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歴史、教えてください
前期、中期、後期の古墳の特徴を比較して、王権の変化について簡単に教えてください!
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- ichikawa2017
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築造年代と王権との関係は以下のように考えられています。 前期(4世紀):副葬品に鏡や勾玉などの玉などが主体で呪術性が認められることから被葬者は政治的な権力者というよりも司祭者の役割を果たしていた人物だったとされています。 この司祭者によって全国の王族に呪術性のある鏡が配布されたのではないかと考えられています。 大和地方にあった政治権力が地方の王族を従える際に呪術性のある鏡が配布されたのではないかと考えられています。 中期(5世紀) 墳丘の大型化と分布域が拡大した時代です。 大和地方の政治権力が強大化したことによるものと考えられています。 副葬品に武具や馬具が多く認められることから軍事力を背景として強大化していったと考えられています。 後期(6、7世紀):中期のような巨大な前方後円墳単独ではなく方墳・円墳、八角墳など小型のものが多数集結して築造されるようになった時代です。 墳丘の規模は縮小されますが、副葬品は豪華になっています。 支配者層だけではなく裕福層の人々が築造するようになったことによって多様化が起きたと考えられています。 ヤマト王権の確立後、中央・地方の統治組織が出来上がり、より強力な政権へ成長したことの現れだと考えられています。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 古墳の変遷 ★一般的に言われる「古墳時代」は、およそ3世紀~7世紀、と言われており、これが現在では「定説」となっています。 *3~4世紀を「前期古墳時代」。 *5~6世紀を「中期古墳時代」。 *7世紀を「後期古墳時代」。 と分類されます。 ★古墳の形態の変化 *前期古墳の形態 自然の地形を巧みに利用して人工的に盛り土などをして「前方後円墳」を造っている。 *中期古墳の形態 同じく「前方後円墳」が主流ではあるが、平野部に周豪(堀)などを巡らせて大型化をしている。 *後期古墳の形態 ところが、後期古墳時代に入ると、前方後円墳は忽然と姿を消して、「円墳」や「方形墳」へと小規模化してしまっている。 この中期と後期の比較で良く用いられるのが、 5~6世紀頃造営されたと思われる「仁徳天皇陵」(大仙陵古墳・大阪府堺市)。 6世紀後半~7世紀前半に造営されたと思われる「耳原古墳」(大阪府茨木市)。 (写真等はPCで検索をしてみてください。) 古墳と王権の関わり合い ★前期~中期にかけては、その土地の豪族たちが自分たちの権勢を誇る(見せつける)意味合いで、唐や朝鮮半島からの仏教思想に基づき「前方後円墳」形式を取り入れて、競って巨大な墳墓を造ろうとした。 ★後期に入ると、これは「大化の改新」が大きく関わってくる、と言われています。 ★「大化の改新」とは(簡略に解説すると)。 中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原氏)が飛鳥寺(奈良県明日香村)で行われた蹴鞠(けまり)の催事で知り合った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と組んで、当時、権勢を振るっていた蘇我入鹿(そがのいるか)を大極殿で討ち蘇我氏を滅ぼした。以後、蘇我氏に代わって中臣氏が豪族のトップクラスとなった。やがて、中大兄皇子は天智天皇となり、中臣氏とも相談のうえ、次々と新しい「きまり事」を発布して、中央集権国家の確立を目指した。 ★主な「きまり事」 *「班田収授法」戸籍を作り田畑の面積を測り収穫量を予測して台帳を作った。 *「租庸調」土地(田畑等)は国家のものであり、民は国家から土地を借りて生活をし、そこから収益を得ているので「税」を納めること。また、国家は民を護ってやっているので労役奉仕を進んで行うこと。 *「薄葬令」質素な墓所とすること。 これらの「きまり事」を発布し、推進したことにより、「律令国家」が成立した。 この第3番目の「薄葬令」により、6世紀後半~7世紀にかけては墳墓は小型化をしていった、と考えられています。 以上簡単ですが、あなたのお役に立てば・・・。