• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸府内の時間「時の鐘」。)

江戸府内の時の鐘の謎とは?

ichikawa2017の回答

回答No.1

1.下記サイト参照 時の鐘に時計はあった。 : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 wheatbaku.exblog.jp/23360962/ 抜粋 時の鐘があったとされる場所は次の9ヵ所です。本石町、浅草寺、上野寛永寺、本所横川町、目白不動、市谷八幡、赤坂田町、四谷天竜寺、芝切通し この中で、時計があったと思われるのが、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」です。 まず、本石町ですが、鐘撞役の辻源七の書留(享保年間)に 「時の勤方之儀は常香盤ならびに時斗(とけい)貮組(にくみ)を以て相勤申候」 と書かれています。 時の鐘 1 -石町の鐘- : 断想 ksei.exblog.jp/17534180/ 抜粋 江戸で最初の 「時の鐘」 は、家康の入府に遡る。 老中たちに登城時間など公の時刻を知らせるため、江戸城の西の丸(現在、天皇の御在所)の鐘楼で朝夕2回、鐘を撞いたのが始まりだ。 二代将軍、秀忠の時代になると、一日を12等分して、昼夜2時間ごとに鳴らすようにしたが、御座所に近い鐘楼からの鐘の音が政務の妨げになるとして、鐘の代わりに櫓太鼓を定時に叩くことにし、時計奉行が3基の時計を見ながら時報を知らせた。 中略 江戸城の 「時の鐘」 が太鼓に代った後、鐘撞役を代々勤めてきた辻源七は、寛永三年(1626)、本石町(現在の日本橋本町4丁目、室町4丁目の一部)に200坪の土地を拝領し、新たに鋳造した鐘を鐘楼に懸け、ここに江戸最初の 「時の鐘」 が誕生した。 第73回 江戸の時計と季節 | web日本語 www.web-nihongo.com/edo/ed_p073/ 抜粋 時計の普及は実は意外に早く、江戸時代半ばの18世紀になると急速に広がっている。江戸城では、寛永20年(1643)には表と中奧のあいだに土圭(時計)之間があって、奧坊主などが将軍の大奥へ入る時刻の管理をしていた。また、大名や格式の高い旗本(はたもと)の屋敷には時計は必需品で、登城に遅刻しないように、10分、20分刻みで生活していたようだ。  文政7年(1824)に刊行された江戸全域の諸商売の案内記である『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、徳川御三家紀州と尾州(尾張)の御用時計師の名前が載っている。江戸市中にも百人前後の時計師が時計の製作・修理に追われていたろう。  時の鐘で生活するのは時計を持たない下層町人だけで、奉公人のいる商家では置時計や柱時計があった。黄表紙(きびょうし)などには、時計が家具としてよく描かれている。時がくると時計の頭に備え付けの鐘を金属棒が叩くようになっていて、ギィーガチャンと鳴る仕掛けだ。 2、専用の鐘が設けられていました。 参考 花の雲 鐘は上野か 浅草か www.inter-link.jp/back_no/tokushu/tokushu18_7.html 現存していて写真があります 3、幕府の記録や武家の日記には、時刻を「数」で表したものも多々ありますが…。 寡聞にして知りません。 身分に従って使う呼称を変えろなどという規則などどこにもありません。 江戸時代にこんな細々した事柄を一々具体的に決めた法令は寡聞にして知りません。 あくまでも習慣上の事柄です。 武家が干支を使ったのは城内で使われていたためです。 武家の日記や公文書でも市中の庶民が使っていた呼称を使うこともあるでしょう。 庶民でも時と場合によっては干支を使っていました。 習慣上の事柄に例外があるのはいつの時代どこの国でもあることです。 たまたま目にされた史料を基にそれが全てだと普遍化されるのは如何なものでしょうか 上記しましたように「時の鐘」に関しましてはネット上に幾らでも記事がありますので一度目を通してください。

kouki-koureisya
質問者

お礼

   ご回答ありがとうございます。 質問(1)、(2)に対するご回答について。 よく分かりました。 江戸時代は270年間も続いたのですから初期、中期、後期では異なった部分もあったでしょう。 「江戸では上野寛永寺の鐘が基準で、これに従って江戸市中に設置されていた時の鐘を打っていました。」に疑問を持ち質問しましたが、 「江戸城の時計係が西洋時計の時刻を基に太鼓を打って知らせ、それを聞いた「時の鐘」のある寺などが撞く。場所によっては鐘の音を聞きそれを合図に「時の鐘」を撞く所もあり場所によって多少時差があったという。」 ということですね。 質問(3)に対するご回答について。 「身分によって時刻の言い方は違っていました。干支を日常的に使うのは武家階級の人達です。庶民は四ツ五ツ六ツなどを使っていました。」に疑問を持ち質問しましたが、 いい加減な根拠で質問しておりません。 「明六ツ」をキーワードにして、あと適当な言葉を加えて入力すれば、いくらでもヒットします。 大岡忠相が寺社奉行であった頃の日記には、時を「干支」より「数」で書いている方が圧倒的に多いです。ネットで読むことができます。 奈良奉行・戸田能登守が京都所司代脇坂淡路守に嘉永甲寅年の地震を報告した書状の「写し」 http://www.pref.nara.jp/secure/118509/naranosaigaisi2%E3%80%801-1.pdf#search=%27%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C+%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2%27 大坂町奉行・久須美祐明『浪華日記』、 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004688396.pdf?id=ART0007423890 紀州藩家老三浦家文書 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006998376.pdf?id=ART0008909906 安政二年十月二日江戸大地震 3 盛岡藩の対幕府応接 『御在府留』抄 http://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/index.cgi?cat=komonjo&mode=details&code_no=2588&start 一、昨二日夜四時頃地震ニ付、御上屋鋪御殿不残潰れ、御長屋通も相潰、所々より出火有之、御屋鋪内よりも出火に付、御上屋鋪不残御焼失に相成候、太守様無御障、以下略 姫路藩主・酒井家文書 (江戸留守居)日記、 同 奥用人日記 他 嘉永二年 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/48/saiho_48_047.html 「…神田上水神田橋御門内外樋筋御普請ニ付明十一日明け六時ゟ暮六時迄一日限り水留いたし、尤御成雨天は日送り之積此段組合中江不洩様通達可有之候、以上」 他、ほとんど「数」により時間を表示。 江戸城内でも門番役のマニュアルや引継ぎ書。 「江戸城 御門番 明6ツ」でヒットします。 国立歴史民俗博物館研究報告 第 183 集 2014 年 3 月「江戸城門番役の機能と情報管理」 www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/.../183009.pdf 上記は八戸藩の例ですが、庄内藩の例もあります。 「日常の職務の第一は、門の開閉である。門の開門の準備は、早朝毎晩七半時より始まる。まず、内腰掛の足軽番人より大番所幕下の足軽小頭に時刻の触れが伝えられ、準備にかかる。江戸城の明六時の太鼓が鳴ると、大番所の物頭らに連絡し、夜間に出していた挑灯台・箱行灯・箱番所を撤収する」

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