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北条討伐で

川原 文月(@bungetsu)の回答

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回答No.9

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ★天正18年(1590)4月、家康は北条氏討伐の先鋒を任され、見事小田原城の開城に成功しました。 ★戦の後の「論功行賞」で、家康の家臣たちの多くはそれ相応の領地が増えるものと考えていたが、秀吉から告げられた言葉は、これまでの領地であった出身地の三河を初めとする遠江、駿河、甲斐、信濃を召し上げての関東(上野、下野、武蔵、下総、相模、上総、伊豆、小田原)への領国替えであった。 ★家康は決意の言葉として、 「我、たとひ旧領を離れても百万石の領地さへあらば、上方に切ってのぼらん事容易なり。城を築く場所をあやまればすなわち秀吉のわなにはまり、天下の道も閉ざされ候」 と、家臣に言ったといわれている。 ★居を構えるにあたっては、3つの候補地があった。それは、北条氏の居城のあった小田原、鎌倉幕府が置かれていた鎌倉、そして、江戸であった。 しかし、城を構えるには3つの条件が必要であった。一、防御力。二、経済の発展性。三、港湾施設。 ★家康は考えた。 ==小田原では、北条氏を倒したことによる領民の反発を買うかもしれない。では、鎌倉はどうか。目の前には海が開け、背後は三方が山に囲まれて要害としては申し分がない。だが、大きな街作りには適していない。では江戸はどうか?== ★「江戸城静勝軒詩序」によると、 「江戸は茅葺(かやぶき)の家が100軒ばかりなれども、商旅大小風帆なり(さまざまな船が行きかい)、安房の米や信濃の銅、和泉(大坂)の珠玉、日々市を成せり」 と、当時は人口が少ないにもかかわらず、非常に商業活動が盛んな地であったようである。 ★そして、秀吉からも「江戸あたりがよろしかろう」との口添えもあり、ついに、家康は江戸に居を構えることとしたのである。 ★家康はこんな言葉を残している。 「御身(家康)はこれより東の方、江戸という所あり。他国もて吟味するにいとも形勝の地なり、その所を本城と定められんこそよけれ」 ★この言葉を聞いた秀吉は、「誠、篤実一遍の人なりや」と誉めたたえたと言われている。 ★秀吉にしてみれば、「できるだけ遠くに住んでもらいたい」という思いもあったのであろうが、家康は家康で、「秀吉の言葉に背いたら、どんな言いがかりをつけられるか知れたものではない」という思いもあったようである。 つまり、主に平安時代あたりから、西国は非常に開かれた地という感覚があり、朝廷をみても坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任じたように、「東国は野蛮な地」との考えが定着していた。 従って、加藤清正や福島正則を東国へ配置することは、「左遷」を意味していることです。 前記のように、 1.秀吉は「できるだけ遠くに行って欲しい」。 2.家康を関東(江戸)あたりに行かせれば、当然、未開の地であるから、都市造りには莫大な支出をよぎなくされ、財力も使い果たすだろう・・・との秀吉の「もくろみ」があったと考えられます。 しかし、家康は「したたか者」でした。 ★家康は江戸に居を構えることとしたが、当時は、城の東側は低地で海水が入り込む茅(かや)や葦(あし)原野。北西は茅やススキの野原が連なる武蔵野の台地がどこまでも広がっていた。さらに、近くには「隅田川」や「利根川」なども江戸湾へ流れ込んでいた。居住地や耕地を造るには非常な困難を極めた。 ★だが、文禄元年(1592)から始まった秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、家康は参陣を免れたため、余分な散財をすることなく、着々と江戸の街造りに専念することができたのも幸いであった。 ★戦がなくなれば家臣たちは暇になる。家康は、主に下級武士たちに命じ、まずは利根川の流れを東に向きを変えさせた。(利根川東遷事業)。そして、葦(あし)原野を山の手から運んできた土で埋め立てをし、城の付近の江戸湾をも埋め立てていった。 ★慶長3年(1598)8月18日、秀吉が亡くなり、慶長5年(1600)、家康は関ゲ原の戦いで勝利をおさめ、慶長8年(1603)征夷大将軍となって江戸に幕府が開かれた。これにより江戸は一躍、日本の中心地としての繁栄の道を歩みはじめたのです。

naoki4865
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