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哲学における「実在」の概念について

「実在」という概念は、哲学上、どのように捉えられているのでしょうか? 「存在」はハイデガーの論考に代表される大問題ですし、「実存」も、バリバリの大問題です。ですが、素人的には「実在」って、そういうレベルでは考えられたことがない気がするんですが、どうでしょうか? とはいえ、「存在」とも「実存」とも違うのは確かなので、そういう概念自体には意味があると思うので、それなりに考察に値するはずだとは思うのですが。。。 わたしはいま、「生物の種の実在性」ということをちょっと考えているんですが、そういうことを考えるのに、そもそも、「実在とは何か」っていうのをはっきりさせないと始まらないと思うんですが、どこから手をつけていいのかわかりません。それに、そういうのは生物カテで聞く問題でもないと思うので。 詳しい方よろしくお願いします。

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回答No.6

古代ギリシャで、プラトンの「実在論・リアリズム」とアリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の対立がありました。 実在・リアルといえば、たいていこのプラトンのいう「実在論」を意味します。 ところが、このプラトンのいう「実在」とは、私たちが「実在」という言葉からイメージするものとはまったく反対です。 プラトンは地上の個物・特殊的なもの・質料(ヒューレー)、現実存在(実存)に対して、天に「イデア」があり、その「イデア」こそが真の実在で、地上の個物・特殊的なもの、その他は真の実在ではない、「イデア」を分有するとしても、実在性の希薄な、却って仮象に過ぎない、といいました。 古代ギリシャでは人が死ぬと魂が、肉体を離脱して天に昇り、そこで永遠に生き続けると考えられていましたので、肉体は仮象であり、「仮の宿」であり、真の実在は永遠に生きる魂にあると考えられていました。 こうしてプラトンは「イデア」すなわち「観念」とか「魂」を真の実在と考え、地上の個物、肉体などは実在とは考えませんでした。 現在の私たちから見ると、転倒しているとしか言えません。 感覚できるもの、見たり触れたりできるモノよりも、概念の方が真の実在というのですから。 プラトンにとって、リアルとは「イデア」という光に照らされた「イデア」の「臨在」を意味します。 つまり「イデア」の「現前・プレゼンス」を意味します。 これを逆にいうと「イデア」の「現前」しない、「イデア」の光の元にないもの、ただの物体は実在ではないことになります。 個物・質料(ヒューレー)・現実存在(実存)は「イデア」あっての、存在です。 これに対してアリストテレスは「形相」と質料(ヒューレー)は、建物の設計図と建築資材の関係と同じように互いに密接不離であって、「イデア」のように超越的に外在するものではなく、むしろ「形相」は質料(ヒューレー)に内在するもの、そしてプラトンのいう天にあるという「イデア」は単なる抽象的な概念、言葉に過ぎない、真の実在といったら、個物・質料(ヒューレー)にあると言って批判し、「唯名論・ノミナリズム」を唱えました。 このプラトンの「実在論・リアリズム」とアリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の対立が、大論争になったのが中世末期の12~14世紀で、中世の西欧はプラトンの「イデア論」を継承して新・プラトン主義を唱えたプロティノスの「一者」「イデア」の「発出」としての世界創造という説が、聖アウグスティヌスによって、ユダヤ・キリスト教の神による世界創造のドグマに結び付けられ、プラトンの「イデア」は神に言い換えられて、神こそが真の実在であり、地上の人間や動物はその神の被造物と考えられていたからです。 その神を普遍者として、天にあると考えられ、地上にはその神の被造物である個別者・特殊者である人間や動物が住まうところと考えられていました。 その普遍者としての神が実在するか、という「普遍論争」が12~14世紀に惹起しました。 これは古代ギリシャのプラトンの「実在論・リアリズム」とアリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の対立の、中世における反復・再燃でした。 聖アンセルムス、ドン・スコトゥス(ヨハネス・スコトゥス)、アベラール(アベラルドゥス)、アヴィセンナ・アヴェロエス、オッカムのウィリアムズ、トマス・アクィナスなどという神学者が盛んに論争し、最終的にアリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の勝利を持って決着したと言われます。 西欧では、それ以降を近世と言っており、それを境に私たちのいう実在という意味がプラトンのいう「実在」とは逆転しました。 現在、私たちが実在といえば、個物・特殊的・現実存在(実存)・目で見、手で触れる感覚されるモノを意味します。 古代では、感性というものは無きに等しいものでしたが、16世紀、ベーコンが「ノウム・オルガスム・新機関」で、実験科学を提唱し、感性の役割を強調して以来、それまでの理性に対して感性の役割が抬頭し、実在といえば、感性によって確かめられるもの、見たり触れたりできるものと考えられるようになりました。 それが現代の科学・物理学に受け継がれ、現代では実在といえば、実験によって検証されるものを実在というようになりました。 以上のように、何が実在か? という実在観にも、古代ギリシャから実に大きな変遷があったことが分かります。 特に「普遍論争」を境に意味が逆転しましたので、それを念頭に入れる必要があります。

kireinahanabi
質問者

補足

コメントありがとうございます。(まだ質問したばかりなのに、なぜか、もう皆が選んだベストアンサーになってますが。。。) とても勉強になります。 いわゆるプラトンのイデア論ですね? しかし、プラトンやアリストテレスは、まさに最後におっしゃっていただいたように、「何が実在か?」の問いに答えようとしていて、その問いを問うにあたってまず問わなければならないはずの「そもそも実在とは何か?」を深く考えていないのではないでしょうか?「実在って言う言葉の意味なんて、みんな知ってるに決まってるだろ」ぐらいの感じで、その「実在」という言葉をとても素朴に使っていて、そのうえで、「なにが実在か」を議論している印象があるのですが、違いますでしょうか?

その他の回答 (8)

noname#208724
noname#208724
回答No.9

用語としての「実在」については、私の場合、現在を記述する言葉としては使わないようにしています。つまり私の使用法は「実在する」ではなく「実在した」です。たとえば過去を記述するには「我々の思考から離れた状態において、客観的かつ多角的に観測でき、他の物体との差異の痕跡を残すこと。」のように、実在していたことにするには、差異の継続を条件として与えなければならない。 今回のご質問が、「種の分類法」だとするならば、形而上学で普遍として言えることは、種の分類法とは、我々の思考の中身を記述することだから、思考を離れてはありえない。 例1.思考の中の分類法は実在ではない。 また、「種の対象となる物について」だとするならば、思考を離れても、差異の痕跡があるのだから実在していたことになるが、それには世代を越えて、他の生き物との差異を自発的に継続してきたという条件を与えなければならない。 例2.分類名:象 は既に実在していた。 分類の対象になる生き物は、既に少なくとも世代にわたる痕跡が見つからなければならず、分類上の名前を与えた時点で、すでに実在していたことになる。 ( 生き物Aという分類名を与える ←等しい→ 生き物Aは実在していた ) したがって、「生物の種の実在性」といった場合に、何を問うているのかが不確定になります。(現在の科学では知りえない階層における差異を問う形になる恐れもある。) だからといって、不確定性を含む問いが無効だという事ではありませんので、そこから先は生物科で話し合いを進めればよいと思います。 ※以上は私個人の意見であり何の根拠もありません。私は勉強が嫌いなので本を読みません。

  • kurinal
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回答No.8

>「仏教的な立場からすれば、こういう悩みには、前世からの因縁とか「因果応報」って答えがでますが、」 詳しく!!

回答No.7

あなたの補足コメントに対し、回答します。 何が実在か? に関しては、その時代・時代の、またそれを述べる哲学者により、また文学者により、また、人それぞれによって違います。 その文脈・コンテクストによってさまざまです。 科学者・物理学者にとっては実在とは、科学的に検証できる物理的存在であり、文学者にとっては自己の内面の心とか精神を表出したものである作品が、実在・リアルと言われます。 また極端なことを言えば、警察にとって実在・リアルといえば、犯罪の事実であり、学校の教師にとって実在といえば、授業のカリキュラムであり、商店にとっては陳列棚に並んでいる食品や野菜であり、教会の神父にとっては十字架上のイエスであり、野球選手にとってはボールとかバットであり、水道工事屋にとっては水道管であり、ヒコーキのパイロットにとってはヒコーキであり、政治家にとっては政治であり、銀行にとっては貨幣であり、紙幣であり・・・・・・・etc その職業によって、さまざまです。 あなたは「生物の種の実在性」といいますが、生物学・植物学にとって実在といえば、「生物の種の実在性」ということになるでしょうが、それも一つの実在性です。 一つの実在性でしかありません。 学問によって、実在性はその学問の数だけ実在性はあります。 量子力学にとって、電子・量子・素粒子・・・・・などというものが実在です。 数学にとって実在といえば、数です。 このように「実在性」というのは多様な意味があります。 ほとんど無数にあると言ってもいいかもしれません。 もし、統一したものがあるとしたら、それは「私たちが実在と言って意味しているものが実在である」というしかないでしょう。 堂々巡りですが。

kireinahanabi
質問者

補足

ありがとうございます。 そういう見方もひとつあるかとは思いますが、 ですが、「みなそれぞれ」では必ずしもすまない場合も少なくないと感じています。 プラトンとアリストテレスの議論は、互いに、いわば「物事の真のありよう(真実)」を捜し求める議論をしていて、その見解で対立しているようですが、実は、(全部とはいいませんが)少なくともその対立の一部は、互いにそこで言う【実在】という言葉の意味をあいまいにしたまま議論を進めているところに原因があるのではないでしょうか? わたしが例示した、「生物の種の実在性」という問題に関していえば、「生物学・植物学にとって実在といえば、「生物の種の実在性」ということ」ではないとおもいます。生物学・植物学にとって実在といえば、まずもって個体であり、遺伝子であって、せいぜいのところ、個体群です。だからこそ、「生物の種」というのは実在なのか、それとも単にわれわれが分類上つけた名前に過ぎないのか、という議論がありうるわけです。生物の種は、一般に、(親レベルでの)生殖で定義できるとも言われているようですが、定義できたら、実在するということと直ちに同値ということにはなりませんし、それは結局、実在とは何か、ということを考えないで、議論を進めることはできないわけです。 そういうこともあればこそ、おっしゃるようにいろいろな実在性の考え方は世の中にはあるでしょうが、「そもそも実在とは何か」という問いには、やはりいくらかの意義があるのではないか、と思ったしだいです。

回答No.5

古代ギリシャで、プラトンの「実在論・リアリズム」とアリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の対立がありました。 実在・リアルといえば、たいていこのプラトンのいう「実在論」を意味します。 ところが、このプラトンのいう「実在」とは、私たちが「実在」という言葉からイメージするものとはまったく反対です。 プラトンは地上の個物・特殊的なもの・質料(ヒューレー)、現実存在(実存)に対して、天に「イデア」があり、その「イデア」こそが真の実在で、地上の個物・特殊的なもの、その他は真の実在ではない、「イデア」を分有するとしても、実在性の希薄な、却って仮象に過ぎない、といいました。 古代ギリシャでは人が死ぬと魂が、肉体を離脱して天に昇り、そこで永遠に生き続けると考えられていましたので、肉体は仮象であり、「仮の宿」であり、真の実在は永遠に生きる魂にあると考えられていました。 こうしてプラトンは「イデア」すなわち「観念」とか「魂」を真の実在と考え、地上の個物、肉体などは実在とは考えませんでした。 現在の私たちから見ると、転倒しているとしか言えません。 感覚できるもの、見たり触れたりできるモノよりも、概念の方が真の実在というのですから。 プラトンにとって、リアルとは「イデア」という光に照らされた「イデア」の「臨在」を意味します。 つまり「イデア」の「現前・プレゼンス」を意味します。 これを逆にいうと「イデア」の「現前」しない、「イデア」の光の元にないもの、ただの物体は実在ではないことになります。 個物・質料(ヒューレー)・現実存在(実存)は「イデア」あっての、存在です。 これに対してアリストテレスは「形相」と質料(ヒューレー)は、建物の設計図と建築資材の関係と同じように互いに密接不離であって、「イデア」のように超越的に外在するものではなく、むしろ「形相」は質料(ヒューレー)に内在するもの、そしてプラトンのいう天にあるという「イデア」は単なる抽象的な概念、言葉に過ぎない、真の実在といったら、個物・質料(ヒューレー)にあると言って批判し、「唯名論・ノミナリズム」を唱えました。 このプラトンの「実在論・リアリズム」とアリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の対立が、大論争になったのが中世末期の12~14世紀で、中世の西欧はプラトンの「イデア論」を継承して新・プラトン主義を唱えたプロティノスの「一者」「イデア」の「発出」としての世界創造という説が、聖アウグスティヌスによって、ユダヤ・キリスト教の神による世界創造のドグマに結び付けられ、プラトンの「イデア」は神に言い換えられて、神こそが真の実在であり、地上の人間や動物はその神の被造物と考えられていたからです。 その神を普遍者として、天にあると考えられ、地上にはその神の被造物である人間や動物が住まうところと考えられていました。 その普遍者としての神が実在するか、という「普遍論争」が惹起しました。 これは古代ギリシャのプラトンの「実在論・リアリズム」とアリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の対立の、中世における反復・再燃でした。 聖アンセルムス、ドン・スコトゥス(ヨハネス・スコトゥス)、アベラール(アベラルドゥス)、アヴィセンナ・ァヴェロエス、オッカムのウィリアムズ、トマス・アクィナスなどという神学者が盛んに論争し、最終的にアリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の勝利を持って決着したと言われます。 西欧では、それ以降を近世と言っており、それを境に私たちのいう実在という意味がプラトンのいう「実在」とは逆転しました。 現在、私たちが実在といえば、個物・特殊的・現実存在(実存)・目で見、手で触れる感覚されるモノを意味します。 古代では、感性というものは無きに等しいものでしたが、16世紀、ベーコンが「ノウム・オルガスム・新機関」で、実験科学を提唱し、感性の役割を強調して以来、それまでの理性に対して感性の役割が抬頭し、実在といえば、感性によって確かめられるもの、見たり触れたりできるものと考えられるようになりました。 それが現代の科学・物理学に受け継がれ、現代では実在といえば、実験によって検証されるものを実在というようになりました。 以上のように、何が実在か? という実在観にも、古代ギリシャから実に大きな変遷があったことが分かります。

回答No.4

 こんにちは。  ★ 「存在」はハイデガーの論考に代表される大問題ですし、「実存」も、バリバリの大問題です。ですが、素人的には「実在」って、そういうレベルでは考えられたことがない気がするんですが、どうでしょうか?  ☆ わたしも同じくそういう気がします。《ある》ということに確実性を付与しただけだと捉えます。  ただし 《存在》は ハイデガーにとって《大問題》であったとしても それほど一般的なふつうに用いられる言葉の意味から遠く離れたものとはわたしは考えません。問題はないと見るという意味です。  《実存》は 日本語としては 明らかに日常用語ではありません。翻訳語です。  けれども たとえば《一期一会》という言葉の――これも《術語》としてはワケありだと〔なぜなら 一生に一度だと言ってもそのあとどうなるかは誰にも分からないのですから けっきょく一度会ったことは一度会ったことだと言っているだけなのですから ワケありだと〕思いますが それでも解釈として尾ひれがついているような用法としての――意味合いとさほど違わない。《いま・ここなるわたしが その時その場でそのつど自由にもっともよく考え振る舞って生きる》というのと あまり違わないと考えます。

kireinahanabi
質問者

補足

コメントありがとうございます。 やっぱり、「《ある》ということに確実性を付与しただけだと捉えます。」というような印象がありますよね。 でも私が例で出した「生物の種の実在性」の問題のように、そこを適当にすると、議論が全然まとまらないことってあるんじゃないかと思うんですけどね。

noname#208229
noname#208229
回答No.3

無いかもしれないと思われてたものが現にあるってこと。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1149/9125)
回答No.2

存は時間的存在、在は空間的存在、虚実でいうと時間は虚、空間は実。実在はよくわかる。実存となると虚実の両方にまたがった複素空間における存在では。

  • catpow
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回答No.1

>>「実在」という概念は、哲学上、どのように捉えられているのでしょうか? 宗教的な視点でいえば、哲学の「実在」とは「心」「魂」「霊的存在」という意味になるでしょうね。 天才のハイデガーは、妻がいながら教え子である、天才女性のアンナ・ハーレントに一目惚れ・恋してしまい愛人関係になりました。天才同士は、お互いに一瞬にして相手のレベルが判るようです。 でも、ハイデガーはその不倫関係で自分の地位が危うくなるのを恐れて、彼女をカール・ヤスパースに押し付けます。 しかし、彼女を忘れることのできないハイデガーは、彼女との交流(文通?)を死ぬまで続けます。 ハイデガーは、ナチスと交流があり、それをハーレントに咎められますが、やはり決断できなかったみたいです。 アンナは、ナチスの迫害を恐れて、アメリカに亡命します。 「なんで大好きなアンナと一緒になれない!?」という自分の運命を考えると、「どうしてこんな運命なんだろう?どうして私はこんな人生に生まれたんだろう?」とハイデガーは悩んだのでしょう。 仏教的な立場からすれば、こういう悩みには、前世からの因縁とか「因果応報」って答えがでますが、近代の哲学者は、古代の偉大な哲学者のソクラテスやプラトンと違って、霊能力がありませんし、「この世」しか見ません。 だから、訳判らない、意味不明な文章をハイデガーは「存在と時間」という「この世」的書籍を出版したんでしょうね。 彼の本はゴミ箱に捨てて、もっと有意義なことを学習したほうがいいと思います。

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