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幕末の銃取り引き形態?

noname#224207の回答

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noname#224207
noname#224207
回答No.5

No.1.3です 再度お礼を記入頂きありがとうございます。 補足がありましたので、説明させて頂きます。 >火縄銃は狩猟出来る程精度があったのでしょうか。 射程距離が200m前後と言われていますので、そこそこの精度はあったと思われます。 >昔は今より相当に獲物に接近出来たのでしょうか? 火縄銃の射程距離は200m前後といわれていますので、むやみに獲物に近づく必要はなかったでしょう。 命中させるウデの問題は別です。 散弾銃頼りの現在の狩猟マニアよりはウデは確かだったでしょう。 現在のライフル銃を使った猟友会の人でも200m離れて動き回る猪を撃つには相当に熟練している必要があるのではないのでしょうか。 >韓国併合時の韓国軍は火縄銃が主で、全く相手にならなかったとも言われます。 射程距離の違いと弾道の正確さの違いが原因です。 相手より離れて正確に撃つことができるほうが優位です。 むしろ、韓国といいますか朝鮮王朝は長いあいだ文官優位の国でしたので、兵の練度が決定的に違っていたという理由のほうが大きいのではないのでしょうか まぁ~、銃の性能に関する薀蓄よりも、歴史的に信長が武田騎馬軍団を撃破したのが火縄銃です。 ナポレオンがモスクワから撤退するまでにヨーロッパを席巻した祭に使っていたのが、いわゆる火縄銃です。(着火装置が日本とは多少違っていました) ミエニー銃がフランス軍に採用されたのは、そのズーット後です。 猪一匹撃てない代物ではどこの戦争にも使われなかったでしょう。 参考 ja.wikipedia.org/wiki/火縄銃 抜粋 一般的には現代の小銃に比べて威力も性能も劣ると認識されがちである。しかしながら、この条件において現代の小銃よりも不利になるのは、長距離での弾道特性、命中率である。滑腔銃身で、しかも弾丸の鉛部分を硬い金属で覆っていない場合(いわゆるソフトポイント弾)は、むしろ威力については増す。さらに現代の小銃や散弾銃と比べると口径が大きいため、弾丸自体がかなり重い。 弾丸の初速は480m/s程度あり、拳銃よりははるかに速い。したがって、火縄銃は小銃に比べれば弾丸の直進安定性こそ劣るものの、近距離での破壊力は現代の散弾銃のスラッグ弾射撃にならぶ、あるいはこれを超えるかなり強力かつ危険なものである。 (中略) 正規の薬量・弾頭重量の火縄銃で戦国期当時の一般的な足軽向けの具足を射撃した報告によると、厚い鋼板を用いた胴体正面部分であっても直撃を受ければいとも簡単に撃ち抜かれてしまい、硬い鋼板に当たることで分裂した鉛弾が胴体内にバラバラに飛散して背中側の鋼板も貫いている (中略) 火縄銃の有効射程は200m程度としており、命中精度に関する実験も行われている。ヒトを模した身長160cmの静止した的に対して、30mで全て5発全てが胸部に着弾、50mでも5発中4発が着弾するという好成績を収めている

441moe
質問者

お礼

重ね重ね有難う御座います。 まさに雰囲気だけの感覚でした。

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