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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:関白の世襲制について。)

日本史の関白制についての疑問

あずき なな(@azuki-7)の回答

回答No.5

関白・太政大臣は世襲が認められてないわけではありません 藤原氏は関白を世襲しましたし 平氏も太政大臣を世襲しています また 秀吉も関白・太政大臣を世襲しました 征夷大将軍は本来 蝦夷討伐の臨時職ですので世襲はありえない前提でした まぁしかし 頼朝は武家の棟梁となり天下統一を果たし 朝廷をも押さえつける権力を持ってしまった以上 朝廷も世襲にノーとは言えなかったと思います 実際実朝の死後 将軍職は朝廷の親王に譲られ親王将軍と言うお飾りとして世襲されています(幕府の実権は執権の北条氏) 頼朝-頼家-実朝の世襲でも 源氏の中で内紛が起きました(実朝が将軍になった事に不満を抱いた頼家の息子・公暁が実朝を暗殺した事件) 実朝の死後に 将軍職を朝廷に任せたのは そういった世襲への不満を和らげ 一応朝廷に配慮した形と思われます。 ちなみに豊臣家の場合 秀吉は近衛前久の養子となって関白を継いでいます(近衛家は藤原道長の直系) ですから豊臣家の関白の扱いは「関白豊臣家初代」ではなく「藤原氏」と位置づけれています さらに「豊臣」と言う姓は秀吉が朝廷から貰ったいわばお墨付きみたいな仮の名前で 秀吉は公式には「藤原朝臣秀吉」と名乗っていました 豊臣は通称みたいなものです

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