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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸府内の時間「時の鐘」。)

江戸府内の時の鐘の謎とは?

ichikawa2017の回答

回答No.5

No.1~4です いろいろお考えのようですが、その際のご参考までに書かせて頂きます。 >標準となる“時報”がないので、時計の示す時刻が正しいとは限らないからです 江戸時代の不定時法は払暁と夕暮れつまり明六ツ暮れ六ツが基準でした。。 どの時点をもって明六ツ暮れ六ツとするかは、暦を司る天文方で寛政9年(1797年)に暦を改正する際に太陽の仰角を基にして定められていました。 参考 夜明と日暮 - 国立天文台 天文情報センター 暦計算室 eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C7F6CCC02FCCEBCCC0A4C8C6FCCAEB... >当時の時計の精度がどの程度のものか、また高精度のものが芝にあったかどうか不明です 寛永寺で使っていたとされる尺時計のように分銅を重力で動かす構造のものは比較的精度が高い装置です。 一度セットして小まめに調整していれば、当時としては充分信頼が置けるものでした。 現在のように一分一秒の精度など必要がありませんでした。 >高価な時計を設置できなかったのでしょう。 天保年間に18両であったという記録が残っています。 機械式の時計は比較的早い時期から普及していますので精々10両~20両程度のものであったと考えられます。 千石以上の旗本や大名が手が出ないようなものではなかったということです。 むしろメンテナンスや管理に携わる人達の人件費の方が負担が大きかったでしょう。 >幕府が費用を負担して設置したものですから 鐘のある場所によって負担者が誰であったかについても書き残されています。 参考 時の鐘に時計はあった。 : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 wheatbaku.exblog.jp/23360962 抜粋 時の鐘の維持についても書かれている、それによると、本石町・本所・上野・芝の四ヶ所は請負人を定め、周辺の町から鐘撞き料を徴収して維持費に充当した。 その他の六ヶ所は、浅草寺が境内地貸し付け料からの助成、 目白・四谷が托鉢(たくはつ)、赤坂が成満寺の檀家からの寄付、 市ヶ谷では付近の住民の寄付、下大崎村については不明となっている。 逆に石町を特別扱いしたという記事が見受けられません。  >御城から東・南方面にある大名屋敷や高級旗本の屋敷 東や南の低地は基本的には町人地です。 武家屋敷が無い訳ではありませんがこの町人地よりも東或いは南側です 江戸幕府というのは基本的に軍事政権です。 旗本は守備兵として江戸城に近い番町から駿河台にかけて屋敷が与えられていました。 甲州街道は万一の際の脱出路でした。 老中以下日常的に登城する必要のある譜代大名は登城に便利なように江戸城の近くに居住させていました。 忠臣蔵で有名な吉良上野介も高家として現在の丸の内に屋敷がありましたが、事件後以降登城に及ばずということで本所に屋敷替えされていました 外様大名は幕府の役職に就任させませんでした。 日常的に登城する必用がない大名は江戸城から離れた場所に居住させていました。 但し、毛利、島津、上杉については常時監視できる日比谷堀に面した場所に居住させていました。 ご丁寧に毛利家の土地の一画に、お庭番が詰めていたとされる御用屋敷を設けていました。 江戸城から遠い愛宕下大名小路にある大名家に外様大名が多いのはこのためです。 >御城から離れた所に屋敷をもつ大名や高級旗本とを差別しないために、カネを徴収しないと決めたのでしょう。 上記のように根本的に区別していましたから、鐘撞費用の負担など余り関係がないかと思います。 参考 江戸時代の地図と図式【江戸切絵図】其五 - 国土地図株式会社 www.kokudochizu.co.jp/index.php/columnandother/yomoyama-menu... 江戸時代の早い時期から全国の城下町に時の鐘が設置されていました。 農村部では寺院が習慣的に朝昼晩に鐘を撞いていました。 つまりどこの大名も領国の治政に欠かせない時間管理を行っていたと考えられます。 基準となる時計は所持していたでしょう。 一年おきに殿様が政務を行っていた江戸屋敷に時計が無かったとは思えません。 大名領、旗本領、天領が錯綜していた関八州の時間管理はどうしていたのですかね? 川越など大名領には時の鐘がありましたが、その他はどうしていたんですかね~ 近隣のお寺どうしが山勘で適当にやっていたんですかね~。

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 ブログを基にしてあれこれ言っても始まりませんが…。 質問:当時の時計の精度がどの程度のものか、また高精度のものが芝にあったかどうか不明です。 ご回答:寛永寺で使っていたとされる尺時計のように分銅を重力で動かす構造のものは比較的精度が高い装置です。 一度セットして小まめに調整していれば、当時としては充分信頼が置けるものでした。 現在のように一分一秒の精度など必要がありませんでした。 ご提示の「時の鐘に時計はあった。 : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録」から 以下引用: まず、本石町ですが、鐘撞役の辻源七の書留(享保年間)に 「時の勤方之儀は常香盤ならびに時斗貮組を以て相勤申候」 と書かれています。 さらに、元文元年の鐘撞銭の徴収状況と使途について書いた記録が残されています。 この中に、時計磨料 金弐分 、常香 金弐分 と書かれています。 時計磨料というのは、時計の管理費用でしょう。また、常香というのは、「香盤時計」のことです。時計と同様に時刻を確認するため所有していたものと思われます。 これらから、本石町の時の鐘は、時計と香盤時計で時刻を計っていたことがわかります。 引用終わり。 なぜか、「香盤時計」を併用しています。 享保年間でも時計の精度はこの程度であったとも言えます。 図書館で調べてみます。 この質問は、#1、#2のご回答でほぼ解決していますので、締め切りたいと思います。

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