豊臣秀吉の征夷大将軍就任を固辞した理由と豊臣政権の国内政策について

このQ&Aのポイント
  • 豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍にならずに関白・太政大臣になったのか?また、関白職で政権を維持するためにはどうすれば良いのか?
  • 豊臣秀吉が朝廷から征夷大将軍を固辞した理由は、位の高い関白になることで国内政策を進めるためだった。
  • 関白職は天皇の補佐であり、征夷大将軍より官位は上だが、権力はない。豊臣政権は関白職による国内政策を重視し、政権を維持しながら国を統一していった。
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日本史に詳しい人。

私は小学生の時から日本史が好きですが、分からないこともあります。 特に日本の戦国から安土桃山時代にかけての質問なんですが何故、豊臣秀吉は 関白・太政大臣になりましたが、征夷大将軍にならなかったんでしょうか? ここ最近の説では朝廷から征夷大将軍を勧められたのを固辞し、位の高い 関白と言われていますが秀吉の豊臣政権の国内政策のどの様に考えてたんでしょうか? 関白は天皇の補佐で征夷大将軍より官位は上ですが、権威があっても権力はありません。 それに基本的に関白職は五摂家に選らばれます。 (1)仮に秀吉が征夷大将軍になり、幕府を開いても短期間で滅びる運命だったんでしょうか? (2)もし、豊臣政権が関白職で政権を維持する為には、どうすればいいんでしょうか? 歴史に詳しい方は、この2点の回答ほどお願いします。

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質問者が選んだベストアンサー

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noname#224207
noname#224207
回答No.6

なぜ幕府を開かずに朝臣としての関白を目指したかということは、突き詰めて行きますと、日本ではなぜ天皇制が維持されたか、という問題になります。 (1)秀吉が天下を統一したといっても、マダマダ強力な軍事力を持った大名がいました。 朝廷の権威なしに幕府を開いても戦乱が続いていたでしょう。 征夷大将軍という令外官になっていれば、明治維新のときのように朝廷と手を結んだ大名によって朝敵とされていたでしょう。 幕府を開いて朝廷を取り込むのに苦労したのが足利尊氏です。 ヒョットしたら南北朝時代が早くきたかも知れませんが、敵方は楠正成のようなろくに家臣団を持たない勢力ではなく、徳川、上杉、伊達などの強力な大名相手となりますので、一筋縄ではいかなかったでしょう。 自身の子供が幼少でしたので後が続かなかったでしょう。 ともかく身内に人がいなかったのが致命傷です。 (2)足利吉満のように明に対して臣下の礼をつくして朝貢貿易に甘んじていれば無謀な朝鮮出兵をしなくてもよかったでしょう。 注)日本国王の「王」という称号は冊封国の国主に中国の王朝から家臣に下される称号です。 イエズス会が長崎を占拠することを黙認してキリスト教を弾圧しなければ維持は可能だったでしょう。 これ等をやっていたら豊臣政権は延命しても現在の日本がどうなっていたか分かりません。 植民地主義の前段階である大航海時代にポルトガルと断交していなかったとすれば、早晩ヨーロッパ諸国の中国進出の足掛かりとされていたでしょう。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日本の中世の戦国時代でも人身が荒廃し、現代の言葉であるモラルがなくてもやっぱり正当性が必要ということですね。 大名や武将が国内統一しても全員が全員、征夷大将軍に成り幕府を創設しても服従しない大名や権力があっても権威がないというのも駄目なんですね。 そういった意味ではある意味、権力の分担が出来てることですね(笑) 日本には天皇・朝廷の存在感が分かりました。

その他の回答 (6)

回答No.7

まず問題の根源には、農民出身という秀吉の出自があります。 よく源氏でなければ征夷大将軍にはなれなかったと言われますが、各種資料から必ずしもそうではなかったという説もあるようです。 源平藤橘のうち、武家の一方の雄である平氏にも可能性はあったらしい。 具体例は、室町幕府の足利義昭を追放した織田信長は、将軍宣下を受ける前にたどる官位・役職を、ほぼ順調に受けていたそうです。 ただ完全に全国統一できていた訳ではなく、畿内を中心とした範囲を平定したものの、西は中国の毛利氏、東は後北条氏の勢力が残っていて、これを従えようと戦闘を交えていた段階で、本能寺の変で死んでしまいます。これらの反勢力を討って、盤石の状態になってからでないと、将軍職は受けられないと思っていたのかも知れません。 その当時、武家の棟梁たる家柄には源平交替説が唱えられています。 これは、清盛(平氏)→頼朝(源氏)→北条氏(平氏)→足利氏(源氏)と武家社会の実権が源氏と平氏とで交替していることを背景としていました。 従って次は平氏の順番だとして、織田信長は平氏を名乗りました。実際に平信長との記録もあるのです。 そして秀吉を飛ばして次の家康は源氏の末裔であるとした偽系図を作って、源家康として将軍宣下を受けました。 ところが信長の死により頓挫した全国統一事業は秀吉により受け継がれます。 しかし秀吉の場合は、そのような偽の系図さえ作れないことが、誰でも分かっていました。 そのため天皇・朝廷の官位体系に入り込む形で、公武合体した政権を目指したと見ることができます。 「武」の面での実力は誰もが認めざるを得ない立場であり、更に「公」について、朝廷を通じた権威付けを図ったと考えられます。 そのため五摂家のひとつ近衛前久(元関白)の猶子となる形で、藤原秀吉となり、その後、五摂家と並ぶ「豊臣」という新しい「氏」を下賜されます。 今や天下の支配者になった「豊臣秀吉」の誕生です。 そこで、(1) (2) のご質問ですが、 徳川氏が親代々で忠節を尽くしてきた子飼い家来を多く抱えていたのに対して、成り上がり者の秀吉にはもともとそういう者はほとんどいなかったのです。 従って、少しでも自分と縁戚関係があるような若者を身の回りにおいて、将来に備えていきました。それが加藤清正であり福島正則などです。 それとともに、有能な若手も加えて育てたのですが、なにしろ絶対数が不足しているわけで、秀吉がいなくなれば、その抑えも効かなくなって、武闘派と実務派の対立も激しくなり、結局は関ヶ原の戦いでは敵味方に分裂し一枚岩の豊臣にはなれなかったことが、敗因の最大の要素でした。 脆弱だった豊臣政権は、どういう政治形態をとっていたとしても、史実通りの結果となったものと思われます。

  • eroero4649
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回答No.5

>権威があっても権力はありません なんというか、意図せずにご自身が正解を書いているような気がしてなりません。秀吉は絶大な「権力」がありましたが「権威」がありませんでした。成り上がり者の哀しい宿命であったといえるでしょう。だから権力よりもむしろ権威を強く欲したのではないかと思います。 そして、成り上がり者というのは権威を欲しがるのもまた世の常であります。今の時代、NHK紅白歌合戦なんて権威はまだありますが、「紅白に出場できれば10年食える」なんてのは今は昔です。古い権威の象徴以外の何物でもありません。しかし、永ちゃんは喜んで出場しました。ロックンローラーに紅白なんて本来ダサいです。だけど永ちゃんは「紅白出場。しかもゲスト扱いで自分よりキャリアが長い歌手を差し置いて何曲も歌う」という扱いに喜んでしまったわけです。でもそういう俗物的なところも永ちゃんの魅力ではありますけどね。 二代目三代目の政治家が続いた日本の首相の中にあって、菅直人氏は久々の「成り上がり首相」でしたが、首相の椅子への凄まじい執着を見せました。一度は辞任を表明しながら、「いつ辞任するとまではいっていない」といって1日でも多くと首相の椅子にしがみついたのは往々にしてお坊ちゃま政治家が無責任に首相の座を投げ出すのとは非常に対照的でしたよね。ありゃさすがに私も驚きましたよ。 豊臣政権が短期間で終わったのは「征夷大将軍ではなかったから」ではないのですよ。逆にいえば徳川政権が長く続いたのも「征夷大将軍だったから」でもありません。徳川政権は「日本人にとって最も居心地がいい永続的な政治システムを構築できた」から長く続いたのです。現代なら自民党やトヨタが非常によく似たシステムを持っています。 日本において永続する組織というのは「トップがバカでも組織が存続するシステム」です。つまりトップはむしろバカのほうがいい。頭が良くても余計なことをする人より、部下のいうことに従う人のほうがいいのです。二代目の会社でも、二代目が事業の多角化とか余計なことをするとむしろ潰れちゃうじゃないですか。それよりも二代目は会社を潰さない程度に遊んで、番頭たちがしっかりしていたほうが会社は持ちます。まあ変な話、日本の全ての企業は徳川家の支配体制システムを導入すれば非常に潰れにくくなるはずです。トヨタなんてまさにそうですから。二代三代続いている政治家の家もそうです。本人は東京育ちで選挙のときしか地元に帰ってこなくても、地元の番頭さんたちがしっかり締めているから盤石なのです。本人はどこかの鳩さんのように余計なことさえしなければ落ちることもありません。 というわけで、豊臣体制の弱さはひとえに「譜代の家臣を持たない哀しさ」にあったと思います。徳川家には井伊家、酒井家、本多家、榊原家というような鉄の結束を持つ家臣団がいましたが、彼らは「徳川家」に対しての絶対の忠誠でした。ですから、それが家康だろうが秀忠だろうが誰であっても変わりません。しかし、豊臣家の家臣団は「秀吉個人に対する絶対の忠誠」だったのです。本来は「豊臣家」への忠誠にしなければならかったのですが、秀吉個人の成り上がり者の哀しさか、晩年の衰えからのご乱心で自らその屋台骨を腐らせてしまいました。 だから、死ぬ順番が秀吉⇒秀長だったらちょっとどうだったか興味深いところですね。「理想のナンバーツー」だった秀長が死んでから豊臣家は迷走を始めます。秀長さえ生きていれば跡継ぎを秀次にするか秀頼にするかで揉めなかったでしょうし、もし家康が先に死んでいたら(秀長が2歳年上)さらに興味深いことになったと思います。もっとも秀吉が突っ走ってしまうがゆえに生じる歪みの調整を一身に受けていたのが秀長でしたから、とても長生きはできなかったでしょうけどね・笑。秀長が死んだとき、秀吉はその亡骸を抱きながら「お前が死んだら豊臣家はどうなる!」と号泣したという話がありますが、まさに秀吉自身がいうとおりとなってしまいました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.4

うーん関白がいいか将軍がいいかとなると、おそらく形式上形が上の関白のほうが良いです。 豊臣家に関白・太政大臣職がある限り他家が官位や将軍職を引き出すことが不可能ですし、たとえ他に将軍職がいても関白宣旨で将軍職の支配領域を関東に限定するなどといった宣旨を出してしまえば将軍職の役割が全国的なものではなくなってしまいます。(坂上田村麻呂は陸奥のみ) 秀吉のミスは関白職を空位としたことで、本来関白職を豊臣の人間かあるいは近衛家にして完全に豊臣家で囲い込んでしまうことでしょう。 ただし正直その程度のことで歴史がかわったとは思いません。豊臣家崩壊の理由は豊臣主力たる豊臣恩顧の大名が徳川についたのがすべてで、どんなに政治的な正当性を豊臣家で確保したところで力づくでひっくり返すのが家康ですので、ばらばら(武断派と文治(三成)派)の豊臣家を秀吉の存命中の政治工作でなんとかするのは不可能だったでしょう。

  • mpascal
  • ベストアンサー率21% (1136/5195)
回答No.3

征夷大将軍は「源氏」をなのれなからなれなかったと聞いていましたが。

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2182/4833)
回答No.2

>何故、豊臣秀吉は関白・太政大臣になりましたが、征夷大将軍にならなかったんでしょうか? 色んな説がありますが、「これが正解」という答えはありません。 日本は、(時の権力者が、都合よく歴史を解釈する国定教科書採用の国と異なって)教育・信条の自由が認められている民主主義・法治国家ですからね。 ある説では「最後の将軍・足利義昭をみて、将軍職には興味が無かった」との事です。 太政大臣は、臨時的に設置する役職です。 関白は、常設で天皇を直接補佐する役職です。 征夷大将軍は、関白の支配を受ける役職です。 秀吉が存命の時に家康が(表向き)反旗を掲げなかった理由も、秀吉が関白だったからです。 天皇の補佐を行う関白秀吉に反旗を掲げる事は、天皇に弓を引く「朝敵」になる事を意味しました。 >秀吉が征夷大将軍になり、幕府を開いても短期間で滅びる運命だったんでしょうか? 家康が息子に将軍職を譲った様に、秀吉も秀次に将軍職を譲ったでしようね。 そして、秀頼が誕生すると秀次を廃して秀頼に将軍職を譲ったでしよう。 結局は、秀吉は関白でも将軍でも同じ結末を迎えたと思いますね。 >豊臣政権が関白職で政権を維持する為には、どうすればいいんでしょうか? 秀吉が存命中に、関白職を秀頼に譲る事でした。 秀吉が太閤になり、秀頼が関白になる体制をつくる事ですね。 家康が将軍になり幕府をひらいても、各地の大名は「(秀吉亡き後の)関白家へ挨拶」に赴いています。 もし、秀頼が関白職についていれば・・・。 家康は、(形式上とは言え)関白の支配下に位置する事になりますよね。 豊臣家に弓を引く事は、直接天皇家に弓を引く事になります。 力を失った天皇家でも、各地の大名は「正当性を求める為に、朝廷は必要」だったのです。 将軍職を承認するのも、朝廷。従の位を授けるのも朝廷です。 家康としては、秀頼が関白に就任する前に「豊臣家滅亡」を画策したのです。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.1

cma79458さん、こんばんは。 (1)秀次に将軍の位を譲るといっても、同じ運命でしょうから同じでしょう。 (2)秀頼にもう秀吉の存命中に関白職を譲るしかないでしょうね。

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