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ニーチェは死んだと 神は言った?

koosakaの回答

  • koosaka
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回答No.3

神は死んだ、というニーチェの言葉を誤解しているようですが、それは文字通りキリスト教の神が死んだという意味のほかに、西欧のプラトン以来の形而上学の歴史が終わった、という意味です。 どういう意味かというと、プラトンは天に「イデア」の世界があり、それこそが真の実在であり、本物の世界であり、私たちの地上の世界は仮象の世界であり、ニセモノの世界であると言いました。 この、世界を越えた何か超越者が存在し、それが真の実在で、地上の個物・個々のもの・実存は仮象の、ニセモノの世界だという考えを古来、形而上学と言いました。 今の私たちかすらすると転倒した考えです。 でも、その後の西欧で、プラトンの「イデア」は神に言い換えられ、その神が天にあり、神こそが真の実在であり、人間や自然はその神の創造したもの、人間は神の被造物である、と言われました。 本末転倒です。 ところが西欧では、これが正しいものとずっと信じられてきました。 ところが190世紀末に、これをひっくり返す哲学者が現れました。 それがニーチェです。 ニーチェは言います、天に「イデア」という世界があり、それがホンモノの世界であり、地上の私たちの世界がニセモノの世界なんてウソだ、神が存在するなんてウソだ、地上の私たちの世界がホンモノの世界であり、唯一の世界である、と。 英国の哲学者ホワイトヘッドの言うところでは「西欧の哲学の歴史はプラトンの注釈の歴史にすぎない」と。 西欧の哲学の歴史は形而上学の歴史であり、神学の歴史です。 その「二世界論」、つまり天の世界があり、地上の世界があり、本物の世界があり、ニセモノの世界がある、という「二世界論」をニーチェは否定し、一つの世界を唱えたのです。 それが「神は死んだ」というコトバの意味です。 まあ、今ではそんなことは常識ですが、ニーチェの時代はそうでもなかったのです。 ところであなたは「人間の意識は宇宙の意識でもあるのです」と言いますが、意識というのは人間だけが持っているもので、宇宙は意識を持っていません。 だから、人間が宇宙の意識を持っている、ことはその通りですが、それを宇宙の意識と同一視することはできません。 「人と人の間、人間のつながりの中に宗教があり神が性質としてある以上」と言いますが、人と人の間に神なんていません。人と人の間には、人間関係があるだけです。 東日本大震災の時に「人と人のきずな」と言われましたが、それを宗教なんて言った人はいません。 それに神は性質としてあるのではありません。 性質とは何か本体があり、その本体に付属するモノのこと、神は主人ではあっても、付属物であったりしません。 それではまるで、神は「召し使い」と言っているようなものではないですか? 神は誰に付属するものなんですか? 「無神論者が尊重される」と言いますが、誰が無神論者を尊重しているのですか? 私は無神論者ですが、それが事実だからで、別に無神論を尊重なんてしていません。 「宗教と一緒に道徳も荒れています」と言いますが、荒れているのはイスラム国だけです。 でも、イスラム教徒はイスラム国をイスラム教ではない、と言っています。 だから宗教は荒れていません。 道徳は、戦前の「滅私奉公」の反動で私利私欲になっていますが、評論家・故・吉本隆明は、私利私欲を認めなくて何の戦後か、といってそれを肯定しています。 だから道徳も荒れていません。 あなたは戦前の修身・道徳を復活したいのですか? とんだアナクロニズムですね。 「今こそ神とは何か、そして神を信じる人を弁護しなければ」と言いますが、日本は仏教国です。 一神教の信徒はキリスト教・イスラム教・ユダヤ教を合わせて150万人しかいません。 そして仏と神は似ている、と言いますが、似ていません。 あなたが神に興味があるのは勝手です。 だけど「人間の意識に」神はいませんし、「この宇宙にも」神はいません。 「神をどう思いますか?」と言われても、仏教徒にそんなこと質問されても困ります。 そんなことは外国人に聞いてください!

yuniko99
質問者

お礼

成る程 成る程 うん 勉強になります。 書きたい事が山ほどありますが 何を書けば良いですかね 今でも唯心論を信じてる人もいますねえ 自分だけが存在し 他の人は自分の中に存在する 現実と理想 エネルギーと性質 性質と真理 天と地 天地人 父と子と聖霊 この様な内容を書いていたらキリがありません ただ 性質は今まで「何か本体」に付属するものと言われてきましたが それは間違っています。 性質は真理に従って現れるのです。それが何で属するものでしょうか? 性質はエネルギー・物質とは独立したものです。 そして我々の精神は 性質で出来ているのです。 脳内の物質が反応して(素粒子レベルまで)その結果性質としての精神を実現しているのです、存在せしめているのです。 心は体(脳を含む)から独立しているのです。 だから体を殺すことだって出来るのです。勿論愛する事も出来ます。 神は性質として在ると書いたのは 本来は神の体は宇宙、心は真理 真理の現れが神 と言う事です。 この場合も体であるエネルギー・物質よりも真理としての神、霊者としての神が本来の意味です。聖書にそう書いてあります。 外国の神は関係なくとも 日本にも神はいます、八百万の神がいるではないですか 仏教徒でありながら神道の神社にも参ってるのですから 矛盾はあるかもしれませんが そこそこ折り合いは付いてるのでしょう。 >神教の信徒はキリスト教・イスラム教・ユダヤ教を合わせて150万人 これは「日本には」と書いてくれないと分かりません 世界には何人居るんですか?仏教徒よりもキリスト教徒の方が遥かに多いでしょう。 イスラム教徒も多い。 貴方には思想がありますか? 貴方は真実を知ってるのですか? もしそうなら教えて欲しいものです。書きたい事はありますが 時間がない どうもでした。

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