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ミッドウェー海戦のとき、なぜ爆弾を積んだんですか?

mm058114の回答

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  • mm058114
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回答No.4

俗に言う兵装転換ですね。 海軍は開戦間際だったため、16年秋の定期人事異動を見送っていました。 第一段作戦完了したとの認識で見送った分の人事異動を、 17年4月に大幅を断行し約半数を入換えました。 この人事で新たに配置された搭乗員は、やっと発着艦ができるレベルと、 真珠湾とは全然違う低レベルな艦隊航空隊となっていました。 また、この時に各母艦搭載機が減らされました。 と言うより、 真珠湾のために内地の教官助教クラスを引き抜き、 第一段作戦終了までという時限特別措置で、 第1航空艦隊母艦搭載機を増加したものを、元に戻しただけ。 この状態で第5航空戦隊はサンゴ海海戦したため、真珠湾81機→54機となり苦戦した。 ミッドウェー1航艦4空母も真珠湾の8割程に搭載機減していた。 ミッドウェー島の第一次攻撃隊は、これらの技量低な者達で編成され、 技量高な者達は、対艦隊攻撃待機に母艦に残されました。 ミッドウェー島陸上攻撃が不徹底になったのは、当然と言えます。、 母艦残留機は、対艦攻撃での待機を連合艦隊から指示されていました。 第1航空艦隊は索敵の結果、米艦隊は居ないと判断し、対艦装備を対陸装備に変換。 その最中に、米艦隊発見し再度対艦装備に変更。 兵総転換に時間がかかり、運命の5分間を向かえた。 これが従来の通説です。 最近の研究では、 この兵総転換、再転換時、 1航戦の赤城、加賀で、実際に魚雷を取り外されていた97艦攻は7~8機で、 赤城、加賀は、97艦攻の2/3は雷装で出撃可能だった。 2航戦の蒼龍、飛龍の99艦爆は、爆弾を装備せず空の状態で、、 短時間に陸用対艦用のどちらでも装備できる様にしていた。 山口多門少将の指示で、インド洋作戦の戦訓との事。 米艦隊攻撃が遅れたのは、 戦闘機が随伴しない米機隊が、目の前でバタバタと直援零戦に落とされるのを見て、 源田参謀が充分な戦闘機を付けてやりたいと考えたから。 4空母には、ミッドウェー占領後に同島に展開する第6航空隊零戦を30機分散積載していた。 源田は、第6航空隊の搭乗員召集、機体準備。 上空直援についていた4空母固有の零戦を降ろし攻撃隊に準備、 その代わりの上空直援に、第6航空隊零戦を当てようとした そうこうしている間に、ミッドウェー島陸上攻撃隊を先に収容し、 それから、米艦隊を攻撃することになった。 源田参謀は、それからでも充分と考え、実は、米機動部隊の実力をなめていたようだ。 サンゴ海で5航戦が戦果拡大できなかったのは、 就役間もなくで技量が低くかったからと考えていたらしい。 運命の5分間は実際にはなく、源田の捏造らしい。 この言葉が出てきたのは、戦後の源田の著書で、ベストセラーになったので広まったようだ。 残っている戦闘詳報には、そのような形跡は見当たらない。 また、ミッドウェー作戦の1航艦は、 翔鶴、瑞鶴を含める6空母で計画されていたが、直前のサンゴ海で戦力喪失。 空母の配置換えは、全艦隊がカウントダウン方式で動き始めていて、今更不可能。 結局、2空母欠の4空母で強行。 この時連合艦隊は、 サンゴ海で損害の無かった瑞鶴に、翔鶴の飛行隊も併せて載せて出撃させようと企図したが、 意外にも飛行隊の損害が大きく、代わりの搭乗員、機体を準備できず、 瑞鶴を出撃させられなかった。 この段階でも、瑞鶴の使用方法を、ミッドウェーの1航艦ではなく、 アリューシャン方面増強も検討している。 長々書きましたが、 ・実際の兵装転換は大して進んでおらず、出撃が遅れたのは、戦闘機を充分付けたいとする源田の親心と、即時出撃という攻撃精神の欠如 → これには、機体、人的資源を保全しなければならないと言う日本海軍の事情があったと考えられる。 ・源田の米機動部隊実力の認識違い ・人事異動による航空隊実力大幅低下認識不足の連合艦隊の机上の作戦計画 ・同、源田がどこまでこの実力を認識していたか? ・6空母作戦を4空母で強行せざるおえなかった → 予備が無く、トラブル時の次善策の計画が無かった ・上陸作戦開始が3日後に計画されていて、1航艦は寸分の狂いもなくミッドウェー制圧しなければならなかった → 空母の1艦隊の目標が曖昧、予備がない ・3日での制圧には明らかに戦力不足であった → 予備時間がない ・ミッドウェー飛行場制圧には、占領後すぐに飛行場活用のため、なるべく施設破壊はせず、主に滑走路攻撃と言う難易度の高い計画 → 現場を縛る徹底性のない目標 ミッドウェーの結果はタマタマの偶然ですよ。 ・米艦爆が爆撃に成功したのは、発見できずに諦めかけていた所に、タマタマ駆逐艦の航跡を発見した、 ・タイミングが航空戦無知なスプルアンスのヘボ指揮に偶然にあたった 日本もあえて言うなら、源田→草鹿→南雲 の人事。 ・源田は戦闘機出身なので、艦隊航空戦なら攻撃機出身者が良かったかもしれない ・艦隊長官も航空経験の 塚原ニ四三、片桐英吉、戸塚道太郎、寺岡謹平あたりだったら変わったかもしれない ・参謀長も統制型の草鹿でなく、我の強いタイプが良かったかもしれない ・山本五十六、小沢次三郎は、伝わるのと違い、実は現場搭乗員たちからは航空戦知らないと言われていた。 ・連合艦隊先任参謀黒島亀人は航空を理解していない ・連合艦隊作戦参謀三和義勇は航空だが、やはり戦闘機出身→黒島先任参謀を口説き起こすことはできなかった ミッドウェーは、こんなもん。

aoda6901
質問者

お礼

背景も含めて、大変よくわかりました。 ありがとうございました。

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