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フェアじゃない!?

先日友人が 「生まれて間もない無防備な子供の脳に宗教をツメコムのはフェアじゃない」 というので、なるほどなと思ったんですが、あとで考えてみるとどうかな?と分らなくなりました。 たぶん彼は、科学VS宗教という図式で言ったんだと思います。 「だったら、科学をツメコムのもフェアじゃないじゃん。」 と思いました。 例えば、「お水を冷やしたら氷になりますよ」と教えるのは、まあ必要というか便利な知恵だから教えるんだけど、もし神様とかについてを全く教えないでそういう因果関係みたいなことばかり教えた場合、これはやっぱ科学を刷り込んでることになるんじゃないでしょうか? 「分ってることから始めよう」というのが科学ですよね? 宗教は「信じることから始めよう」です。 やはりフェアじゃないという結論になったんですが、どうなんでしょう? ご意見を頂けたら嬉しいです。 また、この問題にはもう世間では解答が出てるんですか? よろしければ、それも教えて下さい。

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  • ベストアンサー
  • kube
  • ベストアンサー率30% (49/159)
回答No.1

sowowさんこんにちは。  フェアかフェアでないかというより、個人の判断力が養われないうちに一方的な主観を与えるのは有害でしょうね。  例えば物理の法則は客観ですので誰がどこでどうやっても、過程が同じなら結果も同じになります。  でも、宗教は主観であってそれぞれ主張が異なり、それの善悪の判断をするのは個人の主観や経験によります。  個人の主観は経験によって養われるものですから、その経験が無い状態でひとつの価値観(主観)だけを与えるのはやはり問題ではないでしょうか。  カルトに入信するとしても、大人が入信するのと赤子から教育するのとでは意味が全く違います。  でも、物理の法則は赤子から教えても大人になってから勉強しても同じことです。  そういう意味で友人は「フェアじゃない」とおっしゃられているのではないでしょうか。

sowow
質問者

お礼

なるほど、主観と客観ですね。 >物理の法則は赤子から教えても大人になってから勉強しても同じことです。 このへんの違いが大きいんですかね。 たしかに宗教は一度疑ってしまうと、戻りにくい感じがあります。だから小さなうちに教えるんでしょうか。 >個人の主観は経験によって養われるもの そうですよね。 でも、主観も客観も紙一重な気もするから厄介です。

sowow
質問者

補足

ご回答ありがとうございますm( _ _)m

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その他の回答 (14)

noname#7082
noname#7082
回答No.15

【・「生まれて間もない無防備な子供の脳に宗教をツメコムのはフェアじゃない」 …「だったら、科学をツメコムのもフェアじゃないじゃん。」 …もし神様とかについてを全く教えないでそういう因果関係みたいなことばかり教えた場合、これはやっぱ科学を刷り込んでることになるんじゃないでしょうか? 】 こんばんわ、『フェアは 無い!』 または、『フェアじゃない。』 …聴いた話と私見による 独断です。 (聴いた話) 現在の 占星術は、昔々の 宇宙(科)学 で在った。 その宇宙学は、宗教学に 内包されていて、 その宗教学は、宇宙学に 内包されていた。 「科学&宗教は ひとつだった。」 {いつ、どこで、だれが、バラバラにしたのかは、聴いてません。} で、(私見) 「科学&宗教の 両方を バランスよく “こども”に“刷り込む”のが ベターだと理解してます。」    ***   ***   ***  【蛇足ですが…】 (聴いた話・独断) 赤ん坊が、記憶する“言葉自体”も、ある意味では “フェアじゃない”。 ******* ******* ******* …母親が同じ言葉を 繰り返すことにより、赤ん坊は それを記憶する、ほとんどの赤ん坊が 最初に覚える言葉が、多分『まんま』だと、思われます。 まんまの つぎは → “ママ”←「パパではない!」 ※【資料】 *** *** *** 【フェア】 公明正大 なさま。公平なさま。 【公明正大】 私心が さしはさまれず、正しく事の行われる・こと(さま)。 【私心】 (1)自分ひとり の利益をはかろうとする気持ち。 「―を去る」 (2)自分だけの 考え。

sowow
質問者

お礼

>科学&宗教の 両方を バランスよく “こども”に“刷り込む”のが ベターだと理解してます。 これが実際、難しいですよね。 難しい時代になった。 「正解がない問題」を解くことができるのが脳ならば。 子供にあまりテレビゲームをさせないというのはかなり正しい判断かもしれません。 「正解あり過ぎ」ですアレ。オモシロ過ぎですし。 そして「選択肢」少なすぎ。 人生が「四択」な訳がない。ましてや・・・

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noname#15238
noname#15238
回答No.14

こりゃ~でおくれてしまった。 これって、イラクとかに生まれた子は、フェアじゃないって事ですかね、祖国も親も選べませんが、自分の顔の「しわ」には責任を持たねばと考える今日この頃です。 楽しい質問、皆様の回答参考になりますね、それでは失礼します。

sowow
質問者

お礼

fishbowl66様こんにちは。 すこしタイミング悪かったですね。 またぜひよろしくお願いしますm( _ _)m 良いシワには憧れることすらできる「男」って気楽! フェアじゃない!

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  • izaya
  • ベストアンサー率35% (51/144)
回答No.13

いや~面白いご質問ですね。 思うに、信仰の問題は本人の意思において決定されるべき領域の問題であり、自我が確立されていない子供にはその判別がつかないから、フェアじゃない・・本人が自分の判断においてどうするかを決まれるようになってからすべし、ということでしょう。 また、科学はフェアかどうかと言うと、一応それは意思判断に関係なく「事実」として子供にも大人にも同一の内容であるのだから、フェアである、と言えるのではないでしょうか。 「信じる」という言葉自体は明証されたものには使わないから、それこそ宗教は確かでなくてもいいのです。だから余計にその判断できない(何でも疑わない)子供には扱えないし、扱わせるべきでもない。 いかが?

sowow
質問者

お礼

上手くまとめて頂いて、ありがとうございますm( _ _)m >信仰の問題は本人の意思において決定されるべき領域の問題であり、自我が確立されていない子供にはその判別がつかないから、フェアじゃない・・ そうですね。 今の「信仰の自由」は自由ではないと言えるかもしれません。 >科学はフェアかどうかと言うと、一応それは意思判断に関係なく「事実」として子供にも大人にも同一の内容であるのだから、フェアである 「一応」がイイと思いました。あまりにも突き詰めちゃうと分らなくなるから(笑)。 そもそも宗教と科学では「方法」が全然違うので比べようがない部分のほうが多いです。 小さい頃から毎日「お祈り」をして「聖書」を読んできた、という生い立ちの人は今では少ないと思いますが、 こういう体験は、少なからず人生全部に影響があります(年齢を重ねるほどそれが明確になってきます)。 良い面も悪い面も混在してるんで、慎重に判断したほうがいいと思います。

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  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.12

日本人が宗教というと、教祖様がいて、その人が説いた教えが あり、その教えを信者が組織を組んで信じている、そういう 図式が無意識のうちに頭の中にあるような気がします。 しかしそれ以外に、自然発生的な宗教があり、教義も整理 されないまま、何となく伝統や生活習慣となって後世に受け 継がれている宗教もあります。 代表的なところでは、インドのヒンズー教・日本の神道なんか がそうですね。 質問者の方は、道徳と宗教は別との考えをお持ちのようですが、 実は日本人のもつ道徳観ないしは善悪観の多くは神道から きています。 「殺生はいけません」とか「親や先生を尊敬しましょう」 といった、あきらかに仏教・儒教からきている道徳観以外 は、神道的な発想が多いです。 代表的なところでは、日本では食堂に行くと割り箸でご飯 を食べますよね。 ところが中国や韓国ではそうではありません。 日本の割り箸文化は、穢れをきらう神道的な価値観から きたものだと、考えています。 まあ、第三者がどうのこうの言ったところで、結局子供は 両親の価値観を生活の中で学んで育ちます。 両親が宗教を信じていれば、自然とその宗教の価値観に触れ ながら育つでしょう。 仮に特定の宗教の信者でなくても、日本人の歴史に無意識 のうちに伝えられてきた、神道的価値観から逃れることは まず不可能です。 ただ、近年の少年犯罪が多発しているのは、親による家庭 教育が不十分だからだと考えられます。 江戸時代などでは、寺子屋の教師が、その寺子屋に通う子供 たちに、読み書きを教えるとともに、儒教や仏教に基づいた 人の生き方についても教えていました。 (実際、寺子屋の教師は、寺のお坊さんや、儒学を学んだ  浪人などがなることが多かったようです) 特定の宗教に偏らずに、伝統的な日本人の倫理・道徳観を 整理した上で、人生経験豊かで品性のある大人を教師に選び (ここが一番難しいかも)、小学校で道徳教育を施すのも、 時勢としてやむをえないかもしれません。

sowow
質問者

お礼

>日本人が宗教というと、教祖様がいて、その人が説いた教えが あり、その教えを信者が組織を組んで信じている、そういう 図式が無意識のうちに頭の中にあるような気がします。 そうですね。 しかし事実は、 宗教のない国は無いと言い切ってもいいとおもうし、 そのうちの「組織宗教」の数はむしろ全然少ないでしょう。 もともとその土地あったものを改宗させて勢力を拡大させているだけだと思います。 道徳こそは一律ではないにもかかわらずです。 >質問者の方は、道徳と宗教は別との考えをお持ちのようですが 道徳の意味、価値、成否と、宗教は関係ないという意味です。 すいません。 人間の生活には仰るように、宗教に影響されない部分が少ないので、自動的に「宗教から」というかたちになってるんですが、必ずしもこれからも宗教が受け持たないといけないということはないかと思います。 例えば、動物にはまだ宗教はない(自然宗教となると厳密にはあるのかな?)ですが、すでに道徳は持ってるように思えます。(自信なし) >第三者がどうのこうの言ったところで、結局子供は 両親の価値観を生活の中で学んで育ちます そうですね。 これがいいですね。ほんとは。 フェアとかなんとか言うのは正直めんどくさいですよね。 もっと、子供自身に対して考えることやできることがあると思います。 回答ありがとうございますm( _ _)m 勉強になりました。

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noname#155689
noname#155689
回答No.11

#5です。こんにちは。 下で私が挙げた参考URLのQ&Aですが sowowさんも回答を寄せられていましたね。 すいませんでした。 さて、話を戻しまして フェアじゃない、というのは「偏りがあって平等じゃない」 ということだと思いますので ご友人の主張は「生まれて間もない無防備な子供の脳に宗教をツメコムのは 今の時代に於いては非常に偏った/私心に満ちた、不正な行為である」 というようなことを意味するのだと理解します。 >判断に任せると仰るンなら『判断力』が育つまで待てよっ!! とツッコむのであれば 生まれて間もない子供=赤ん坊に宗教を詰め込むなんでムリじゃぁ!! とツッコミ返したくもなるのですが それはさておき、私が思うに 問題は「ツメコム」とか「刷り込む」といった教え方であり それを問題にするなら、現代の科学の教え方だって 「ツメコム」とか「刷り込む」ようなモノじゃないか?と sowowさんは疑問を呈しているわけですよね。 そうであるならば、私は「その通り」だと思います。 さらに私は >「分ってることから始めよう」というのが科学ですよね? >宗教は「信じることから始めよう」です。 っていうのは、この場ではあまり関係ないことのように思いますし 突っ込めば「分かっていることは本当に分かっているの?」 みたいなビミョーな疑問が出て来る筈です。 起点が何であれ、ある考え方を絶対化して教えること 他の立場や他の視点・説があることを教えないこと 選択肢と選択に必要な情報を与えないことは 今時フェアではないと思います。 ただ、小さな子供に 社会で生きる上でのルールやマナーなど道徳的なことを教えるのに 宗教をモチーフにするのは悪くないのではないかとも思います。 もうひとつ。 この質問には、教え方がフェアか?という疑問と 科学はフェアか?という疑問が混ざっているように思います。 科学はフェアか?については結論が出た/出ないではなく フェアたろうとしている、ということで その証拠に「科学哲学」なるジャンルが出てきたのだと思います。

sowow
質問者

お礼

ツッコミありがとうございますm( _ _)m 「生まれて間もない」というのは大袈裟に言ったんだと思います。 科学的な論理回路が脳に形成されるよりも、 ほとんどの(厳密には全て?)動物に必要な感情的(←誤解を生みそうだがあえてこう言う)な回路の形成には、おおきなタイムラグがあるとおもいます。 だから、やはり宗教のほうが有利な気がします。 考えなおしました。 でも、僕もけして宗教の価値を否定しようなどとは思ってません。 >ビミョーな疑問 ですね。なんかスッキリしなくて気持ち悪いけど、ついつい面白いと思っちゃう問題です。 >sowowさんも回答を寄せられていましたね。 いま読み返すと、もろ他人の(まさに質問のなかの友人の)影響うけまくりな書き込みで、かなり恥ずかしいです。 >宗教をモチーフにするのは悪くないのではないかとも思います。 そういうのもありですね。 >科学はフェアか?については結論が出た/出ないではなく フェアたろうとしている、ということで なるほど!そうかもしれません。 他にも、いろいろありがとうございましたm( _ _)m

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  • kube
  • ベストアンサー率30% (49/159)
回答No.10

#1および#8です。  なんだか何度も書き込む事になってしまいました。ちょっと本題とズレそうなのですが、sowowさんが書いてくださったレスに対してだけ返答させて頂きますね。 >>主観と客観についてですが、これは厳密に分けられます。 >これは、ある枠内では明確に分けられるが、厳密には分けられないのでは?と思います。 >客観だと思ってた科学的事実も、思い込みだったと解ると主観の方によっちゃいませんか? >宗教の教えの中にも十分客観的な部分が見られます。  この理解は少し、私の文の意図と違う意味になってしまうので、ここだけ補足致します。  科学も、全てがわかっているわけでは無く、もちろん仮説や仮定、主観によるシミュレーション値の変動、など、いろいろとあります。  ですが、科学においては最終的に「正しい」とされる根拠は、「客観的事実」なのですね。  例えば「実証」。誰がやっても実験結果が同じであればそれは「正しい」のです。りんごは地球上どこでも落ちます。だから地球上ではニュートンは正しいと言えるわけです(ちょっと違うか?(笑))。  ですが、宗教はこの「正しさ」の根拠を「教義」とか「神(あるいはグル)の教え」とか「信仰心」などに求める事が多い。古い話で恐縮ですが(新しい話は被害者が生存しているので言いにくい)ガリレオは望遠鏡による天体観測で天動説を否定する十分な証拠があったにもかかわらず、「宗教裁判」でその「客観的事実」を否定しなければなりませんでした。つまり、太陽が回っているように見えるという「主観」の方が、ガリレオが天体を観測して得た「客観的事実」より「正しい」とされたのですね。  ひるがえって現在を眺めてみると、「客観的事実」を元にした(最も高い価値においた)宗教はひとつも無いはずです。まずは「教義」「教祖」「神」「信仰心」などに価値を置くでしょう。でないと神の存在が真っ先に否定されてしまうからです。  私はそういった主観的価値観を否定しませんし、人の心を救うにはそういう方法が必要だとも思います。が、やはりそれは「客観的事実」ではありません。釈迦の言葉を読むとそれは非常に鋭い観察によって得られた智恵で、人の心に迫りますが、それを改めて検証して何が正しくて何が正しくないかを「客観的事実」から明らかにしようとする人はおよそ「宗教人」にはいないでしょう。いるとしたらその人はすでに「科学者」です。  そういう意味で前回の私の書き込み 「従って客観に基づく「科学」というものは、「信仰」するようなものではなく、ただそこにあるものを「発見」して、それを利用していくだけです。」  に繋がるのだと言う風に意味を理解して頂けると幸いです。

sowow
質問者

お礼

なるほど。 お話、よく分りました。 >釈迦の言葉を読むとそれは非常に鋭い観察によって得られた智恵で、人の心に迫りますが、それを改めて検証して何が正しくて何が正しくないかを「客観的事実」から明らかにしようとする人はおよそ「宗教人」にはいないでしょう。いるとしたらその人はすでに「科学者」です。 そのとおりですね。科学者ですね。 ほんとに何度もありがとうございますm( _ _)m 勉強になります。

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  • hanakago
  • ベストアンサー率6% (58/851)
回答No.9

今度、子供が生まれます。彼女には子供が成人したら入信するか決めさせろと言っています。科学を刷り込むとかそんなんじゃなく必要な情報を与える必要があると思います。神がいるとかいないとかそんな形而上学的なこと考えても分からないのだから、少なくても客観的な間違いないことで必要なことは教える必要があると思います。

sowow
質問者

お礼

あ、おめでとうございますm( _ _)m! >成人したら入信するか決めさせろ これは面白いですね。 二十年後の二十歳ってったら・・・どんなんだろー・・。 >必要なことは教える必要がある これは間違いないことですよね。人間は教わらないと何も出来ない動物ですから。

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  • kube
  • ベストアンサー率30% (49/159)
回答No.8

#1です  補足です。  「信教の自由」は日本国憲法で保障された権利であって、何人たりとも侵害できません。  従って質問文の中にある「神様について教える」という意味が「特定の神様だけを教える」なら、やはりフェアじゃないでしょうね。  あと、道徳や法律と宗教は別です。同じなら、某カルト教団は正しい事をしたことになりますね。カルトに限らず他者を攻撃する教義があるような宗教はとても道徳的とは言えないでしょう。「宗教」という広い枠で考えた場合、そういうものも含まれる事を忘れてはいけません。  あと、主観と客観についてですが、これは厳密に分けられます。主観は個人の感性や感情によりますが、客観は非個人的なもので、「誰に対しても」同じ結果を与えるものです。  従って客観に基づく「科学」というものは、「信仰」するようなものではなく、ただそこにあるものを「発見」して、それを利用していくだけです。  いわゆる「科学信者」とは、科学に主観を持ち込む人の事で、それは「科学教」という「宗教」で、それは「科学」ではなく「宗教の一種」です(いわゆるトンデモ系)。  従って「信教の自由」からすれば、法律に違反しない限り「科学教」を信じる事も憲法違反ではありませんね。  あと、質問には関係無いですが、回答者のコメントの中でまだ有罪が確定していない人間を犯罪行為を行ったという前提で語るのはどうかと思います。それこそ「主観」的意見です。  あと、「高度に進んだ科学は魔法にしか見えなくなる」という言葉を宗教にからめて語っている方がおられますが、「魔法」は「宗教」ではありません。「錬金術」に見られるように、それは「科学の前身」です。魔法が進化すると「科学」になります。故に、「高度に進んだ科学は魔法(の究極)に見える」のです。  宗教は証明できない前提条件を元にする時点で科学とは違うものです。  ここで宗教を語る方にお願いしたいのですが、できればどこの何という宗教について語っているのか、ハッキリさせてからご発言下さい。でないと単なる宗教擁護の話にしかなりません。  以上、補足でした。

sowow
質問者

お礼

kubeさま、補足ありがとうございますm( _ _)m >道徳や法律と宗教は別です。 別ですよね。宗教は一つの方法ですからね。 たしかに何かを「信じるという行為」は道徳にとって大切そうですが。 >主観と客観についてですが、これは厳密に分けられます。 これは、ある枠内では明確に分けられるが、厳密には分けられないのでは?と思います。 客観だと思ってた科学的事実も、思い込みだったと解ると主観の方によっちゃいませんか? 宗教の教えの中にも十分客観的な部分が見られます。 「科学」とは主観と客観の中間にもあるものだと思っています。というかソコが最先端であり元気のある所です。 (進化論が、刺激的な理由の一つには「まだ仮説だから」ってのがあるんじゃないでしょうか。) で。本題ですが、その「客観」能力が身に付かないうちに、恐怖的要素(キリスト教では「信じる者だけ救われる」など)でもって刷り込むことがフェアじゃないような気がします。 世界観や道徳うんぬんよりも、まず「やり方」に問題がありそうですよね。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.7

参考までに 友人のおっしゃる「生まれて間もない無防備な子供の脳に宗教をツメコムのはフェアじゃない」 は明らかな間違いですね。このようなお人が増えたので少年犯罪が激増しているのですね。 モーゼの時代、イエスの時代、釈尊の時代いつの時代でも宗教指導者が一般の民衆に説いたのは戒を守って生きなさいということでしたね。生まれた子供に戒を教えるのは両親の義務ですね。現代風の5戒:汝殺すなかれ、盗むなかれ、嘘をつくなかれ、麻薬などやるなかれ、援助交際するなかれ を教えるのが当然ですね。これが出来ていないから小学生や中学生が殺人事件や万引きをやるのですね。学校ではこのような宗教観に根ざした道徳はおしえないんですね。勉強がいかに出来ても人を傷つけて平気な子供が世にあふれたらどうしようもないですね。大人になっても元早稲田の教授のように鏡を持って歩くようでは何をかいわんやですね。それから少年犯罪は親の責任ですから子だけ問題にするのはそれこそフェアーじゃないですね。親も鑑別所に送るのがフェアーですね。学校では宗教教育をしないと決まっていますので親が責任を負うべきものなんです。そこが明らかにずれてますね。

sowow
質問者

お礼

ありがとうございますm( _ _)m たしかに仰るように、少年犯罪が増えていますね。 ですが、基本的道徳を教えることは、宗教じゃなければ出来ないとは言えないようにおもいます。 立派な宗教指導者ならばそれが可能であり、たいしたことない指導者ならば出来ないと思います。 たしかに「地獄に落ちて閻魔様に舌を抜かれるんだよ」とか言われたら子供は恐怖でウソつくことも悪さすることもしないから簡単かもしれませんが、他にも方法はあるはずです。 ほかの方法を試したり、探したりしたいひともいると思うのです。僕もそうです。

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回答No.6

 ある数学者は、「高度に進んだ科学は魔法にしか見えない」と言ったそうですが、 個人的にも科学と宗教は実のところ紙一重だろうと思います。 この資本主義のシステムに寄生して勢力を伸ばしている様なカルト教団ならば、実態は既存の科学理念を借りてお金儲けをしている会社と似た様なもので、会社と違うのは借りているものが宗教理念だということでしょう。 しかし、分かっていることから始めた科学が、必死にになって普遍的法則性を積み上げ、いつか非常に高度に進歩できたなら、 信じることから始めていた宗教が(と言うよりは信仰が)実は非常に科学的だったことを知るでしょうね。 無知な者がより善く生きるためにはこうしなさいと、超マクロな視点で幸福の大まかな方向性を提示しているのがおそらく宗教というものだろうと思います。 ちなみに、この間メキシコ軍が公式にUFOの存在を認める会見を行いましたが、それを既存の科学の枠内で何とか分析し説明しようとするアホ知識人の発言には笑えました。無知の知という言葉を知らないらしい。 

sowow
質問者

お礼

>この資本主義のシステムに寄生して勢力を伸ばしている様なカルト教団ならば、実態は既存の科学理念を借りてお金儲けをしている会社と似た様なもので、会社と違うのは借りているものが宗教理念だということでしょう。 面白い見地ですね! 資本主義というのが絶大すぎて、宗教も科学も霞みます。 >超マクロな視点で幸福の大まかな方向性を提示している なるほど。宗教の良いところですね。 科学も、真似してマクロな視点から、すこしは道徳などに口出ししても罰は当たらないと思うんですが。 危ないですかそーですか。 ご回答、ありがとうございますm( _ _)m

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    こんばんは。デリケートな内容かも知れませんが、 様々なご意見をいただけたら幸いです。 ただ、私の気持ちは単純なもの(?)だと思うの ですが。それも含めてのご意見もお聞きしたいです。 私は、一般的に見たら「無宗教」の人間と思われる のだと思います。特定の、名前のある宗教団体へ、 所属していないんです。 正月には神社に初詣に行きます。不幸があった時は お寺で供養の儀式を行います。 その行為に疑問を感じたことは無いのですが。 でも、幼少期から、劣悪な家庭環境に育ったため、 心の中に、何か、強烈に思うことがありました。 暴力・強姦・ありとあらゆる搾取。他にも山ほど。 理不尽、さらなる理不尽。想像を上回る理不尽。 子供の頃の神の定義って、単純ですよね~。 神って本当に無能だよ。サディストの極みだな! 学生時代は図書室で、宗教に関する本を読むのが 好きでした。友人が「やっだー!あんた、変な考え 起こさないでよ?!」と言われた事がありました。 ※友人は、その頃問題になっていた、カルト教団の ことを気にしていたのだと思います。 (その気持ちは理解できる。無差別に人を傷つける ことに怖さを抱くのは、何らおかしくありません) 幼少期から、読書が好きだったので、宗教の本も たくさん読みました。 私一人が読める本の数は限られていますが・・、 そんな私が読んだ、宗教に関する本の数々。 人生を生き抜く知恵、他者・自然との共存etc、 コミュニティの維持。勉強になります。 私の幼馴染に、創〇学〇の熱心な信者がいます。 熱心に考えを伝えてきます。(そもそも両親が 超熱心な信者なんです) もちろん、選挙の時には熱心さが増します。 私はその度に「私には、名前はついていないが、 信じるものがある。それは、自分の生い立ちや 様々な状況によって、変わってくるが、根本は 変わらない」と、熱心に伝えます。 名もなき宗教(?)を伝えるのは難しいのですが 幼馴染は、私の劣悪な家庭環境を知っているため 私の考えを尊重してくれます。 創〇学〇の熱心な信者なのに、すげーな、と。 10代のように若かった頃は、私の考え方に否定的な 意見を述べていた幼馴染も、大人になるにつれ、 私の名もなき宗教(?)の考え方を尊重してくれて。 私も幼馴染の家庭環境を深く知るにつれ、信仰心の 大切さを考えるようになり。 宗教は素晴らしい。大昔だろうが、今の世だろうが、 より良く生きる「智慧」を教えてくれる。 科学でもありますよね。 交わりたいとは思いませんが、むやみに敵対すること でもありませんよね。 産まれた国の違い?それは確かにあると思う。 でも、同じ国で生まれたからって? つーか、神いたら、こんな問題起きないはずだから、 相当悪趣味なサディストか、本当に何も出来ない 「名ばかり神」だな。 ああ、神に愚痴ってしまったわ。 でも、いいよね。マジつまんねーわ。 こんなフザけた私なんて、問題外。 神、本当に困って苦しんでる子供たちを どーするつもり? 前世の因果なんて、バカげたこと言わないで。 そんなの、酔っぱらいでも言えるから! ねえ、神、本当にいるの?力持ってる? だったら、色んな意味で苦しんでる子供たちを 助ければ?

  • 希望とは?

    長年の地獄生活から、「何ものにも屈しない力」について20年以上探してまいりましたが、様々な宗教・哲学・科学に交わったきた結果、それは「希望」ではないか?という結論に至りました。 しかし、希望について調べてみると、千差万別であり、絶対のものではなく、信ずるという部分が大きいという認識に至りました。 逆に、むしろ絶対なのは「絶望」では無いか?という新たな疑問が生じています。 どうか、皆様の御智慧をお貸し下さいませ。

  • 宗教と科学の論争

    両親がいるのですが、片方の親(A)は、深い信仰心を持っていて、もう片方の親(B)は、科学しか信じていない、という、不思議な家庭に生まれました。これが原因で、なかなか家族で落ち着いて会話することができません。 信仰心の深い親(A)対して、「人間を超える何かがあることは尊重する。ただ、それを親(B)が納得できるかどうかは、科学的根拠がないと困難。これを理解してほしい」と説明します。 科学を信じる親(B)対しては、「科学が今の世の中の基礎になっているが、同時に人間の心や宇宙の発端そのものについては、まだ解明できておらず、何か人知を超えるものがあるのではないか」と説明して、歩み寄りを促します。 親(A)は、「例え科学的証明が無理でも、存在するものは存在するのだから、存在する」と言います。それは内的に感じられるものが伝えてくれる、ということです。しかし、これは科学的または客観的な根拠がありません。 感情的にならないように、「気持ちは分かるし、とても共感する。親(A)が神様は存在するという考え、そして宗教への信仰心は尊重する」と伝えますが、やはり絶対的な存在である以上、「人の考えはそれぞれなのだ」という考えにはなりません。やはり「正しいものは正しいのだ」「自分は正しい」という結論に落ち着いてしまいます。 親(B)は、妥協策として「黙る」という対策を取っています。つまり、家族の中では何も喋らないことで、対立を産まないという方向に動いています。結果として、家族の中の会話が非常に浅いものになっています。 このまま放っておくのも一つですが、やはりあまり風通しがよくないのは心の支えに欠けると感じるので、理想的には、信仰心や宗教は、個人の自由だという前提で、それぞれを尊重しながら、家庭内でより気軽に会話できる環境をつくりたいと思うのですが、同じようなご経験をされた方はいるでしょうか。 また類似の状況をどうやって打開してきたでしょうか。(理論的には諦めるとか、無理だという方向に安易に議論を広げることはできると思うのですが、できればご経験者の体験談をお伺いさせて頂きたいと思っています) 個人的には、最新の心理学や脳科学が人間の感情や人間関係と幸福感の相関関係などを論文でとりあつかうようになってきたので、神様はいるかどうか、という証明不可能な論争を避けつつ、「心理学上の幸福感とは何か」といったテーマに絞って科学と宗教の妥協点を探すのが現実的なのかなと思っているのですが・・・。

  • 「神を見てしまった。」ということにどんな意味があるのか?

    「私は神を見た。」という時、それは「私は、この存在のすばらしさの面をあまりにも奥深く垣間見た。 垣間見たにすぎないことも解る。私の感覚にとって神がいないということはあまりにも不自然で納得のできないことといつしかなってしまっていた。」といった神の存在の確かさを感じているという意味合いで使われることがよくあると思う。 私の場合、上記の感性と理性と良心との融合のようなものからの神の存在の発見のようなものが脳の中に いつしか定着してはいますが、 そのこととは別に、実際に神の臨在をあまりにも深く感じたことが、十数回ほどあります。 その時の迫力はすごいもので、思考停止状態となってしまうのですが、何しろ数秒のことですし、 2、3年置きに忘れた頃に、そういう状態がやってきていた(50歳まで)ので、 いったいこれは「何なんだ?!!」という疑問を考える時間はたっぷりありました。 60歳となった今、それは「あまりにもリアルな錯覚」であり、そういう錯覚も人間の脳には存在しうるという結論となり、むしろ病的症状(完全な意味で病気だとか精神の病という意味ではないですが)に近いとう考えとはなっています。 それでもなお、 もし再びその感覚がやってきたら そのような理性で必死に構えていたとしても、 すくなくともその数秒間の間はとてもでないですけど神の存在を実際に感じているというその状態を否定することなんか出来ないような感覚です。 形は無いです。  でもそれは こんな感覚です。 視覚の根拠は 現代の科学ではたぶん網膜に映るレンズの光と神経の作用ということしか解っていないのではないかと思うのですが、 神経があるとどうして「見える」のかは解っていないはずだと思うのです。 脳があり神経があってはじめて見えるのですが、 それはなぜだか解ってないわけです。   その脳と神経に、神を感じる何かが一瞬ですが開発されたのでは??? という感じです。 そうとしか考えようの無い感覚です。 神が私を選んで訪れたとかいった感覚や思考は、それが始まった20歳の未熟な時にも私にはまったくありませんでしたが(それは、たぶん私が子供の頃何度も重い肺炎で死の床をはいずったことがあるため、さすがに未熟な青二才ながらも神を物語的には考えることは卒業していたのだと思います。)、人間の脳には神をこんなふうにキャッチする能力が隠されていてやがては、それが誰の脳の中にも開花するのではないか? という考えはありました。 最初のうちは、けっこう無邪気に その驚愕状態を楽しめました。 ほんの数秒でも 印象はあまりにも強いですから忘れることなんかできないようなインプレッションの刻まれるそれを 「何なんだろう?」と思いつつもけっこう楽しんでもいたのです。  ともかく楽しい思い出ではあるなというふうにです。 でも そのうちに、その瞬間にある疑問を聞いてみようという考えが起こってきてからは、その時が完全に思考停止状態となることが気になりだしました。 あることとは「なぜこの世にこれほどまでの苦しみがあるのですか?」ということです。 そして、一番最後の50歳の時に、その感覚がやってきたときには、わたしは最大限の恐怖で ギャーーーっ叫んでいました。 苦の存在の因果を深く深く考えたら そうなります。 でも、やがて、神は「いっさい人間を助けたりはしない」ということがようりはっきり私の理性の中に訪れた時、 神が絶対だとかいう論理も消えた時、おそらく神から自立したとき、 恐怖は消えていました。 みなさんは、この体験に どんな意味(意義でもいいです。)があると思いますか? 私の考えも、書いてしまえば、 それは自立すれば、無神論も受け入れることが出来るような信仰が生まれますよ。ということだけです。 「けんかは、もう止めよう。」とうことだけ。 それ以外にたいした意味も意義も 私にとってはですが、残念ながら何もありませんでした。 私のは たぶん錯覚(病気状態)でしょう。 しかし、もし実際に錯覚で無く「神を見た」という能力が人間に開かれたとして、 あなたならどんな意味があると思いますか? へんな質問でごめんなさい。

  • なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

    『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』私はこの問いをWikipediaで知りました、この問いの詳細はWikipediaに載っています、まずWikipediaの記述の一部をほぼそのまま引用します。 『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ、 神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される、 なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題である、 別の形では 「なぜ宇宙があるのか?」 「なぜ世界があるのか?」 「なぜ無ではないのか?」 などの形でも問われる。 もの事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて、現れる問いであることから、「究極のなぜの問い」またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる、解答することが著しく困難であることから「存在の謎」と言われる、 哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中で最も根本的な問い、第一の問いであるとしばしば言う。 物理学の領域ではビックバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明も答えにならない、 なぜなら、問いの形が「なぜ何もなかったのではなく、ビックバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。 ビックバンが真空の揺らぎから発生したといった説明もまた同様である、 「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐ真空があったのか」もしくは「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。 同じように何か超越的な存在、例えば神様を持ち出し、それが世界を作ったと説明しても話しは同じである、 「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」こう問いが置き換わるだけである。 こうした例を見てわかるように、この問いは因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしても、もっと過去へ、もっと過去へ、と無限後退が生じるだけでそから答えは得られないだろうと考えられている。 また、こうした時間の始まりの問題を避けるため永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解答はえられない、 「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。 この問いは歴史学や考古学のように過去の歴史を問う問題ではなく、あくまで「なぜ何かがあるのか」を問う問題である、 またしばしば同時に問われる関連した問いに「なぜ世界はこのようになっているのか」という、この世界の在り方の根拠を問う問題とは区別される。 Wikipediaには解答の候補などもいろいろ載っていますが、 上述のように、哲学や科学など、宇宙、世界、自然を観察、観測したり、そこから論理的に思考したりする手段でも、さらに宗教のように神様を全ての原因とする手段でも、解決できそうもないこの「究極の問い」を、一体どうすればいいのでしょうか? つまり、それ(科学、哲学、宗教)以外に何か他にこの『究極の問い』にアプローチする手段があるのでしょうか? それはもはや論理や言語や思考を超えて、人間の能力を超えた手段が必要なのでしょうか?

  • 素朴な疑問

    こんにちは。 http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2800427/7226101 ホーキング博士の事はよく知りませんし、この発言の裏にどういう意図があるのかも知りません。 でも、信仰の無い人はよく同じ発言をしますよね。 そこで素朴な疑問なのですが、どうして「脳」に全てを集約しようとするのでしょう? 脳は確かにコンピュータの様なもので部品が壊れれば停止して腐敗して消えてなくなる「単なる物」でしょう。 でも、信仰のない人でも一度くらいは聞いた事があるであろう「肉体は単なる道具とか魂の乗り物とかと言える物で、そこに生命の本質はなく、人間の実態は霊である」的な観念が宗教にはあると思うのです。 この場合、脳がコンピュータの様なものであれ、安物のゲーム機のようなものであれ、そこに全てを集約する根拠は何も無いと思うのです。 例えば霊視などについてもそうです。(※別に霊視を推奨しているのではなく、例えです) 霊視をしている瞬間に脳のある部分が活動しているのを発見した時、なぜそれをもって霊視しているのではなく、脳がイメージしているだけであると結論づけるのでしょう。 霊の感覚によって見る物を肉体的に”も”認識する事があっても良いのではないでしょうか。 科学万能主義というか科学教信者というか、こういう考え方をする人の考えがイマイチ解りません。 以前自分が無宗教だった時、同じ様に「脳の化学反応だ」などと思っていましたが、自分の場合は単に考えがちゃんと回っていないだけでした。自分には見えていない部分が山ほどあるという大前提まで。ですから、自分の過去の経験はこの「素朴な疑問」の答えにはなりません。 お答え頂けますと幸いです。 よろしくお願い致します。

このQ&Aのポイント
  • 管理画面にアクセスできない問題について、ルーターの管理画面のアドレスやIPアドレスの設定を確認しましょう。特に、パソコンとルーターのIPアドレスが異なる場合には繋がらないことがあります。
  • 具体的な解決方法としては、パソコンのIPアドレスをルーターと同じネットワークに設定することや、ルーターを初期化することが挙げられます。また、他のデバイスの設定やネットワークケーブルの接続状態も確認しましょう。
  • もしもこれらの方法でも解決しない場合には、ルーターの設定やファームウェアのアップデートが必要な場合があります。製品のマニュアルやメーカーのサポートに問い合わせてみると良いでしょう。
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