいのですが・・・ お薦めの本があったら教えてください。 あと、入手方法(××文庫にあるよ、とか)も 教えていただけると嬉しいです。

  • 江戸時代の版本を読む

    浮世絵などに、ぐにゃぐにゃした文字が書かれていることが ありますが、あれを是非読めるようになりたくて、江戸かな (変体かな)の勉強をしているのですが、最近色々な原本を片っ端 から読んでみたい、という欲求がわいてきました。多分図書館に 行っても、そういう古い本は借りることができないでしょうし、 古本屋にあっても高過ぎて買えないと思います。また、題名が はっきりしないので探すのも大変だと思います。原本を写真に 撮ったようなもので安価に入手できる本はないものでしょうか? 以下の条件を満たすものを希望します。 ・江戸時代の庶民または子供が読んだもの 往来もの? ・版本(赤本、青本、黄表紙など) ・絵が多く、かなもしくは、漢字にふりがなをうったもの

  • 江戸時代の大坂を舞台にした小説など

    作家志望のものです。 江戸時代の大坂(元禄時代の方が助かります)を舞台にした小説、映画、漫画 また、史学の本、新書などで良いのがあれば教えていただけないでしょうか。 町人文化、人形浄瑠璃などについて、話を書きたいと思っています。 また、大坂の寺子屋を舞台にした作品があれば、そちらも教えていただけると 非常に助かります。 アバウトな質問で失礼しますが、よろしくお願いしまsじゅ。

  • 江戸時代 絵画から庶民文化語れる?

    江戸時代に限った話ではないですが、とりあえずここでは江戸時代の話でお願いします。 今でこそ私たちは本やテレビやインターネットで様々な作品を見ることができますが、昔はそんなものはなく気軽に絵画に触れる機会が無かったように思います。浮世絵は流通して庶民の文化として紹介されているのを見ますがではそれ以外の絵画はどうなのでしょうか?今の私たちが知っている応挙や若冲や芦雪や…そういった画家の絵を見る機械はあったのでしょうか?寺にあるものは庶民も見ることができたのでしょうか? つまり、当時の絵を見てそのころの文化について語ることは可能なのでしょうか?絵から推察できるのはあくまで特別な身分の人々の文化なのでしょうか? みなさまのご意見お聞かせくだされば幸いです。