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北条討伐で

ichikawa2017の回答

回答No.3

>秀吉はわざわざ家康の力を拡大する領地を与えました。。。。 拡大させたのは家康自身です。 秀吉が全国を制覇する際に小田原北条氏を後回しにしていたように、関東、奥州は信長、秀吉と徹底して平定していた西国とは違いました。、 伊達政宗も恭順していたとは言え健在でした。 家康が関ケ原の直前に会津の上杉討伐に向かったように上杉も健在でした。 秀吉は伊達政宗とともに奥州征伐を行っていますが、完全に平定していた訳ではありませんでした。 小田原北条氏が滅びても、関東一円には個々の領地は狭いとは小田原北条氏ゆかりの土着の武士が沢山いました。 更に古くは関東公方と呼ばれていた鎌倉足利氏ゆかりの人達もいました。 伊達政宗同様に恭順の意を示していたとは言え当時はすきあらば挙兵していた時代です。 徳川氏のゆかりの地である三河から引き離して、これ等の諸勢力を抑え込ませることで家康の力を削ぐことが目的でした。 家康はもとより家康の家臣団を納得させるには今までの家康の領地より広い関東を与えることで名分が立ちます。 この抑え込みに子飼いの武将を使えば三河地方に根を張る家康の力を削ぐことができません。 蛇足 家康も江戸城が万全の体制になるまでは内陸部への拡大よりも無人の江戸湾の埋め立てに専念していました。 土着の人間とのつまらない小競り合いが起きないようにしていました。

naoki4865
質問者

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