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人間は一時に一つのことしか考えられない

何処かで聞いた話なのですが、 人間は一時に一つのことしか考えられない、同時に二つのことを思索したり意識化できない と言う話を聞いたことがあります。 仏教の教えの引用としての話だったと思います。 心当たりで、道元禅師や唯識思想の本を少し繰ってみたのですがそれらしい話題を見付けることができませんでした。 どなたか、その教えがどこに掲載されている物かご存じませんか。 教えて頂きたく思います。 また、この現象?作用?は心の一般的な機能の事でもあるので、 同様に西洋哲学や心理学で論じたり説明しているものがあれば、 合わせて教えていただけたらと思います。 宜しくお願いします。

みんなの回答

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.7

no.8とは別のたくさんじゃなくて一つ。という答えもあります。 心は一つで、人が自分や他人がそれぞれに心をもっているというのは見せかけで、一つの心のいろいろな現われが、それぞれの人の心である。世界が一つであるのと同様に心が一つで、一つしか考えられないのかも。 関係ありそうな書籍は下記3つシュレーディンガーの本しか読んでないです。他3つは適当です。 仏教:テーラワーダ仏教の本。(あるかどうか知らないです。) 心理学:ユングの本。(意識、個人的無意識、集合的無意識の精神構造からすると違うかも。) 西洋哲学:シュレーディンガーの『精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察』 インド哲学:シャンカラの本(不二一元論が怪しい。) エルヴィン・シュレーディンガーの本を読んでいたら引用部分が出てきました。 https://www.amazon.co.jp/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E3%81%A8%E7%89%A9%E8%B3%AA%E2%80%95%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%A8%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%83%8F%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%80%83%E5%AF%9F-%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC/dp/4875023057 ----引用します---- p88 多数の意識的自我がありまして、それらの精神的経験から一つの世界が作り上げられている。 p89 それらの多数性は単に見かけだけのもので、本当は一つの精神があるだけだ。という考え方でありまして、つまりウパニシャッドの教理であります。 ----引用おわり---- ウパニシャッド哲学といえば、シャンカラらしいです。不二一元論らしいです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A9 シャンカラといえば、テーラワーダ仏教らしいです。 http://ameblo.jp/2430soken/entry-11940815235.html テーラワーダ仏教といえばスマナサーラ長老らしいです。 http://www.j-theravada.net/kogi/kogi155.html がんばらないタイプの仏教のようです。 心理学だと、ユングの集合的無意識です。あと元型です。 http://michirich.com/muishiki/ http://www.j-phyco.com/category1/entry8.html

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.6

正法眼蔵を読んで見ると、それっぽい仏教の教えの引用としての話が書いてありました。 正法眼蔵〈4〉 単行本 – 1996/10 石井 恭二 (翻訳), 道元 参考URL 第60 37品菩提文法 (46)より引用。 -------引用しますーーーーーーーーーーー 薬山弘道は、「不思量の中に思量するのだ」と云い、僧が、「不思量の中の思量とはどのような思量ですか」と問うのに対して「非思量」と答えた。これこそ正しい思量であり、正しい思惟である。 -------引用終わりーーーーーーーーーーーー 「非」は名詞を否定する。 「不」は用言を否定する。 らしい。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1236665342 心理学ではなくて、精神分析ですが、ジャック・ラカンからです。 下記サイトより。 http://sendailacanforum.blogspot.jp/2011/09/blog-post_13.html -------引用します。----------- 「我が無いところで私は考える、故に、私が考えないところで我あり」とラカンは言っている。(無意識における文字の審級1957) -------引用終わりーーーーーーーーーーーー 以下は適当に書きます。 正法眼蔵では、 人間は、一時に一つのことしか考えられないでもなく、 同時に二つのことを思索したり意識化できるでもなく、 0個だというような感じだろうか。 そうすると、質問者様の主旨に合わなくなるのだろうか。 しりょう【思量・思料】[名](スル)いろいろと思いをめぐらし考えること。思いはかること。 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/112644/meaning/m0u/ 不思量と思量と非思量。 名詞の思量と動詞の思量とそれぞれのnotで4種類か。 不思量の中で思量すること=非思量=正しい思量=正しい思惟 我が無いところで考える=考えない=我有り 部分だけ取り出してみると、取りこぼす感じがする。

参考URL:
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309710747/
回答No.5

見えているいる「世界」が意識である以上、 2つも同時にあっては生きていけない。 錯覚であれ1つの見方に基づき、錯覚である 事に気づいた瞬間、見方が入れ替わる。 それは、脳のニューロネットを構成する 神経繊維の樹状突起の、他の脳細胞と接する 先端が、単なる接点ではなくわずかな隙間が あり、そこに伝達物質を出す事で伝わる もので、しかもそのシナプス結合には、 刺激を伝える事で相手の細胞にインパルスを 伝達する興奮型と、相手のインパルスを 止める抑制型の、二種類ある事による。 1つの回路が活性化した時、その興奮に よって他の回路の興奮を抑制させる働きを するのだ。 また、その回路の興奮が続くと、シナプス結合に放出する伝達物質が足りなくなって、 インパルスが弱くなると同時に他の回路を 抑制する働きも弱くなり、ある段階で他の 回路が活性化すると共に、それまで興奮し ていた回路が抑制されるのです。 (複数回路の興奮を抑える)

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.4

仏教には詳しくないので、主として哲学・言語学でお答えします。 たぶんあなたのような考えを哲学・言語学では、要素論とか、原子論と言っています。 一つの音声には、一つの文字・概念が「対応」する、という考え。 それと同じで、一つの思考には、一つの音声が対応するから、思考は二つを同時に考えられない、と。 フッサールによれば、「志向性」というのは、一つの対象を志向する、作用とその作用の対象は、不可分にして切り離せない、という。 この考え方を批判したのが、ソシュールであり、また現代アメリカのネオ・プラグマティズムのローティーやバットナム、そしてクワイン、とその弟子ディヴィッドソンでした。 ソシュールは一つの音声は全体としてのシステムに対応しているのであって、個々の対象に対応しているわけではない、と。 ソシュールは一つの音声が、一つの対象に対応しているのを「言語名称目録観」と言って、それを否定しました。 たとえば、目の前の「海」を見て、それを音声で「ウミ」と名付けた、それは間違いである、と。 まず、植物なら植物、動物ならば動物、鉱物ならば鉱物という全体が与えられていて、その「差異」として個々の言葉がある、といいました。 このことは思考の場合も同じです。 まず思考の背景に、全体としての思考があり、その全体としての思考から、一つをピック・アップするから、一つの思考で一つのことしか言えないという「錯覚」が生じる。 しかし、それは全体としての思考の「差異」があり、その「差異」に基づいて一つのことしか言えないと言っているので、それは間違い。 確かにデカルトは「われ思う・コギト」といった時、それは現在では正しいが、過去だったら、正しくないと考えていました。 つまり「われ思う、ゆえにわれあり」は確実性があり、疑えないと言いましたが、それは現在だから言えるので、過去だったら、私が思ったからと言って、私が存在するとは言えない、という意味で。 それと同じで、現在という瞬間だったら、二つを同時に考えられないという「錯覚」が生じますが、1分後だったら、私はいろいろ考えちゃうから、一つとは言えない、ことになります。 それが「錯覚」だというのは、物事を要素論とか、原子論で考えているから。 物事は一つの要素、あるいは一つの原子があり、その複合として、あるいは組み合わせとして物事がある、と先入観で考えているから、それは「錯覚」だということです。 私たちは個々人がいて、その集合として社会があり、国家がある、と考えていますが、それも要素論、原子論による「錯覚」だということ。 まず全体としての社会があり、国家があり、その要素として個々人がいるので、個々人が最初にあるわけではない。 思考はそれ単独であるのであるのではなく、その背景に広大な思考の「領野」というものを持っている。 ただし、それはソシュールが言うように「ネガティブ」だから、私たちの意識に登らない、無意識。 フッサールも同じことを言っていて、知覚にはその地平に広大な知覚の「領野」というものを伴っている、といいます。 だから思考はその広大な「領野」との「差異」としてあり、それ単独にあるのではない、と。 こう考えてくると、あなたが言う、一つの思考で考えられるのは、一つだけというのは、間違いだということが分かります。 確かに表面的にはその通りですが。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.3

質問者様が、知りたいのは、がんばらなくても、一つです。並列不可です。と書いてある書物です。 これといって、言及するものはみつかりませんでしたが、下記3つが怪しいです。3つとも読んだことが無いので、分かりませんが。 仏教:六祖壇経の転識について書かれた部分 心理学:ジュディス・ハーマンの「トラウマとそれからの回復」 西洋哲学:ベルクソンの『時間と自由』 以下、ご存知でしたら、蛇足ですし、質問の趣旨に合わない解答となってしまいました。 並列不可に言及するものが見つかると良かったのですが、みつかりませんでした。 調べると、質問者様の期待に反して、並列のほうが主流の様子。 並列意識 仏教 で検索するとよさそうです。 ・ジュディス・ハーマンの「トラウマとそれからの回復」 ・六祖壇経の転識について書かれた部分 精神分析と仏教。転識が並列意識のように読めるか?。 http://blog.goo.ne.jp/sasakimc/e/daaeb7170a9f700ae3d88fde194f6752 ----引用---- 六祖壇経の引用からの抜粋 「分別を起こすと、たちまち転識というものが働き、意識が展開されて六識が生まれ、六門からでて、六塵を見るのである。六識、六門、六塵の三乗からなる十八界は、自己の本性から働きを起こすのである。自己の本性がゆがんでいると、ゆがんだ十八界を作ることになり、自己の本性が正しいと、正しい十八界を作ることになる。」 ----引用終わりーーーー お寺ネット。http://www.style-21.jp/board/formz.cgi?action=res&resno=4135&id=butuji&lognum=12&from=tree -----引用---- やはり、仏教思想においても意識と無意識は並列的または重層的に機能していると考えられているわけです。 -----引用終わりーーーー 現在、完全同時並列思考がアツくもてはやされている。 漫画ワールドトリガーのヨミというキャラは特殊能力で完全同時並列思考できる。 参考URL参照 勝手な印象としては、 同時に二つのことを思索したり意識化できるというのは、勘違いで、 本当は、人間は一時に一つのことしか考えられないんだ。 がんばれば、一時に一つのことしか考えなくなる。悟れ!アナンダ! みたいな文脈かも。 というと、三昧です。がんばるタイプです。 http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/jyogyo.html 密教的念仏 常行三昧 じょうぎょうざんまい http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20130120 ベルクソンと空海をつなぐ即身成仏論 読んだこと無くて済みませんが、西洋哲学でベルクソンの『時間と自由』とか。 繰り返しになりすみませんが、 質問者様が、知りたいのは、がんばらなくても、一つです。と書いてある書物なので、 上記の蛇足はあんまり参考にならない可能性が高いです。 回答できなくてごめんなさい。

参考URL:
http://sokuyomi.jp/product/wahrudotor_001/CO/15/
  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8882)
回答No.2

(再)複数の課題を並列的に処理していくというのは日常誰でもやっていることですが、この点についてはどうなのでしょうか。ひょっとして自我意識の連続性のことかなとも思うのですが…つまり思考の主体である自分が、同じ自分であり続けられるという…

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8882)
回答No.1

一番簡単なのはルビンの杯で、男女の顔と杯は同時には見えないことでは。しかしどちらも確かにみることができる。

futsuna
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。 なるほど、そういう認識の問題も含まれるのかも知れませんね。 しかし私が知りたいのは思考や意識の問題で、 短い時間、一瞬一瞬において、常に意識は「排他的」であり、 別の思考や意識と共存できないと言う事を、 仏教の経典ではどこに出ているのか、 西洋哲学や心理学ではどのように論じ解釈しているのか、 と言う事なのです。 一度見え方が定まると固定観念から別の見方がしにくい?、 というような認識や錯誤の話よりもっと一般的な、 思考や意識全般の排他性についてなのです。 他に何かお気づきのことがあれば引き続き宜しくお願いします。

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