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オランダと天皇

オランダと昭和天皇と今上天皇に付いてですが、1971年に昭和天皇がオランダを訪問された際はオランダ国民から生卵や魔法瓶等を投げ付けられる等されましたが、2000年に今上天皇がオランダを訪問された際は昭和天皇の時とは違いオランダ国民から歓迎されたのは何故なのでしょうか?オランダは反日感情の強い国らしいですが、昭和天皇の時は生卵等を投げ付けられたのに今上天皇の時は歓迎されたのは何故なのでしょうか?美智子様がオランダ人少女を抱擁するシーンも有りましたし。

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  • shpfive
  • ベストアンサー率40% (21/52)
回答No.3

こちらのURLにもありますが、我が国とオランダとの関係修復には村山談話が大きなきっかけとなりました。 https://grapee.jp/131110 >転機が訪れたのは、終戦後50年にあたる1995年。他国に対し植民地支配と侵略によって、多大な損害と苦痛を与えたことを再確認、謝罪を表明した『村山談話』でした。 それをきっかけとした『平和友好交流計画』が始まり、『アジア女性基金』などの償い事業も実施され、少しずつ両国は歩み寄りを始めます。 そして両国の関係修復を決定的になされたのが、今上天皇皇后両陛下と言われています。 >オランダとの確執に対し、当時の記者会見で、天皇皇后両陛下はこうお答えになっています。 天皇陛下 第二次世界大戦の時に,戦火を交えることになったことは返す返すも残念なことでした。この戦争によって多くの犠牲者が生じ,今なお傷みを抱えている人々がいることは本当に心の痛むことです。このような両国民の間の交流の歴史を全体として認識し,その上に立って,一層の友好関係を進めていきたいと願っていることを伝えたいと思います。 →一方で昭和天皇実録によると、このような事件も発生しています。 《お召自動車が(オランダ)ハーグ市内に入った午後四時三十分頃、車体に液体入り魔法瓶が投げつけられるという事件が起きる。魔法瓶はフロントガラスに当たるが、防弾ガラス付きのものであったため外側に亀裂を生じさせたにとどまり負傷者はなかった。(中略)同夜、日本国大使公邸にお立ち寄りの際、(中略)この度の事件は大したことではないが、大きく取り扱われて両国関係に悪い影響を与えることのないよう同行記者団によく話しておくようにとのお言葉がある》 (昭和46年10月8日) 昭和天皇自身もはこんな御製(ぎょせい)を詠みました。 「戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ」 この当時はまだまだ先の大戦当時の記憶が風化しておらず、天皇をファシストの同類のように見ていた人たちも健在でした。 何しろドイツ訪問の際にも 《ボン市中心部で、約三百名の極左学生を中心とする「日本帝国主義反対、天皇の戦争犯罪抗議」運動が行われ、警官隊が放水車により鎮圧し、関係者数名が逮捕される》 (10月12日、ドイツ) という事件が起きているくらいですから。 なお、このドイツの事件でもわかるように「インドネシア独立」そのものは、案外大きな影響を持っていませんでした。 この時の昭和天皇による欧州訪問は、それこそ行く先々と言ってよいほど、現地で激しい抗議デモに見舞われたのか事実です。 そこで問われたのは、いわゆる「昭和天皇の戦争責任」であり、旧日本軍による捕虜虐待などの蛮行に対する抗議という要因も大きかったのが現実でした。 欧州の人たちは当時の日本の国内事情など斟酌しません。 どう考えても「戦争責任」がある「はず」の昭和天皇が不問にされている。 その事に対する怒りと当惑が、こうした抗議活動などにつながったのは否定できないと思います。

noname#240717
質問者

お礼

有難う御座います。

  • koncha108
  • ベストアンサー率49% (1313/2666)
回答No.2

戦後オランダは反日的でした。太平洋戦争時に多くのオランダ人を捕虜にして過酷な環境に晒し、またオランダ人女性を国際法に違反し慰安婦にしました。戦争時には敵であり、また戦後インドネシアがオランダから独立するきっかけを作った日本を快く思うはずはありません。昭和天皇が訪問した1971年はそう言った反日感情が強く残っていた時代なので歓迎されないのはある意味当然。ただ、私は1980年代に初めてオランダに言ったのですが、旅行ガイドにも全く反日的な話しは無かったし街をウロウロしていてもそんな気配は感じられませんでした。一部では根強い反感があったのでしょうが、遠い東南アジアでの話しであり、ヨーロッパで凄惨を極めた第二次世界大戦のアジアでの一幕と言うことだったのかも知れません。1995年の村山談話とアジア女性基金で補償金とともに村山元首相のお詫びと償いの手紙が添えられていて、その謝罪の気持が被害者の感情を相当和らげ、そこから反日感情が徐々に薄らいでいったと言うことです。もともと江戸時代からのつながりがあって、国、国民の関係の上に王室、皇室のつながりがあるので関係修復もできたのかも知れません。 インドネシアに関しては、元々オランダが植民地にしていて反感が持たれていたところ日本が開放した一面もあってオランダからすれば憎き日本でしょうが、インドネシアからすれば憎きオランダで、戦後日本の残留兵がインドネシア独立のために一緒に戦って貢献もしました。一方でインドネシは日本から賠償金を受け取った物の日本の侵略に対する国民の反日感情も残り、感情面での関係回復には継続した努力が必要でした。オランダはサンフランシスコ平和条約で日本への賠償請求権を放棄しているのですが、やはり個人の補償金請求問題は続き、かたやオランダはインドネシアの独立を認めるにあたって資産、金銭的な請求をインドネシアに行い反感を買うなど、かなり複雑な三つ巴の状態が戦後あったことも、結果的には日本ーオランダの感情・補償問題だけが際立たない理由にもなったと思います。

noname#240717
質問者

お礼

有難う御座います。

回答No.1

太平洋戦争の時 日本は最初オランダを交戦国としてませんでした 当時オランダが支配していたインドネシアを明け渡せばオランダとは戦わない と通告しましたがオランダは聞き入れず 結局日本に攻められて9日でインドネシアを失いました 戦後オランダはマーシャルプランを無視 アメリカを激怒させました その時 戦時賠償と言う形でオランダに多額のお金を払ったのが日本 なのでオランダは昭和天皇と当時の日本に対しては反日ですが その後の外交努力や 天皇陛下の人柄などもあると思います 元々敵対してた国ではありませんし ちゃんと理解さえ進めば相互親交は可能なんだと思いますよ

noname#240717
質問者

お礼

有難う御座います。

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