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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸府内の時間「時の鐘」。)

江戸府内の時の鐘の謎とは?

ichikawa2017の回答

回答No.4

No.1.2.3です それにしても、本石町の鐘が気になります。 とのことですので追加で説明させて下さい 通常時の鐘と呼ばれるものは歴史的には「城の鐘」・「寺の鐘」・「町の鐘」とがありました。 これは平たく言えば、鐘撞の維持費用を誰が負担するかの違いとお考え下さい。 つまり寛永寺に置かれた時の鐘は「寺の鐘」で本石町の鐘は「町の鐘」ということになります。 本石町の鐘は武家屋敷が対象外でした。 解説書などでは一般に、(1)本石町(2)上野寛永寺(3)市ヶ谷八幡(4)赤坂田町成瀬寺(5)芝増上寺(6)目白不動尊(7)浅草寺(8)本所横堀(9)四谷天龍寺の順番で前の鐘の音を聞いて順序よく鳴らしていたとされますが、現在正確に順番が分かっているのは寺の鐘である上野寛永寺 東円寺(市ヶ谷八幡)赤坂成満寺 芝切り通しの四ヶ所のみです。 石町の鐘は伝馬町の牢屋敷が近かったこともあり、処刑がある日は時刻を遅らせて撞いていました。 時の鐘は幕府によってやかましく管理されていたとされていますが、案外例外が認められていたようです。 法治よりも人治が優先されていた時代ではのことでしょう 参考 石町時の鐘 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/石町時の鐘 このことを勘案しますと寛永寺を起点とする寺の鐘と石町を起点とする町の鐘との間では順番が違ってくることもあり得たということです。 時の鐘に種類があったことに関しては下記のURLをご覧ください 江戸時代の暮らしと時間 | 時計と社会のかかわり | THE SEIKO ... museum.seiko.co.jp/knowledge/relation/relation_07/index.html 順番があるということは前の鐘を聞いてから次の鐘を撞いたことになりますが、単純にこれをやりますと場所によっては相当遅い場所が出てきてしまいます。 これを解消していたのが捨て鐘と呼ばれる予告の鐘です。 更に鐘を撞く間隔を調整することで遅延を解消していたと考えられます。 詳しくは下記のURLをご覧下さい 時の鐘」の同期手法の科学と謎 - hirax.net::index www.hirax.net/diaryweb/2017/06/04.html >つまらぬ推測ですが、暴風雨時には鐘の音が聞こえにくいときもあって、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」には時計を設置し、暴風雨時や最初に鐘を撞く寛永寺の時計が故障した場合の備えだったのでしょう。 このような理由で時計などを所有していたのではないでしょう。 鐘の音がかき消されるような暴風雨はめったにないでしょう。 頻繁にあるようでは江戸で最も恐れられていた火事を知らせる半鐘が使い物にならなくなります。 遅滞なく鐘を撞くには前の鐘が聞えてから撞き始めていたのでは遅れます。 事前にそろそろだとスタンバイしていたであろうと考えられます。 これには独自に時を知る必要があります。 当時は不定時法で、払暁と日没が基準でした。 これも掌の皺が見えるとか見えないとか極めて感覚的なものでした。 天候によっても左右されます。 これを極力正確にしようとすれば時計などの助けが必要になります。 お寺であれば香盤時計と呼ばれるお香が燃えた長さで時間の経過を測る道具が使われていました。 石町など町の鐘の場合はおそらく和時計でしょう。 香盤時計については下記のURLをご覧ください 昔は香りで時間を計ったって本当?常香盤を探してみよう! - いわの美術 ... iwano.biz/column/kotto/kotto_method/0331-kohdokei-new.html 和時計は城中や武家屋敷でも使われていました。 和時計は別称大名時計などとも呼ばれます。 裕福な大店でも所有していました。 つまり機械式の時計というのは当時は左程珍しい物ではなかったということです。 詳しくは下記のURLをご覧ください。 和時計の世界 | 時と時計のエトセトラ | 日本時計協会 (JCWA) www.jcwa.or.jp/etc/wadokei.html

kouki-koureisya
質問者

お礼

追加のご回答ありがとうございます。 情報が多すぎて纏めきれません。 浦井 祥子著『江戸の時刻と時の鐘』が信頼できますが、地元の図書館にはありませんでした。 そこで、この書籍を紹介しているサイトを主に参考にしました。 http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho223.htm 本石町の「時の鐘」の鳴る順番について。 >現在正確に順番が分かっているのは寺の鐘である上野寛永寺 東円寺(市ヶ谷八幡)赤坂成満寺 芝切り通しの四ヶ所のみです。 分かりました。これを正解として考えます。 このことは、『享保撰要類集』(享保1 (1716) 年から宝暦3 (53) 年までの法令の集大成)。 に記述されていますね。 つまり、享保から宝暦にかけての頃、(あるいは、も少し幅広い期間)この順番だったのでしょう。 きびしく順番を決めていたということは、第一番目の上野寛永寺には、精度の高い時計と正確な時刻を観察する経験に基づく技術があったと推定できます。 標準となる“時報”がないので、時計の示す時刻が正しいとは限らないからです。 残る三ケ所については、享保・宝暦期に時計が設置されていたのか、不明です。 「芝切通し」にはあったようですが、当時の時計の精度がどの程度のものか、また高精度のものが芝にあったかどうか不明です。 時の鐘の維持管理費にはかなりの費用がかかったようで、高価な時計を設置できなかったのでしょう。 備考:いつ頃のことか不明ですが、時計があったと思われるのが、「時の鐘に時計はあった。気ままに江戸 散歩・味・読書の記録」では、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」です。 また、「時の鐘の同期手法の科学と謎」では、本石町、上野寛永寺、浅草寺、芝切通しの四ケ所です。 備考:第二節「時の鐘の管理と運営」は、個々の時の鐘について鐘撞銭の徴収状況などの運営費の捻出方法について言及されている。運営費の徴収対象(武家方のみ、武家方・町方・寺社方それぞれから、寺社方のみなど)・徴収額など一様ではなく、個々の時の鐘によって異なる方法が採られていたこと、それぞれに運営費の調達に苦慮していた様子などが描かれる。 順番は分かりましたが、本石町の鐘がなぜか抜けています。 理由は分かりませんが、想像するのが楽しみです。 この鐘は、幕府が費用を負担して設置したものですから、言わば幕府直轄の鐘で、他の鐘とは別格で、順番に入らないのではないかと思います。 本石町といえば、常盤橋御門に近い一等地です。 御曲輪内の大名小路や西の丸下の大名小路では、城内の“時の太鼓”が聞こえるのかも知れません。 しかし、御城から東・南方面にある大名屋敷や高級旗本の屋敷までは聞こえないので、本石町の時の鐘を頼りにしたのかも知れません。 これらの武家屋敷全てに時計があったとは限らないでしょう。 また、武家屋敷からカネを徴収していません。 幕府としては、大名小路に屋敷を構えた大名家と、御城から離れた所に屋敷をもつ大名や高級旗本とを差別しないために、カネを徴収しないと決めたのでしょう。(想像たくましい)

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