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きせき

noname#208196の回答

noname#208196
noname#208196
回答No.5

Buddhism Downloads Suttanipata Suttanipata (Pali Text) PTS Version (Andersen/Smith) https://www.shemtaia.com/BU/DL/suttanipata.shtml ~~~~~~~~~~~ Ete vivādā samaṇesu jātā, Etesu ugghātinighāti hoti; Etampi disvā virame kathojjaṃ, Na haññadatthatthi pasaṃsalābhā. sutta nipāta 4.8 Pasūrasutta https://suttacentral.net/pi/snp4.8 Pali text from the Mahāsaṅgīti Tipiṭaka Buddhavasse 2500: World Tipiṭaka Edition in Roman Script. Edited and published by The M.L. Maniratana Bunnag Dhamma Society Fund, 2005. Based on the digital edition of the Chaṭṭha Saṅgāyana published by the Vipassana Research Institute, with corrections and proofreading by the Dhamma Society. Prepared for SuttaCentral by Blake Walshe and Bhikkhu Sujato. ~~~~~~~~~~~~~~~ suttacentralのテキスト情報は左上のアイコンのMETADATAを参照。 時々、サイトの仕様が変わっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 七、『ティッサ・メッテイヤ』 823 束縛されている gadhita. gathitaに同じ。ganthati(縛る、つかねる)の過去分詞。 gadhitaと濁音になっているのは古代東部インド語(マガダ語)の痕跡がそのまま残っているのである。 八、『パスーラ』 828 論争を――kathojjaṃ. これは古代東部インド語におけるablativeである(Lüders :BSB.§192,S.140)。 一四、『迅速』 925 あとで後悔するようなことを―― kukkuccaṃ 古代東部インド語のablative singularである(Lüders :BSB.§192,S.140)。 岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元 訳   ~~~~~~~~~~~~ 中村元が翻訳したのはPTS版です。 ですので、番号とかもPTS版がベースになるわけですが、 私は仏教を調べていて見つけたサイトのsuttacentralが便利で利用しています。 それで時々気になったのは、PTS版とテキストが異なっているところがあって、 今回の、古代東部インド語に関しても、『ティッサ・メッテイヤ』は微妙。濁音が根拠でもPTS版では gathitāが本文で 脚注で、 gadhitāになっている。 >823 束縛されている gadhita. gathitaに同じ。ganthati(縛る、つかねる)の過去分詞。 >gadhitaと濁音になっているのは古代東部インド語(マガダ語)の痕跡がそのまま残っているのである。 中村元の註でgadhita. gathitaに同じ。とか書いてあっても 違うだろうと私は言われるだろうから、微妙である。 suttacentralでは、gadhitāではあるが、微妙だろう。 次に『パスーラ』これは、PTS版もsuttacentralも同じ。kathojjaṃ 次に『迅速』は、PTS版ではkukkuccaṃ で、 suttacentralでは kukkuccā 頻繁に『迅速』に言及しているけれど、微妙であり、違うだろうと言われと思う。 だから、ハインリッヒ・リューダースがどのような内容を述べているのかわからないので、 学者の人は、翻訳とか解説とかして読めるようにして欲しいけれど とりあえず、中村元の注釈を参考に、個人的に考えたのは、 『パスーラ』がブッダのことばを伝えていると思いました。 できれば嫌みとか揶揄とかではなくて、客観的な根拠をあげて「批判=吟味」していただければ 建設的な議論をすることができるかもしれませんが ~~~~~~~~~~~~~ 828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て 論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。 岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 ~~~~~~~~~~~~~~ まあ、仏教っぽいよね。

kurinal
質問者

お礼

kazamidori365様、ご回答ありがとうございます。 >「とりあえず、中村元の注釈を参考に、個人的に考えたのは、 『パスーラ』がブッダのことばを伝えていると思いました。 できれば嫌みとか揶揄とかではなくて、客観的な根拠をあげて「批判=吟味」していただければ 建設的な議論をすることができるかもしれませんが」 はい。 (私では、あきらかに力不足なので、他力を願いたいです(笑))

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