• ベストアンサー

令外官について。

朝廷の令外官とは何でしょうか? 臨時の職。官位の事ですか? 臨時の官位、職なので朝廷の順位が決まってないのですか?例えば、征夷大将軍や関白、内覧、鎮守府将軍など。 自分では勝手にそう解釈してます。 教えて下さい。 皆さんの回答お願いします。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 学校で「律令制」などと言う言葉を習ったと思いますが、朝廷の官(職務)は、「令」で定めるのが原則でした。  ところが、社会は複雑化する一方。対応して職種も増えるのですが、「令」は簡単には変えられない。で、「令で定めた正式な官のほかに官を作ろう」という話になって作られたのが「令外官」です。  口実としては「臨時職だからいいじゃぁないですか」ということだったかもしれません。慣例大事な朝廷のことですから、すぐ臨時ではなくなりました。  おまけに、江戸幕府ができると、武家の官職は令外官ということになりました。一応朝廷に申請して頂戴するのですが、ほとんどが勝手に「私は越後守がいい」「それがしは侍従を」「私は大膳大夫」をという希望を述べて、幕府がまとめて申請して、頂戴することになりました。  越後守は掃いて捨てるほどいましたし、侍従は天皇などのお世話をする人、大膳大夫は天皇の食事の世話をする人ですが、武家はハナからそんなことをするツモリはありませんでしたが、形だけ。 > 臨時の職。官位の事ですか?  官と位(位階)は別物です。  官というのは、職務。例えば大納言、征夷大将軍、検非違使などです。  位階というのは、「三位」とか「二位」とかのことです。朝廷の席順は、位階で決まります。「正一位」が最上席。位階が同じなら就任時期の先後。それも同じなら官で、という順番だったと思います。  「五位」以上が殿上の間へ昇殿できるので、俗に「殿上人」とか「雲の上の人」と呼びました。  武家では、およそ10万石までの譜代大名は、「従五位下」で決まり。老中クラスが従四位あたりまで。  ほぼ位階と官はセットで、例えば尾張と紀伊の殿様は、「従二位・大納言」が極官で、水戸は「従三位・中納言」でしたが、必ずしもそうではありませんでした。  ちなみに、天皇と面会して正式に会話するには「従五位」以上の位が必要です。現在、皇居清掃奉仕などをすると陛下が通りがかってお言葉を賜うことになっていますが、これは正式には面会でさえありません。「お会釈」と言います。  今では、位階は、「追贈」されるだけで、生きている間はいただけません。  さらに、ゴイサギという鷺がいますが、これは昔、醍醐天皇が「また会いたい」と思って、初めて出会った鷺に「会う資格(五位)」を与えたのが始まりです。天皇と会うために、四位?の位をもらった象もいます。  このように、無位無冠では会えないのです。  上に述べたとおり、ほぼ(幕府ではない朝廷では特に)官と位階はセットです。そして、清涼殿の殿上の間へ上がれるかどうかや席順は位階(後に家格)で決まりました。  官については、臨時だから令で決めなくていいじゃないか、というのが最初の発想だったのではないかと思います。  しかし徳川家光の乳母、春日局が「局」の官(位階は不知)を授けられたのは、天皇と面会するための臨時措置だったと書かれた本を読んだ記憶がありますが、ずっと名乗っていたのですから、臨時じゃなくなったはず。  ですが、位階に「臨時に決めた」という記事は記憶にありません。失敗して剥奪されるか、死ぬまではその位階のはずですし、なんらかの形で子孫に受け継がれたはずです。

その他の回答 (2)

回答No.3

>朝廷の令外官とは何でしょうか? 大宝律令に定められていない官(職務)のことです。 律令の外の官という意味です。 >臨時の職。官位の事ですか? 大宝律令に拘ることなくその時々の必要に応じて決めていました。 現在の復興大臣のようなものです。 源平合戦のころ木曽義仲が都で権勢をふるった際におそれをなした朝廷の公家衆が旭将軍などという官名を作って義仲に与えて懐柔しようとしたことがあります。 当初は臨時の職であったものがその後恒久的なものに変わって行ったものもあいます。 現代の沖縄及び北方対策担当大臣のようなものもあったということです。 現代と異なるのは大宝律令に定められた官は常時朝廷の閣議に出席する義務がありましたが令外官の場合は職務上必要な時に出席するだけでした。 >臨時の官位、職なので朝廷の順位が決まってないのですか? 朝廷内での位置づけはその職務の内容によって習慣的に順位付けられました。 その時々の政治情勢で位置づけが変わるというか権限が変わりました。 典型的なのが関白や摂政や征夷大将軍です。 源義家が征夷大将軍を拝命していました。 東国を平定して都に戻った際に公家衆が義家の武力を恐れて尊重するようになり当時の朝廷内での征夷大将軍の権威が高いものとなりました。 頼朝も最初は大宝律令に定められた官に就任することを望みましたが常時閣議に出席するためには鎌倉を離れる必要があることから断念して征夷大将軍という官を拝命しました。 征夷大将軍という令外官の権限を絶対的なものとしたのは徳川家康です。 律令による位置づけが決められていなかったことから藤原氏の時代には令外官である関白や摂政が天皇をしのぐ権威を行使していました。 大宝律令で定められた官は公家である必要がありました。 豊臣秀吉は農民の出でしたので令外官である関白に就任して絶対的な権力を行使しました。 >自分では勝手にそう解釈してます。 上記しましたように時々で勝手に変わっていますので中らずと雖も遠からずです。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分も秀吉の例を見ても、身分が低く源平橘藤がない立場だったはずなので。 朝廷の歴史を調べると此処まで、朝廷が前例というものを重んじるとは思いませんでした。 ああいった王朝や朝廷の存在は、どの時代でも難しいですよね。 回答ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.1

cma79458 さん、こんにちは。 大宝律令ができてから、100年もたたないうちに運用の簡素化を始めるため、令の規定の他に設けた官。これを令外官といいます。有名なのは関白、中納言、参議、蔵人頭でしょうか? 令外官 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%A4%96%E5%AE%98

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 令外官のイメージとして強いのが、藤原氏の摂関と大政大臣の分離と源頼朝の征夷大将軍があります。 でも頼朝の場合は大将軍の肩書きに拘り、たまたま征夷大将軍が選ばれた経緯があるのは知ってました。 いくら調べてもなかなか、分かりにくいですよね。 回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 豊臣秀吉と征夷大将軍について

    豊臣秀吉は、なぜ征夷大将軍になれなかったのですか?小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れたため朝廷が難色を示したという説がありますが本当ですか?征夷大将軍より関白の方が官位は高いので関白になって正解でしたか?

  • 幕府の創設の条件。

    日本には征夷大将軍がありますが、それ以外での将軍でも幕府は創設できますか? 例として、征東大将軍や征西大将軍でも創設できますか? 後、奥州を統治する権限がある将軍では、鎮守府将軍、身分が高い人には鎮守府大将軍?があります。 上記、以外での将軍=幕府は成り立ちますか? 近衞大将の唐名が幕府だと言う事は知ってます。 日本史に詳しい方や知ってる方の回答の程、お願いします。

  • 日本史に詳しい人。

    私は小学生の時から日本史が好きですが、分からないこともあります。 特に日本の戦国から安土桃山時代にかけての質問なんですが何故、豊臣秀吉は 関白・太政大臣になりましたが、征夷大将軍にならなかったんでしょうか? ここ最近の説では朝廷から征夷大将軍を勧められたのを固辞し、位の高い 関白と言われていますが秀吉の豊臣政権の国内政策のどの様に考えてたんでしょうか? 関白は天皇の補佐で征夷大将軍より官位は上ですが、権威があっても権力はありません。 それに基本的に関白職は五摂家に選らばれます。 (1)仮に秀吉が征夷大将軍になり、幕府を開いても短期間で滅びる運命だったんでしょうか? (2)もし、豊臣政権が関白職で政権を維持する為には、どうすればいいんでしょうか? 歴史に詳しい方は、この2点の回答ほどお願いします。

  • どうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

    になったのでしょう。 官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。 関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。 一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。 当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。 そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。 どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう? そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう? 結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。 しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。 自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。 逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。 自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。 そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

  • 後醍醐天皇と足利高氏(尊氏)との対立

    さすがの歴史好きの私も唯一苦手なのが南北朝時代なのですが ひとつ疑問が 足利尊氏は鎌倉幕府倒幕の褒美に征夷大将軍を要求しました しかし朝廷が与えたのは征西(鎮守府)将軍 この時天皇だった後醍醐天皇は何故尊氏を将軍にしなかったのでしょうか? 素直に尊氏に将軍宣下をして幕府を開かせれば その後の南北朝内乱も起きなかったと思うのです 後醍醐は朝廷の利権を守りたかった?とするなら尚更だと思いますが… 何か間違ってたらすみません この時代は苦手なので

  • 宣下の文書

    征夷大将軍とか関白とかになった際、朝廷から文書が送られてくると思うのですが、文面にはどんなことが書かれていたのでしょうか?将軍のはたしか東照宮の博物館にあったと思いましたが、関白や太政大臣とかは見たことありません。どなたかご存知の方お教えください。

  • 官位は金で買え

    とはよく言いますが… 徳川家康の征夷大将軍は金で買ったのは有名な話ですが 豊臣秀吉の関白も 織田信長の右大臣もみんな金で買ったものですか? まぁ朝廷を援助してた見返りに貰ったんだから金で買ったんだろ と言うのではなく この官位はいくらで売りますから じゃあ買いますとかそういう話です そんな話はあったでしょうか?

  • なぜ,徳川家康は将軍を選んだのでしょうか.

    徳川家康は,将軍(征夷大将軍)になりました. でも,秀吉は,「関白」から「太閤」になりました 詳しくは知りませんが,関白というのは天皇の直接の家臣であり,たぶん,「征夷大将軍」よりもかなり上の位だと思います. 信長は,「将軍」就任を拒否したと言います. おそらく「関白」のようなモノを目指していたのでしょう. この時代(戦国時代),秀吉の選択した「関白」と家康の選択した「征夷大将軍」とはどのような違いがあったのでしょうか. 一説には,将軍は,足利の直系でないとなれないとか, そのために,将軍になった人は,「系図を適当にでっち上げた」とか言われていますが,強いだけではダメで, 「血統」も関係しているのでしょうか. ご存じの方おられましたらお願いします.

  • 三職推任問題で、信長はどれを選ぼうとしていたか?

    三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)とかいう問題があって、 織田信長(又は、信忠?)が、征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することが、朝廷側もしくは信長側から提案されていたそうですが、 本能寺の変があって、結局、どれにも任官されずに終わったそうです。 そこで質問があります。 現在の学説では、 織田信長は、この三職推任問題において、征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれを選ぶつもりであった、というのが有力な学説なのでしょうか? 現在の学説では、この三職推任問題において、 織田信長は、征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれを選ぶつもりであった、というのが最も有力な学説なのでしょうか? 現在の学説では、この三職推任問題において、 織田信長は、征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれを選ぶつもりであった、というのが最も有力な学説であるのかを教えてください。

  • 豊臣秀吉の関白任官について。

    朝廷は豊臣秀吉と秀次の2代続く関白の任官をどう思っていたのでしょうか? 関白だけでなく征夷大将軍など他の官職も天皇と五摂家の判断ですが。 身分の低い秀吉と秀次に関白と太政大臣の任官したくなかったでしょうね。 回答お願いします。