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1950年台半ばから1970年代初頭の質問

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・仕事の様子について
・経済成長下で良かった点、苦労した点
・社会、環境の変化
・経済成長を振り返っての感想
・経済成長があなたの地元の雇用、地域経済・社会、諸産業分野、環境などに与えた具体的な影響

簡単でも詳しくでもいいのでこんな感じのことを教えてほしいです!

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.2

ベストアンサー率 32% (2556/7864)

社会 カテゴリマスター
50年代はまだ失業者も多く(出征していた人が 一度に帰ってきて 工場は空襲で壊滅)失業対策事業という公共事業がありました。
道路工事など 屋外の肉体労働で 夏は 真っ黒に日焼けして働いている人たちがいました。給料は日給で240円 ニコヨン と呼ばれていました。
町を流して歩く職業。傘の修理。鍋釜の修理。道に落ちているくず鉄拾い。
販売業は 金魚 物干しざお 花 豆腐 納豆
「きんぎょーーーーぉい きんぎょ」「さおやーーーーぁ さおだけ」
などと歌うようなリズムで流していきます。
夏は金魚 冬は石焼芋という季節の風物詩でした。
お米は配給制度がありましたが 配給米は 収量だけで選んだ品種なので味は二の次。味に贅沢な人は 闇米を買っていました。配給米は米屋 闇米は八百屋。
街には露天商もいろいろありました。
ガマの油 龍の一筆書き 簡単な手品用品 バナナのたたき売り
小学校の前には 生徒が帰るころ 子供相手の露天商。
手作りっぽいおもちゃなどを売っていました。
白装束の傷痍軍人さんも首から募金箱をぶら下げて立っていました。
この街は 空襲で焼け野原になってしまったので 都市計画は 碁盤の目のような縦横きっちりとした区画に 広い道路という きれいなまちづくりがされています。
でも道路の舗装はゆっくりで 中心の商店街と 路面電車の通るところからでした。
少しずつ景気が回復してくると 朝は工場に向かう人たちの行列 大量の男たちがバスから降りて歩いていきました。
大和を作った工場で 10万トンタンカーを造っています。その隣は 材料になる製鉄所。風向きにより 夕方の空が赤く(夕日の沈む方向ではなく)見えるようになってきます。水俣病が発生したのは50年代終わりごろ。
経済発展に重要な産物を作っていたので政府はチッソを守り 患者は見捨てる政策です。50年から53年朝鮮戦争による軍需景気。これをきっかけに高度経済成長が始まったのでしょうか。
求人はとても多くなり 労働者側は売り手市場。
月給は初任給で3000円ぐらい。
給料も毎年上がっていきますが 物価も上がります。水道 電気 公共料金も上がります。
そのたびに政府は 水道代÷全体という計算をして 物価に対する影響はない などというごまかし。
全体で割ればごくごく小さい数字になるのは当たり前。国民を馬鹿だと思っているのか(国民は毎日仕事に追われて政治のことなど考える暇もなかった)
54年自衛隊成立。
このころから進駐軍のアメリカ兵に替わって 自衛隊のセーラー服が歩く姿が見られるようになりました。セーラー服=海上自衛隊。
進駐軍は次々と帰国していき 我が家には彼らが飼っていた犬が残されました。
飼い主に見捨てられた 裏切られたと感じる犬は決して人に慣れることはなくかみつこうとするので 鎖につながれたまま散歩にも連れて行けず さらに人間不信に陥るという負のスパイラル。青い目をした子供たちも残されていきます。
姉の同級生はある日突然 ブラジルに家族全員で移民に それ以来再会することはありませんでした。青い目の子供も 今度アメリカに行くんだと言ってから見なくなりました。
小学校の子供たちは 冬でも半ズボンにズック靴 靴下などははいていません。
毎年クラスが一つ増えていく感じで ひとクラス50人。
放課後の遊びは野球。遠足は文字通り学校から歩いて出かけます。
子供のお小遣いは 1日10円 お年玉が100円。10円で飴玉10個。箱入りのおまけつきグリコキャラメル。駄菓子屋のチョコレート5円。
中学から隣の市に通学することになり 電車通学じゃなくて SL 蒸気機関車の列車。
自動車工場に行く人たちもたくさんです。ホームに列車が入ってくると まだスピードが落ちないうちから飛び乗っていく人もちらほらと 中にはちり紙を手に持って 手すりをちり紙でカバーしながらつかむという潔癖症かという器用な人も。途中のトンネルに入る前に窓を閉めないと 煙が車内に入ってしまう。
学校まで約1時間。みんな小学校のすぐ隣の中学に行くので 私は一人だけ。
高度経済成長の時代は 建築も盛んです。大きな建物は基礎から作ります。
太くて長い杭を立てて 蒸気ハンマーで叩きこみます。
町中に響くような大音響。振動も半端ない。でもクレーマーはどこからもわいてこない。杭は何十本も打ち込みますから 大騒音と振動は 何日も続きます。
数か月かな。今でも仕事だと言えば騒音も許されるみたいなことを言う人がいるけど 当時はこれで当たり前だった。当時は建物の高さは6階建てまででした。
母は女ばかり7人姉妹。順番に結婚していきますが 相手の職業は 鉄道員 警察鑑識 工場勤務 自衛隊 などバラエティー豊か。女の人はみんな専業主婦。
街中に店をだしているので よく赤ん坊をつれてきたりしていました。
おっぱいをあげたり スカートをめくって靴下を履き替えたり 見慣れた風景に
集団就職という言葉が使われるようになったのはこの頃からでしょうか。
都会では進学熱がはじまり 地方の農村では 次男以下は中学を出ると就職するということになり都会の求人に彼らが集団でやってくるということに。
中卒は金の卵と呼ばれてもてはやされたというように表現することもありますがその実は 安い労働力ということです。安い給料でまじめに働いてくれる 企業側から見た金の卵です。都会に出れば仕事はいくらでもあった時代です。
求人のほうが多いので初任給も毎年上がっていきます。
給料が上がると 税金も増えます。国家予算の元になる税収は 何もしなくても毎年大幅に増えていきます。そこで野党は減税要求を目玉にして 毎年 看板のように持ち出します。
自然増の税金を少し下げるだけで野党の手柄になるという茶番劇はこのころから始まっている。
当時は 自民党 社会党 民社党 共産党 この四つの政党です。大きさもこの順。民社党は野党のはずなのに なにかあると与党にくっつくというおかしな政党だなと 子供心に感じてた。共産党は 人数の少ない 少数政党。
原水爆禁止を求める団体がふたつあったけど ひとつは 全ての国の原水爆を廃棄 実験は中止を求めるけど もうひとつは 共産圏は禁止を求めないという団体。おかしな団体だなと思っていたそれが共産党の団体だった。
のちに聞くところによると 東西のバランスのため アメリカに匹敵するまでは 共産主義の国には禁止を求めない。という理屈だった。
高度経済成長は 政治家もたっぷりと恩恵を受ける。
日本列島改造計画 高速道路 新幹線 本四架橋 等
政治家官僚たちは 国土計画を一般より先に知る立場にある。
計画のある土地を先行取得することで濡れ手に粟の大収穫。これで財を成した人たちが現在の大物政治家と呼ばれる人たちの先祖(一代前の)。

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  • 回答No.1

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・仕事の様子について
みんなよく働きましたね、月の残業100時間は当たり前。200時間はざらでした。過労死なんておかしな言葉はありませんでした。100時間程度で死んでいたら仕事になりませんでした。誰も文句は言いませんでした。
・経済成長下で良かった点、苦労した点
毎年給料が3割上がり、3年で倍になりました。夢と思っていたマイカーやマイホームも持てるようになりました。仕事は忙しかったが、明日があるので苦労とは思いませんでした。
・社会、環境の変化
公害がひどかったですね。水銀中毒の水俣病やイタイイタイ病など、あちこちで起きました。東京湾は死の海でした。海産物が取れず、臭うので海水浴など出来なかった。やっときれいになったのは90年代です。
・経済成長を振り返っての感想
とにかく世界第3位の経済大国になれたのは経済成長のおかげです。低成長の今、この豊かな生活水準をいつまで続けられるかが問題です。若い人も働かなくなったし。
・経済成長があなたの地元の雇用、地域経済・社会、諸産業分野、環境などに与えた具体的な影響
今の豊かな生活水準がそれを物語っています。全国津々浦々、高速道路や新幹線やコンビニがあって、その気になれば何でも手に入る。貧乏人でも子供でも金のかかるスマホゲームを楽しんでいる。働かなくても生活保護がもらえる。いつまでこの状態が続けられるか、それだけが心配です。
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