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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『嫌われても平気」なわけ・・・)

嫌われる勇気と愛する勇気についての自信と生きる意味についての質問

このQ&Aのポイント
  • 「すべての人から好かれる(嫌われないでいる)なんてそもそも無理なこと」という言葉の裏に、「同じように、すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」という自信が潜んでいるのではないかということです。
  • エミール・シオランの言葉によると、全人類に嫌われても自殺すべきではないと言っていますが、全人類に嫌われても生きていけるのか、そしてその上で生きる意味とは何かについての意見を求めています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • oya_zico
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回答No.13

>『自分が、現にある通りのものであるがゆえに自殺するのはよい。 >だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。』 これって、自分に絶望した場合は、自殺するのは仕方ないが、人に嫌われたくらいで自殺するな!!! という意味でしょうか。 嫌われる人って、自己中の人が多いと思うのですが、そういう人って、結構、自己愛が強く、自分で自分のことを愛しているような気がしますよ~。だから、なかなか絶望しないので死なないんじゃない? それから、 『あの上司、嫌いなんだけど、仕事は出来るんだよな~』と愚痴をこぼすサラリーマン、 『あのホスト、自己中なんだけど、体の相性は良いんだよね~』と言うキャバ嬢、 嫌われてても、評価されている人間も居るということですよね。 『私のことは嫌いでも、◎◎のことは嫌いにならないで下さい』と叫ぶアイドル、 自分は嫌われても良いから、自分の大切なものを守りたいという気持ちでしょうか? その辺にも、答えがあるのではないでしょうか。 ということで、全人類に嫌われても、何か、別の『生き甲斐』さえあれば、人間、生きていけると思います。 そうそう、『この子猫ちゃんさえ居れば、男なんて要らないわ!!』と豪語していた女性を、どこかで見かけた様な気がするのですが、そんな女性を見たことがあるのは、私だけでしょうか? それとも、これは、男に愛されない寂しさの裏返し? う~ん、でも子猫と幸せそうな生活を送っている人達の笑顔を見ると、嘘ではなく本当に幸せそうですけどね。 ちなみに、私が、全人類から嫌われたとしたら、 嫌いな人間に対しても大人の対応をしてくれる会社に就職し、とりあえず給料を稼ぎつつ、 生き甲斐を見つけて暮らすでしょうね。 例えば、日本一美味しい大福探しとか、世界遺産巡りとか、スタップ細胞作成とか、ロールプレイングゲームのクリアとか、ゴミという名のお宝集めとか、アイドルのおっかけとか、Q&Aサイトの回答とか。。 その人なりに、何かやりたいこと、生き甲斐を見つけるんじゃないかと思います。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 ははは。面白いご意見ですね。 >『この子猫ちゃんさえ居れば、男なんて要らないわ!!』と豪語していた女性を、どこかで見かけた様な気がするのですが、そんな女性を見たことがあるのは、私だけでしょうか? それとも、これは、男に愛されない寂しさの裏返し? う~ん、でも子猫と幸せそうな生活を送っている人達の笑顔を見ると、嘘ではなく本当に幸せそうですけどね。 そう思います。つまり「人間にまんべんなく嫌われても、尚人間以外の生命が存在する」という救いがあります。 全人類に嫌われても、この犬が、この猫がわたしを好いてくれている。それは幸せなことですね。 充分生きる価値になると思います。 >そうそう、『この子猫ちゃんさえ居れば、男なんて要らないわ!!』と豪語していた女性を、どこかで見かけた様な気がするのですが、そんな女性を見たことがあるのは、私だけでしょうか? それとも、これは、男に愛されない寂しさの裏返し? う~ん、でも子猫と幸せそうな生活を送っている人達の笑顔を見ると、嘘ではなく本当に幸せそうですけどね。 あははは!そういう考えがあったとは(笑) かなり説得力のあるご意見です。 わたし自身、「ひとにはまんべんなく嫌われている」という自覚と、まあ「自信」(?)があるので、猫や犬には好かれたいです。 鳥や獣、草や花など、自然界のあらゆる生き物と心を通わせることができたという、アッシジの聖フランチェスコのように。 とても面白いご意見を聞かせていただきました。 ありがとうございます。

noname#226970
質問者

補足

『自分が、現にある通りのものであるがゆえに自殺するのはよい。  だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。』 これは回答を読んでからの「質問」の補足ですが、 「嫌われる」ということが何かのアクションの結果という因果律抜きに、 正に「自分が自分であるが故」の理由で嫌われること。を考えます。 シオランの言葉を置き換えれば、 『自分が、現にある通りのものであるがゆえに全人類が顔に唾を吐きかけてきた。』なら、どうするか? これは抽象的な議論ではなく、若いころからの質問者の切実な問いなのです。 あなたが「○○だから」きらい、ではなく「あなたがあなたであるから」きらい。と、いうこと・・・

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その他の回答 (22)

  • soranaka
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回答No.12

全ての人から「嫌われる」こともなければ、「好かれる」こともない。 これを前提で考えるのなら、エミール・シオランの言葉は、 自分自身が、自分を「嫌う」のか、「好む」のかということになるではないでしょうか。 自分の人生は、他人によって決定されるものではなく、自分自身によってのみ決定されるものだという解釈になります。 その上で、生きる意味とは、「自分が意思決定するすべて」もしくは「意思決定そのもの」という解釈になるように思います。 いかがでしょうか。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >全ての人から「嫌われる」こともなければ、「好かれる」こともない。 これを前提で考えるのなら、エミール・シオランの言葉は、 自分自身が、自分を「嫌う」のか、「好む」のかということになるではないでしょうか。 けれども、「自己評価」或は「自己イメージ」って、或る程度「他者の視線」「他者からの評価」に左右されるものではないでしょうか。 人間って、関係性のなかで「自己」のポジションを見出していく、とすれば、自分を好きな度合いや嫌いな度合いも、他者との相関関係の中で決められてゆくように思います。 >自分の人生は、他人によって決定されるものではなく、自分自身によってのみ決定されるものだという解釈になります。 そのように考える哲学者、心理学者は多いですね。つまりそういう認識が主流なのかもしれません。 >その上で、生きる意味とは、「自分が意思決定するすべて」もしくは「意思決定そのもの」という解釈になるように思います。 そうかんがえると 『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。住みにくさが高じると、安き所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画が出来る。 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。』 といった「向う三軒両隣」の存在が「自己決定の自由」をどこまで許容し得るのか。或いはどこまで阻むのか?という疑問が生まれます。 自己と周囲の相克の間で、社会がどれだけ個人に寛容であり得るか? そんなことを思います。 このご意見も、立場の違いがわかって興味深く読みました。 どうもありがとうございます。

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回答No.11

「嫌われても平気」=100人中100人に「好き」って言われてもこの性格では気持ち悪い…(汗) それだったら怪しい宗教の教祖になって怪しいツボでも売りますよ(笑)

noname#226970
質問者

お礼

>それだったら怪しい宗教の教祖になって怪しいツボでも売りますよ(笑) あははは! そうですね。「百人中百人に好かれ」たら、却って不安で居心地悪いでしょうね。 「なにかわるいことでもしたかな?」なんて考えそうです。 敵も味方もほどほどに、というのが理想かな。 いつもお返事ありがとうございます。

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  • So-nice
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回答No.10

>その自信は何処から来るのか知りたいと思います。 「自信」ではなく「経験値」です 事実、こんなサイト上でも好きな奴、好かん奴がいますよね? 顔も見たことないのに、ねぇ? >生きる意味とはなにか? 「老いる」ためです 老いてからの晩年は「死ぬ」ために生きています 人間には「定命」があります 3.11で津波で亡くなった方には申し訳ないですが、助かった人には「まだまだ生きる意味があるのよ」と仏さんが言ってくれているもんだと信じているんですが、どうでしょう?

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >「自信」ではなく「経験値」です どうも屁理屈っぽくて申し訳ありませんが、「経験」を「意識化」した上での「自信」なのではありませんか。 >事実、こんなサイト上でも好きな奴、好かん奴がいますよね? >顔も見たことないのに、ねぇ? ははは。そうですね。でも個人的には「顔が見えない」って怖いですよ。 >3.11で津波で亡くなった方には申し訳ないですが、助かった人には「まだまだ生きる意味があるのよ」と仏さんが言ってくれているもんだと信じているんですが、どうでしょう? 成程。まっとうなご意見だと思います。 お話を聞かせていただき、ありがとうございます。

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noname#224992
noname#224992
回答No.9

>「すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」という「自信」が潜んでいるのではないかということです。 >その自信は何処から来るのか知りたいと思います。 これは、我々の住んでいる社会が互恵社会だからです。利己主義者だけで構成される社会なら、まんべんなく嫌われたら生存が危うい。 しかし互恵的利他主義というものが現に存在し、利己主義による社会の崩壊を 防いでいる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%92%E6%81%B5%E7%9A%84%E5%88%A9%E4%BB%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9 これは、人の心理の根底にムラとかコミュニティとかを尊重する意識があって、 村八分の恐怖とか遺伝子的に知っているし、親が子供に教えるのが常なんでしょうね。 無意識レベルでも人は集団に依存していたりします。会社組織、学校などでも同じ イジメなんてのは今にはじまったことではなくてそれによって子供が自殺するなど というのは、不安のストレスが極限に達するからでしょう。 ビートルズが歌う前から、イエス・キリストが教える前から 「愛こそすべて」「愛がなくては生きていけない」 ということが人口に膾炙しています。 愛の反対は「恐怖」です。すべての人から嫌われる想像は、その時点で 世界中から注がれるあらゆる類の「愛」を拒んでいることになるのでは ないでしょうか。 庇護を受けている状態の人間は、それがいつかなくなることを懼れます。 私もそうです。 サラリーマンは退職によってわずかな年金で生活をまかなっていかなくては なりません。スポーツ選手も芸能人もファンが彼らの生活を支えています。 戦力外通告をうけたりすればもちろん、芸能人でもスキャンダルや 経歴詐称や薬物・賭博に手をそめればたちまち生きていけなくなる。 ところが、互恵的利他主義というか、さらに一歩つっこんで貸し借り、 義理人情、恩義の色濃い会社組織の人間関係では、はたからみたら 恋愛感情に近い「信頼関係」・・・やはり一種の「愛」があったり するのですね。下町の工場でも大企業の派閥抗争でも。 >「すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」という「自信」が潜んでいるのではないかということです。 「大丈夫だよ。骨は拾ってやる」 そう言われて子会社に出向し安いながらも食うには困らない生活ができたり します。でもすぐに年金生活がはじまる。 >それはそうなんだけど。では、全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか? そもそもその上で、尚、生きる意味とはなにか? 自尊心。誰にも頼らず自分の足で歩く。 例えば独立できる資格をとる。もの書きになる。 嫌われても名が売れていれば本は売れる。 簡単ではないですけど。 まぁ、家族にまで見放されたら生きていけない。話は山月記の虎に 逆戻りですね。 やはり家族の愛でしょうか。夫婦など互恵的利他主義の典型みたいなものです。 たとえ、世界中が 僕につめたくても OK きみがいれば、OK 愛があればOK 何もいらない。 http://www.kget.jp/lyric/51352/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%A4!_%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%84

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 「愛」というキーワードを頂きましたが。 それは全くその通りで、これは修辞ではなく、質問者の命題は、「全てが敵」ということよりも「誰一人味方がいない」ということに尽きます。 「皆が敵」と「誰一人味方がいない」は、「同じじゃん!」と言われるかもしれませんが、違うんです(苦笑) >互恵的利他主義 って、つまりは「情けは人の為ならず」という「功利主義」ですよね? ではここでは「個人主義」(Individualism / Individualists) はどういう位置に置かれるのでしょう? 村社会、或いは地域社会というのは両刃の剣ですね。相互扶助が適当に配分される分にはいいんですが、一方、集団である以上、それを護るために異分子を排除するシステムを備えていますからね。 つまり「免疫システム」と同じですね。 最も、この場合(社会とか世間)という集団にとっての「異分子」とは多分に「真正の敵」ではなく「仮想」された「敵」なんですね。つまり社会は恣意的に免疫の排除システムを駆動させ得るのでしょう。 『山月記』の李徴は棄てられたのではなく、妻子を棄てたのでしょう。 >たとえ、世界中が 僕につめたくても OK きみがいれば、OK 愛があればOK 何もいらない。 これはその通り。100%同感です。では「キミ」は何処に? いつも興味深いお話をありがとうございます。

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  • sqqrcxvx
  • ベストアンサー率9% (84/911)
回答No.8

こんにちは。 >「同じように、すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」という「自信」が潜んでいるのではないかということです。 >その自信は何処から来るのか知りたいと思います。 これまでの経験としか言いようがないです。もっとも「自信」という言葉にあてはまるかどうか? 波は寄せては返す、往路が有れば復路もある、上に放り投げた物体は引力で落ちて来る、山が有れば谷もある。 全て神羅万象そんなもので(偉そうに言えばですよ)。ですから一方的に嫌われっぱなしという事はなかったですね。全員から嫌われたら、もう辛いなんてものじゃない。 でも冷ややかな態度を取られる、とか、冷たい態度を取られる(同じですか~笑)はよくやられましたね。日常茶飯事。ある年齢以上となると、冷ややかな態度の方がこちらとしては居心地がよくなって来る。気を遣う必要もないですしね。放っておいて貰おうか、という感覚です。 以前、と言っても最近grさんと「ハイヌーン」について会話させて頂きました。 悪の首領を逮捕し刑務所送りにした際には町の衆は保安官を支持していた。ところがです。その首領が出所して、さぁ保安官に対しお礼参りにやって来る。 皆の衆の態度は一変します。誰も保安官を助けようとはしない。戸を閉め小窓から冷やかに事の成行きを見つめている。羽振りの良いものに付き、落ち目の者には知らん顔。どうにでもなれという態度。 高名な映画評論家は言いました。 これはフレッド・ジンネマンの怒りであり憤りをぶつけた作品だと。 保安官はハメットでありトランボでありジンネマン自身です。悪のボスがマッカーシーで、皆の衆がアメリカ国民。 保安官をかつては正義の味方と讃えておきながら、いざとなれば我が身の保身だけに走る。頼りになるのは所詮自分だけ。 最後は1対3のスリリングなガンファイト。で結末はご覧のとおり。保安官はバッジを叩きつけて街を去ります。 ただの西部劇なら、これほど長く語り継がれることも無かったでしょう。 皆の衆とは、いつの時代もどこの国でも所詮この程度のものなのです。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 先日は、「真昼の決闘」についてのハワード・ホークスの反応を書きました。 わたしは単純に「西部劇」としてなら、ホークスが「ハイ・ヌーン」へのアンサーとして造った(と、言われる)「リオ・ブラボー」を好みますが、 改めてこうして伺うと、ジンネマンの作品は「西部劇」とは云うよりも、なんだろう、より文学的な領域に踏み込んでいますね。 >高名な映画評論家は言いました。 これはフレッド・ジンネマンの怒りであり憤りをぶつけた作品だと。 保安官はハメットでありトランボでありジンネマン自身です。悪のボスがマッカーシーで、皆の衆がアメリカ国民。 成程、その通りかもしれませんね。 >ただの西部劇なら、これほど長く語り継がれることも無かったでしょう。 >皆の衆とは、いつの時代もどこの国でも所詮この程度のものなのです。 そうですねえ。「皆の衆」ってなんですかねえ。 話が前後しますが、 >波は寄せては返す、往路が有れば復路もある、上に放り投げた物体は引力で落ちて来る、山が有れば谷もある。 全て神羅万象そんなもので(偉そうに言えばですよ)。ですから一方的に嫌われっぱなしという事はなかったですね。全員から嫌われたら、もう辛いなんてものじゃない。 なんか「陰・陽」ですね。バランスというか「中庸」というのか。 仰ることとてもよくわかります。わたしは極めて偏った人間ですから。 苦しんでいながら、一方で、「中庸」とか「バランス」というものをどこか軽視しているところがあります。 余談ですが、フレッド・ジンネマンはカメラマンでもあり、綺麗なモノクロのNYの写真を撮っていますよ。写真家としてはキューブリックの方が有名なのかもしれませんが。 とてもおもしろいお話を伺いました。どうもありがとうございました。

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  • citytombi
  • ベストアンサー率19% (1721/8628)
回答No.7

>すべての人から、まんべんなく嫌われることもない もしかしたら、人から嫌われる部分があったとして、それが一部の人にとっては好かれる部分になっている可能性があります。 “あばたもえくぼ”という諺がありますが、その人にとって欠点であっても、好いている人にとっては美徳であるということでしょう。 例えが正しいかどうか分かりませんが、ごく最近話題になった「ゲスの極み」ですが、大方の人には評判が悪いですが、コンサートは盛況でそういう影響は微塵もありません。 要するに、おかしな部分と同等以上に、その人を魅了する何かがあるならば、おかしさを覆い隠してしまうということかも知れません。 それを利用する人は、要領よく生き残っていくでしょうね。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 「あばたもえくぼ」。つまりすべての価値は相対的なもので、それを好むものもいれば好く者もいる。「絶対的に嫌悪される」ものはないというご意見ですね。 ああ、なんでこう理屈っぽい言い方になるんだろう(汗) >ごく最近話題になった「ゲスの極み」ですが わたしは「無知の極み」ですので、知らないのです。 >要するに、おかしな部分と同等以上に、その人を魅了する何かがあるならば、おかしさを覆い隠してしまうということかも知れません。 うーん。「何が」「誰を」魅了するんでしょうね。 わたし自身ひとを魅了するなにものをも持たないものとして素朴な疑問として残ります。 いつも明晰なご意見をありがとうございます。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10543/33147)
回答No.6

「全人類から嫌われるのはステータスだ」と回答した方がいますが、痛快ですね。そう思うに一票入れました。周囲の全員から嫌われるのも、なかなか大変なことだと思います。 まず、ただ黙っている人畜無害な人なら全員から嫌われない。なぜならその人畜無害な人を好む人もいるからです。だから金借りて返さないとか、その借りた金をとんでもないことに使うとか、恩を仇で返すとかもう相当なことをやらないとなかなか世界が全員敵になりません。宅間守レベルってことですよね。 だから自信というか、例えば私が「全世界から嫌われない自信があるんですね?」って聞かれたら、「いや自信じゃなくて、俺はそんなにおかしいやつじゃないもの」って答えますね。 むしろ全世界から嫌われる人って、針が振り切れるほど自己愛が強烈な人だと思います。宅間守がそうです。彼にとって愛すべき人間は世界で俺一人であり、その愛されるべき俺を愛さない世間を彼は激しく憎んだのです。周囲とトラブルを起こすメンヘラのかまってちゃんなんかも愛して願望が強烈で、それを隠しもしませんよね。誰だって愛されたい願望はありますが、「そうはいっても思い通りになるわじゃないからな」と普通の人は我慢するのですが、かまってちゃんはそれを我慢しないのです。 だから質問者さんが針が振り切れるほどに自己愛が強くなければ、全世界から嫌われてはいません。「好きでもないし、嫌いでもない」「ぶっちゃけ興味ない」って人が割と大勢いると思います。「興味ない」は「嫌い」とは似て非なるものです。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 こうして皆さんの、ある程度の分量のある、それぞれの意見として、内容もある意見を読んでいると、「自分がもっと頭脳明晰だったら」と思ったりします(苦笑) その「ステータス論」ですが、一匹の蟻さんがいて、周囲の100匹の蟻さんたちから総スカンをくらっていて孤立していたとします。 ステータスというからには、「何らかの結果として」という「原因」が想定されるわけですが、他の方のお礼にも書いたように、「嫌われることに理由ってあるのか?」というのがわたしの率直な疑問です。 つまり、これこれこうだから、こういうことをしたから、結果として皆に嫌われた、というような明快な因果律があるのか?ということです。 反論、というよりも、人の好悪全てに、所謂「因果応報」の理由付けをし得るのか?ということです。 「自己愛」というものについても、例えばごく幼少期から極めて少ない愛情しか受け取ることができなかった人(宅間守もその一人だと聞いています) が、成人後に「巨大な湖」のような愛情を求めることは本人の責でしょうか? 常に親から、周囲から、一定量の愛情を与えられてきた人の愛情の貯水高は、多分愛情に餓えた人たちの求める一括請求と同等だと思うのです。 ですから >だから質問者さんが針が振り切れるほどに自己愛が強くなければ、全世界から嫌われてはいません。 わたしはこれに対し「いや自分は違う」とは言えないのです。 思うところを率直に述べましたが、お気に障ることがありましたら、お詫びします。 ご意見をありがとうございます。

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回答No.5

 (1) 全人類に嫌われる という事はないのではないかと思う    根拠はありませんが、味方1,000人、敵1,000人という言葉があるように    必ず少数派にしろ嫌わない人もいるのだという事はあるので  (2) では例えば全人類が嫌ったとしても、それが食べ物を隠すとか必要最小限の    生活用品ももらえないとしたら、生きていけません。  (3) そうではなくて生活用品はあり、生活できる環境にある、    只 嫌われているだけだとしたら、生きていけるのでは。  (4) 孤独に耐えられるかどうかですね。  (5) 最近の私は、頼りになるのは自分しかいないという事が解ってきました。    でもそれは必要なものがそろっていての話です。  (6) 精神的に人に嫌われるという事は平気になりました。    それは自分が全人類に嫌われるようなことはしていないという自信から    来るのだと思います。  (7) そして生まれてきた以上何かしら意味があるからだと思うからです。   ご質問に対する回答とは意味が違っているでしょうか。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >ご質問に対する回答とは意味が違っているでしょうか。 いえ、そもそも、正解なんてない問いかけですから。 孤独に耐えられるかどうかー頼れるのは自分だけ つまり孤独に耐えうる、ということでしょうか。 >自分が全人類に嫌われるようなことはしていないという自信から来るのだと思います。 ひとが誰かを「嫌う」或は「疎外する」時に、「妥当な理由」ってあるのかなと思います。「嫌われるようなことはしていない」ハズだけど「何故か嫌われてる」という現実ってないでしょうか? >そして生まれてきた以上何かしら意味があるからだと思うからです。  上のシオランの言葉は彼の本からの引用ですが、その本の原題を直訳すると、『生まれてきたということの不都合について』だそうです(苦笑) この辺は意見が分かれていて面白いところだと思います。 ご意見をお聞かせいただき、ありがとうございました。

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  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1263/3446)
回答No.4

>「同じように、すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」という「自信」が潜んでいるのではないかということです。 >では、全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか? 物事の捉え方の違いなんでしょうね。 そもそも「全人類に嫌われる」ということはないと考えます。 全人類の意見が一致するということは、とてつもなく恐ろしいことですよね。 たとえば、○○を殺せ。○○を滅ぼせ。 そういう思想が、共通の認識になるということ。 (世界中に嫌われるということは、確実に過激派にも嫌われるということですから、決してオーバーな表現ではないはず) それって、世の中が破滅の道を真っ直ぐに歩むのと同じことだと捉えます。 ※最悪の場合。その人物が所属するコミュニティの排除に始まり、最終的には自民族以外は殺せ。純潔以外も殺せ。と転びかねないため。 そういう意味で、 世の中というものは、バランスをとるために、主流に対し常に少数の反対派というのが生まれてくるものだろう。 という考えがあるので、まず全人類に嫌われるということはないと結論付けます。 なら、世界中の一人か二人くらいは最低でも自分のことを好いてくれるでしょう。 決して「私は人には嫌われない」「私は人に好かれる人間だ」という、前向きな考えから導き出されたものではないこともお伝えしておきます。 >その上で、尚、生きる意味とはなにか? 私の中にはない状況なので、これにはお答えしかねます。 ちょっと質問とは脱線してしまうかもれませんが。 もともと私は「発信する側」でいたい人間なので、自分と異なる意見も受け入れないといけないという考えが根底にありますし、無条件に人を嫌うということはないです。 ダメだと思えば、嫌うより前に一定の距離を置き関わらないようにしますので、この時点で「全世界が特定の人間を嫌う」ということは破綻します。 ※なので私の中では「一定の距離を置かれた≠嫌われた」です。ここ大事。 世の中、人を深く嫌うほどには他人に関心など抱きません。 そういう意味では、嫌われるよりも「孤独」のほうが、私にとってはるかに恐ろしいものです。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 勿論、現実に於いて、世界の何十億人から嫌われるなどということはありえないことです。(そもそも、出会うことがありませんから) >世の中というものは、バランスをとるために、主流に対し常に少数の反対派というのが生まれてくるものだろう。 「主流」と「反・主流」。わたしはそこにもう一つ、「異端」という存在を仮定しています。わたしは個人的に「異端邪説」というものに興味があります。つまり、主流・反主流共に、或る一定数の賛同者を持ちますが、 異端は孤立する。という考えです。なぜって異端は「正」にも「反」にも帰属しませんから。 ・・・わたしは頂いたお答えに「反対したくて」反対しているのではありません。そのように受け取られましたらお詫びします。 仮に「正」か「反」かという前提の上に立って、 >なら、世界中の一人か二人くらいは最低でも自分のことを好いてくれるでしょう。 ということであるのなら、「第三の男」は愛されうるでしょうか? >※なので私の中では「一定の距離を置かれた≠嫌われた」です。ここ大事。 うーん。ここが・・・わたしは「一定の距離を置かれた、イコール、嫌われた」という思考に走ってしまうんです。どちらが正しい認識であるということでなしに、 「一定の距離を置かれた≠嫌われた」です。ここ大事。 の方が楽ですよね! >世の中、人を深く嫌うほどには他人に関心など抱きません。 そういう意味では、嫌われるよりも「孤独」のほうが、私にとってはるかに恐ろしいものです。 仰るとおりです。 ご意見をありがとうございました。

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  • manmanmann
  • ベストアンサー率12% (535/4296)
回答No.3

>その自信は何処から来るのか知りたいと思います。 やはり実体験からくるものかもしれません。 例えばきちんと親の愛を受けているとか、人間関係において致命的な失敗をしたことがないとか。 そういったこれまでの成功体験が私の「同じように、すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」という自信を支えています。 全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか…うーん…。 お金がたくさんあって、引きこもってゆうゆうと生活できるのなら、それでもある程度は楽しめるかもしれません。でも、いやだなあ。耐えられる気がしない。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >やはり実体験からくるものかもしれません。 例えばきちんと親の愛を受けているとか、人間関係において致命的な失敗をしたことがないとか。 そういったこれまでの成功体験が私の「同じように、すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」という自信を支えています。 そうですよね。 「成功体験」の裏付けですよね。 わたしにはそれがない・・・というのか、少なくともそのように思うことができない=「まんべんなく嫌われうる」という思いから抜けきれません。 また、「そんなことはない」と思うことが、「自己欺瞞」に思えて仕方がありません。 >全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか…うーん…。 お金がたくさんあって、引きこもってゆうゆうと生活できるのなら、それでもある程度は楽しめるかもしれません。でも、いやだなあ。耐えられる気がしない。 あははは! いや、これは象徴的表現ですので、額面通り捉えられる必要はないと思います。 的確でわかりやすいお返事をありがとうございました。

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    またストーカー殺人が起きてしまいました。 そもそもストーカーというのは ふと思ったんですけど極端に言えば 死ぬか殺すかの勢いがないと やらないと思います。だから警察がやめろとか 言われても 逮捕されても やめられるものでは ないと思います。 それほど 彼女に対する気持ちが強いと言うことを 警察はわかって対処したほうが良いと思います。相手を殺す勇気がない人は 自殺するし 自殺する勇気がないひとは 相手を殺す。 ストーカーをなめては 被害者がまた出ると思います。 皆さんど~思われますか?

  • 友達いなくて平気?

    専門学校卒業後、都市部に社宅のある会社に勤め、 地元の友人と呼べていた人たちとの関わりがなくな り、現在は地元に戻ってますが、数年経過している ので改めて連絡をとるもの難しく、友人と呼べる人が 一切いない状態で、それをさほど苦痛とは思わない 人間だと自分のことを思ってました。 職場では、同僚として接することとは出来ていました けど友人と呼べるような人はできませんでした。 恋人なんて自分には持ちようもないと思いますし 第一、他人を求めてないような気がしてました。 でも、悩みを相談する人もいないので悩まなくなり、 すべてなるようになれ、どーでもいい!みたいな 生き方、考え方をするようになってしまっているよう な気がします。 しかし、学校で毎日顔合わせるとかでもないのに いまさら友人などどこで作ればいいのか・・。 人と本音で話したり遊んだり、ここ数年一切してな くて・・。心を許せる他人が一切いないまま生きてて どこかでおかしくなっちゃわないかと最近心配です。 というかすでに人として壊れてるような気も・・。 人は一人じゃ生きていけない、はずですよね・・。 ↑この言葉の意味を精神的な支え(家族除く)が 必要ととればですが・・。

  • 一人でも平気な人へ

    こんにちは。 たまにこちらのアドバイス&回答で「私は一人でも平気です!」とか「一人でも気になりません!」とか自信たっぷりな回答を見かけます。 私はこういう回答者さんの言葉を読むたびに とっても羨ましいと思ってしまいます。 なぜなら、私もそういう人物になりたいからです。 でも、私は小心者なのでとっても難しいのです。 職場や子供関係の行事(学校や習い事など)で1人きりだと寂しさと恥ずかしさでズタズタになってしまいそうです。実際はそれほどではありませんが。 グループに入っているととても安心するのですが、人に合わせてばかりで安心感はあるけど、なんだか違うような気持ちにもなります。 それで、1人で行動してみたら、周りの視線が気になります。友達も出来ない人だと思われていないかなど。 「一人が好きだから一人でいるのよ」って顔して堂々としていればいいのでしょうが、出来ません。 1人でも平気でいられる強い人間になる方法ってあるのでしょうか? コツとか秘訣があれば教えてください。

  • 悩んでいます。

    私は今あることですごい苦しい日々を送っています。 それでも頑張って生きてきたのは、「神様は乗り越えられるハードルしか与えない」とか「神様はこの人ならこの試練を乗り越えられると判断してその人に選んだ」っていう言葉を信じてきたからです。でも、最近いじめによる自殺やいじめじゃなくても悩んだ末に自殺をしてしまう人たちのことを思うようになって、乗り越えられないハードルもあるんじゃないかと思うようになってきました。そしたら生きる自信もなくなってきてしまいました。もし乗り越えられない壁がないなら自殺ももっと少なくなるんじゃないかって思うのですが、みなさんはどう考えますか?自殺した人たちの存在を思っても、「神様は乗り越えられないハードルは与えない」という言葉を強く信じられますか?意見を聞かせてください。お願いします。     長文な上、下手な文章ですみません。

  • ウズベキスタン、トルクメニスタンのタン(スタン)とは?

    旧ソ連、中央アジア、中近東で、タン(スタン)が付く国が複数ありますよね。イラン語で国とか土地という意味と聞いたことがあるのですが自信がありません。これらの国が全てイラン語や特定の同じ言語を話すわけでもないと思うのですが、お分かりの方、教えてください。この地域の国・民族は、近い言語を話しているのでしょうか。興味があります。 文化人類学のような分野で、このカテではないのかもしれませんが。 ところでアイヌ語でコタンということばもありますね。

  • 失恋からの自殺、殺人

    世間では失恋から殺人を起こしたり、自殺したりする人が居ると思います。 そういう人をどう思いますか? 殺すのも自分が死ぬのも、 心が弱いからもう全て亡くしてしまおうという気持ちですよね。 それが相手なのか自分なのかの違いで。 だから「そんな考えを持つのはバカだ」「もっといい人が現れるんだからやめろ」 「心が弱いのでもっと強くなってください」などという御意見が当然あると思います。 今私は立ち直れない失恋をし、少しこういう言葉が頭をかすめた事がありました。 もちろん実行に移すことはバカなことだし、そんな勇気もありません。 それに相手に何かをするほどの勇気もありません。 自分で自分を亡くしてしまいたいと一瞬思いました。 私は一瞬でもそう思う自分が今良くわかりません。 今そんなにバカなこととは思えなくなっています。 それはそれで良いのではないかと。 それでこういう事はどのくらいバカなことなのか教えて頂きたいのです。

  • 難しい言葉

    私は現在高校三年生で、就活生です。 私の悩みは、日本語の羅列がおかしい事、文書では大体書けても、いざ喋るとなると、要点や主語も抜けていて早口で。 子供みたいなことしか言えません。 臨機応変に対応することが出来ず、即コメントを要するときなどは、頭が真っ白になって焦って笑って誤魔化してしまう時もあります。 暗記力も理解力も無くて、先生や友達には呆れられて下に見られてバカにされます。 だからそのようなキャラを演じるしかなく、日々を辛く生きてきました。全て自分が悪いのだと自重しております。 少しでも頭が良かったら。と、何度も夢見てきました。 頭が悪い、臨機応変な対応が出来ないが故に、バイトでも泣いて辞める結果となりました。 人に迷惑ばかりかけてしまいます。 大人の方は良く難しい言葉を言っています。 『あざとい・あがない』『なれど』など.... 私もあんなに柔軟な考えがしたい。あんなふうに難しい言葉を自信持って言えるようにしたい。 小さい事で泣いてしまうようなクヨクヨした人間でいたくない。 社会に貢献して賞賛されるような人間でいたい。 この世の中に名を残したい。無銘で終わらせたくない。 頭が悪いゆえに、顔が不細工故に、声が気持ち悪いが故に諦めてきた大きな夢も、実現させたい。 何より、人に迷惑を掛けたくない、 だから質問させて頂きました。 かっこいい大人になりたい。 どうしたらなれるのか。 辞書を引いても出てきません。 今からこんな遅くから何を勉強したら良いのか。 教えてください。 どんな言葉でも構いません。 人として強くなれる、面白いコメントが出来る、話してて楽しい人になる、頼れる人になる、人間性のある人になる、知性的になれる、泣かない女になる。クヨクヨしない。 その方法教えてください、お願いいたしますm(__)m