• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸府内の時間「時の鐘」。)

江戸府内の時の鐘の謎とは?

ichikawa2017の回答

  • ベストアンサー
回答No.2

No.1です。 わざわざお礼を記入頂きありがとうございます お礼にいろいろ文献を挙げられおられますが、いずれも日記や留書(メモ)かと思います。盛岡藩のものも武家どうしの連絡書の類です。 しかも時刻が記載されているのは、ご指摘の文章の一行みです。 回答は習慣としての話をしています。 この身分ならこの用語を使わなければならなかったなどとは申し上げていませんのでご注意願います。 ご指摘の国立歴史民俗博物館研究報告 第 183 集 2014 年 3 月「江戸城門番役の機能と情報管理」に 門番役の引き継ぎの際に利用された「申送」・「申合」、基本台帳としての置帳が、担当藩によって作成され、幕府は関与しなかった点である。門番役について幕府は基本法を作成したうえで、その都度指示を与えたが、その運用や先例の蓄積は各藩に依存していた。 と記載されていますが、この文中の幕府の基本法について下記のURLがあります。 境界としての江戸城大手三門 - 東京大学史料編纂所 www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/22/kiyo0022-18.pdf 抜粋 享 保 六( 一 七 二 一 ) 年 に定 め ら れ た 武 器 ・ 人 数 と 職 務(「 御 定 書 」) が 幕 末 ま で 基 本 法 と し て 機 能し た 。 そ の 基 本 法 で は 、 門 の 重 要 度 か ら 、 A 大 手三 門(大 手 門 ・ 内桜 田 門 ・ 西 丸 大 手 門 ) と B 内 曲 輪 一 五 門 C 外 曲 輪一 一 門三 つ に 分 け て 規 定 を 設 け て い る 。 基 本 的 な職 務 は 、 門 の 開 閉 と 通 過 者 の 確 認 、 さ ら に 門 内 外 の 掃 除 や 空 間 の 管 理 、そ し て 将 軍 や 外 交 使 節 が 出 入 り す る 儀 礼 の 場 の 維 持 、 火 災 発 生 時 の 防 火で あ っ た 。 た だ し 、 そ れ ぞ れ の 門 で は 、 詰 め る 人 数 や 武 器 、 開門 時 間 や 職 務 内 容 の 詳 細 が 異 な っ て い た 。 B 内 曲 輪 門 で は 、 幕 閣 の 屋 敷 の あ る 西 丸下 ほ か 北 の 丸 の 出 入 り に か かわ る 門( 外 桜 田 門 ・ 馬 場 先 門 ・ 和 田倉 門 ・ 竹 橋 門 ) に 譜 代 大名が 、 大名 小 路 や 大 手 前 よ り 外 側 の 門 に 外 様 大名 が 配 置 さ れ た 。 ま た C 外曲 輪 門 は 、 幸 橋 門 以 外 は 旗 本 の 寄 合 が 任 じ ら れ た 。 開 門 時 間 は 、 B は外 門 は 一 日 中 、 内 門 が 卯 刻 よ り 酉 刻( 六 時 ~ 一 八 時 ) で く く り 戸 が 子 刻( 〇 時 ) ま で 、 C は 外 門 ・ 内 門 と も 一 日 中 で あ っ た 。 ま た 、 酉 刻 よ り 卯刻( 一 八 時 ~ 六 時 ) ま で 女 性 の 通 過 者 の 手 形 改 を 行 っ た 。 この論文によれば基本法では干支が使われています。 下記のURLでも干支が使われています。 古文書で見る「弘前城あれこれ」 - 弘前市 www.city.hirosaki.aomori.jp/tosho/old/hirosakijo-arekore-4-2... 抜粋 若殿様辰の刻御登城。この節御玄関下場畳左右へ御家老罷り出で、御用人東の方栗石へ罷り出で、その下へ大目付罷り出で候。 江戸城内での登城の合図には太鼓が打ち鳴らされ、登城する大名や旗本が出揃ったと思われるまで打ち続けられていました。 通称四つの太鼓などと説明されていますが、市中の時の鐘のようにこの時間だから幾つという考え方はしていませんでした。 尚このURLをお読みいただければ分かりますが、実際に立ち働いてたのは中間、足軽と称される人達です。 上記論文に 「儀 礼 の な い 平 日 の 当 番 勤 務 で は 、 桑名 藩 士 四 四 人 に対 し て 、 抱下 座 見 一 二 人 ・ 雇 足 軽 六 四 人 ・ 雇 中 間 六 六 人 の 計 一 四 二 人 が人 宿 か ら 雇 用 さ れ て い る。」 とありますように、この人達は身分としては町人です。 日常的に時刻を干支ではなく六ツだの四ツだのと使っていても不思議はありません。 (明治時代に戸籍に登録する際にこの人達も士族に登録されたことから非常に分かり難くなっています。) このような人達を対象とした藩の規則ですから刻限も干支ではなく六ツだのなんだのが使われていても不思議はありません。 わずかな文例をもって歴史上の習慣的な物事をあれは違うのどうのと断定されるのは如何なものでしょうか 当サイトは議論の場ではありませんのでご注意願います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 もちろん議論などするつもりはありません。 ご回答のなかに疑問があるので、お聞きしているだけです。 整理します。 質問は、 「武士階級は、時刻を「六ッ時」のように鐘の鳴る回数で呼ぶのではなく、 「干支」で表した時刻を多用したのですか。 幕府の記録や武家の日記には、時刻を「数」で表したものも多々ありますが…。」 “多用”したのですか、と聞きました。 「多用していた」のであれば、その根拠を教えてください、ただそれだけのことです。 それが習慣だと言われても、江戸時代の武士の習慣を知らない私には、雲を掴むような話です。 実際のところ、調べようがないでしょうから、回答者様の主観で「そう思っている」「そのはずだ」でも結構です。 その程度の根拠か、で納得できます。 ご回答の中に、 「幕府の記録や武家の日記には、時刻を「数」で表したものを寡聞にして知りません。」ということでしたので、質問者として最低限の礼儀を尽くすべきと思い、ネットで簡単に見つけることができる記録や日記の事例を列挙しました。 これに対して「いずれも日記や留書(メモ)かと思います。盛岡藩のものも武家どうしの連絡書の類です。」と切り捨てられましたが、これは、寺社奉行・大岡忠相や姫路藩主・酒井候の日記などは、武士が時を「数」で表記した事例とはならないのですね。 また、奈良奉行・戸田能登守が京都所司代脇坂淡路守に嘉永甲寅年の地震を報告した書状の「写し」も、武家どうしの連絡書にすぎないので、事例にはならないのですね。 全て、例外にすぎない、ということですね。 ご回答の続きです。 「あくまでも習慣上の事柄です。 武家が干支を使ったのは城内で使われていたためです。 武家の日記や公文書でも市中の庶民が使っていた呼称を使うこともあるでしょう。 庶民でも時と場合によっては干支を使っていました。 習慣上の事柄に例外があるのはいつの時代どこの国でもあることです。」 そのとおりだと思います。 「身分によって時刻の言い方は違っていました。干支を日常的に使うのは武家階級の人達です。庶民は四ツ五ツ六ツなどを使っていました。」に比べると、かなり納得できます。 ご提示の「境界としての江戸城大手三門 - 東京大学史料編纂所」は、前もって読んでいましたから、#1のお礼に、庄内藩も門番は、時を「数」で表記していたと書いています。 ご回答に「この論文によれば基本法では干支が使われています。」とありますが、もちろん知っています。 「干支」が使われていて当然です。 しかし、「数」も同様に使われていたのでは、という疑問です。 ご回答に「実際に立ち働いてたのは中間、足軽と称される人達です。…中略…この人達は身分としては町人です。日常的に時刻を干支ではなく六ツだの四ツだのと使っていても不思議はありません。」とあります。 つまり、身分によって時刻の言い方が違っていたという主張の補強ですね。 この人たちの報告を頭役の藩士が、日々あるいは定期的に報告書にまとめて、幕府役人に提出したと思うのですが、この報告書では、「数」の時を「干支」に変換したのでしょう。 江戸城内では、基本法は「干支」であっても、実務では「干支」よりむしろ「数」の方が多いような気がします。 「江戸幕府行事儀礼図譜」を見ますと、 例えば「御本丸明細図(大番頭勤方絵図)」には、誰がどの位置に立つとか事細かに指図してありますが、時についても、「御能之日六半時分泰着(舞台?)」「朝五ツ時御成之節」 「与力番所暮五時迄ハ」など、見落としもあるかもしれませんが「数」表示です。 「両番頭年中勤方絵図」(書院番頭、小姓組番頭)も同様に事細かく「御供揃五半時」「○○六半時」「麻上下着用明七ツ時」など。 下っ端の小役人は、さらに下の者に分かるように、いつもの習慣で時を「数」で指示したのでしょう。 「幕府書物方日記」には、めったに「時」を記録していませんが、記録している箇所は、圧倒的に「数」で書いています。 例えば、「享保20年乙卯10月21日 九ツ前地震少」とあります。 多分、この日記を書く当番者は、日頃から「数」を使っていた習慣で、この場合も「数」で記録したのでしょう。 これも「日記」にすぎないですが…。 「徳川礼典録」では、時を「干支」で書いていますが、その「付録」には、時を「数」で書いた箇所も多数記載されています。 例えば、 左之通御目付より諸向ヘ達之 若君様御七夜御祝儀ニ付 御本丸西丸え諸大名より献上物多く有之に付…中略…朝六時より段々ニ献上物繰込申候、尤五時迄之内…以下略…。 以上、私は、基本法の類は原則、時を「干支」で表記し、実務面では、時を「数」で書き表していた方が多いのかな、と思っています。

関連するQ&A

  • 江戸時代 時の鐘について

    江戸時代、人々は時の鐘で時刻を知ったということですが、たとえば七つ半、午後五時にも時の鐘はならされたのでしょうか。ご存じの方がいらっしゃいましたらぜひお教えください。よろしくお願いします。

  • 江戸時代の時間の数え方

    江戸時代は時刻を干支で現し 丑三つ時は牛+虎で鬼を現すなど聞いたことがありますが、 「1時間寝てしまった」 「待ち合わせは2時間後ね」 などのように時間はどう数えていた(現していた)のでしょうか?

  • 江戸幕府公文書の配布

    幕府が武家諸法度のような指示・命令を出すとき、藩にはどのようにして伝達したのですか。 江戸藩邸の役人が、幕府の右筆が書写した「写」を江戸城?あるいは大目付の屋敷?で受け取って、そして国元の藩へ伝達したのですか。 ざっと270ほどの藩がありましたから、右筆はそれだけの部数の公文書を書いたのですね。 江戸藩邸から国元へは主に飛脚を利用したのですか。 その際、近隣の藩と協力して、費用節減のために複数の藩が一人の飛脚に依頼するような こともあったのでしょうか。 そのような事例はありますか。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代。貞享暦。

    7月14日付の質問「江戸時代の時間の数え方」のベストアンサーで分からない箇所があるので教えてください。 ベストアンサーの一部抜粋。 「江戸時代の初期から、時刻を知らせる鐘・太鼓は辰刻(とき)の始まり(初刻)ではなく、真ん中(正刻)に打たれており、貞享暦の改正時より、初刻と正刻の区分を記載しなくなり、鐘・太鼓の打つ時間が、辰刻(とき)の始まりと徐々に認識されるようになり、辰刻(とき)の始まりが従来より半刻(1時間)遅くなり、定着したものだということです。」 確認です。 鐘・太鼓は、辰刻(とき)の始まり(初刻)ではなく、真ん中(正刻)で打たれていたのですね。 貞享暦が改正されてからも、鐘・太鼓は従来どおり「正刻」に鳴らしていたのだが、鐘の音を聞くと人々は、「辰刻(とき)の始まりと徐々に認識」するようになったのですね。 質問です。 1.「初刻と正刻の区分を記載しなくなり」とは、初刻と正刻の区分をしなくなったという意味ですか。 また、その理由は何ですか。 では、上刻、下刻の区分は残ったのですか。 上野の寛永寺および老中と、芝の増上寺および地方とでは、ある時期、上刻・下刻の解釈が異なっていたそうです。 この違いを無くしたということですか。 2.「辰刻(とき)の始まりと徐々に認識」するようになったということに関しての疑問。 例えば「明六ツ」の鐘が正刻に鳴っていたころは、今の時刻でおおよそ6時ですね。 このとき、「明六ツ半」は7時になりますね。 しかし、貞享暦以後は、辰刻(とき)の始まりに鐘が鳴るので、「明六ツ半」は今の時刻で6時になるのですか。 つまり、今の時間にすると1時間の差ができるということですか。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代の花魁の出身について

    江戸時代の花魁は、なかなか教養もあったということをNHKなんかで最近やっていました。 それで考えたのは、吉原の苦海に身を沈めた中には、お家お取り潰しになった武家の娘などがいたのではないかということです。 吉原の遊女などの出身階級をご存知の方がいらしたら教えてください。 またそれを調べた研究などはあるのでしょうか。 テレビでは、江戸の花魁は、今のアイドル並かそれ以上のような評価をされていますが、それは、とんでもないことのように思えるのです。 才色兼備の花魁は、お家お取り潰しの武家の娘で、幕府としてはいい見せしめ、町人にとっては、高い身分の出身の娘を自由にできるという魅力もあったのではと考えるのです。 彼女たちは、自分の出身はひた隠しにし、でも噂で、どこどこの武家のお姫様だというようなことがあったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

  • 江戸時代の敵討ち

    wikipedia「敵討ち」の文に 仇討ちは、中世の武士階級の台頭以来、⋯⋯「江戸幕府によって法制化される」 に至ってその形式が完成された。 とありますが、敵討ちを正当化した江戸時代の法典というのは何でしょうか。 私的制裁権としての「無礼打ち」や「妻敵討」は、江戸時代の刑法である「公事方御定書」の中にその定義がありますが、敵討ちはどうも違うようです。 HP上にも関連記事は沢山見つかりますが、その根拠を示した文章を見つけることができないでいます。

  • 武士と公務員の違い、及び、武士の公務員化について。

    江戸時代の武士はある意味公務員化していたと思うのですが、武士は武士です。この江戸時代の武士(文化)が明治初期の役人(文化)として働きました。 したがって明治初期の公務員の感覚は今日のものとはまったく違うと思います。武家は世襲であり試験選抜されるものではありません。 しかしながら先祖代々一所懸命であるはずの武士が立派に無私の公務員として機能していました。無私(無家)というのは武士の感覚には馴染まないと思います。国家というように国を家に見立てたのでしょうか。そんな理屈に納得できますでしょうか。良くも悪くも公務に望むにあたって今日の公務員では考えられないような信条的障害もあったと思いますがその事例などありましたら教えて下さい。いわば今日ではふつうだが、元武家に、それは合点できないという類のものです。 徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。安直な結果論的説明で済ませられるほど簡単な出来事ではないと思います。アイデンティティーのために命を張ってきた武士がアイデンティティーを放棄しました。武家を廃するのですから武家としていわば究極的に無責任な生き方を選んだのです。 その豹変についての説明は真剣に成されるべきだと思いますので、自分の家の歴史を重んじる武家になったつもりでお答え下さい。 またその理解のために、(1)江戸時代の武士と、(2)明治初期の公務員と、(3)現代の公務員との違いについても歴史的変遷をまじえて、各時期の当事者の心理・信条がイメージできる形で教えて下さい。 よろしくお願いします。

  • お江戸日本橋七ツ立ち。

    「お江戸日本橋七ツ立ち」という歌があります。 江戸時代のいつ頃のことか、また季節も不明ですが、日本橋にあった大木戸は“七ツ時”には開いていたということになります。 経済活動が活発となり、人の往来が激しくなった頃からは、大木戸は季節によっては“七ツ時”には開いていたという人もいます。 四ツ谷や板橋の大木戸も含め、大木戸の開く時刻を幕府はどのように管理していたのですか。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代に宮将軍が考慮されたというのは真実か?

    江戸時代の5代将軍に関する質問です。 江戸時代、4代将軍である徳川家綱が子がなく死去した際、時の大老・酒井忠清が有栖川宮幸仁親王とかいう宮将軍を迎えようとしたという話を聞きました。 酒井忠清が綱吉を将軍にしたくなかったために、鎌倉時代に宮将軍を迎えていたという話を持ち出したそうです。 しかし、初めての武家政権であり、武士の地位がまだまだ低かった鎌倉時代とはわけが違います。 また、江戸幕府には鎌倉幕府の北条氏に当たるような存在もありませんでした。 鎌倉幕府は北条氏の力があったから開けたのですが、江戸幕府開府にあたってはそのような存在はありません。 江戸時代のトップは東照大権現の正式な子孫のみがなれるはずです。 綱吉を将軍にさせたくなかったとしても、綱重の嫡男・綱豊、尾張の綱誠、紀州の綱教がいます。 宮将軍を迎えるくらいなら、家康の男系の直系子孫である水戸藩主を将軍に押した方がずっとましです。 徳川家康を神と称え、徳川に忠誠を誓っているはずの、徳川譜代の大老・酒井忠清が5代将軍に宮将軍を迎えようとしたという話は真実なのでしょうか?

  • 武士の言葉遣い

    時代劇を見ていると、ある程度身分ある武士はいわゆる武家言葉でしゃべっています。 一方、奉行所の同心や下級の御家人、浪人者などは町民と同じ江戸っ子口調が多いです。 時代劇の考証が正しいのかがまず疑問ですが、実際の江戸時代でも階級によって武士の言葉遣いは違ったのでしょうか? その場合どのくらいの身分で分かれていたのでしょうか? 時代劇の金さんや鬼平みたいに、身分が高くても個人的好みで江戸っ子口調の人もいたんでしょうか?