『存在と時間』の実存概念について

このQ&Aのポイント
  • ハイデッガーの『存在と時間』における「実存」について質問します。現存在が関わり合っている存在そのものを指すことを「実存」と定義しているのか、確認したいです。
  • また、ハイデッガーは「おのれ自身の実存」という概念を使用していますが、これは現存在自身の存在なのか、それとも他の存在も含めた意味なのかも知りたいです。
  • さらに、「自己自身として存在するか、自己自身としてでなく存在するか」という記述の具体的な意味も知りたいです。具体例を教えていただけると嬉しいです。
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『存在と時間』の実存概念について。

 ハイデッガーの『存在と時間』(ちくま学芸文庫)に出てくる、「実存」という概念について質問します。48ページに、「現存在がしかじかのありさまでそれに関わり合っている存在そのものを、われわれは、実存(existenz)となづけることにする。」とあります。  これは現存在自身の存在、現存在以外の存在者の存在を含めて、現存在が何らかの形で了解しつつ関わりあっている存在のことを「実存」と名付ける、ということでしょうか。  またもう一つ質問があります。48ページから49ページにかけて、「現存在は自己自身をいつも自己の実存から了解している。すなわちそれは、自己自身として存在するか、それとも自己自身としてでなく存在するかという、おのれ自身の可能性から自己を了解している。」(中央公論社版「世界の名著シリーズでは80ページ下段)とあります。  「おのれ自身の実存」とは現存在自身の存在のことか、それとも現存在、現存在以外の存在者の存在も含めた意味でのことでしょうか。  また、「自己自身として存在するか、自己自身としてでなく存在するか、」とは具体的にどのようなことでしょうか。「自己自身」とは現存在自身、「自己自身としてではく」とは、例えば、鉛筆という存在者は自己自身ではない、といったほどの意味でしょうか。  ご教示よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#182794
noname#182794
回答No.3

ANo.1です。 ごめんなさい。質問を見落としていました。 質問は3番まであったんですね。 問3>また、「自己自身として存在するか、自己自身としてでなく存在するか、」 とは具体的にどのようなことでしょうか。「自己自身」とは現存在自身、 「自己自身としてではく」とは、例えば、鉛筆という存在者は自己自身ではない、 といったほどの意味でしょうか。 ◆質問者様の、この解釈は、間違っています。 おのれは現存在自身として存在するか。 さらに、おのれはたんなる実存としても存在するか。 をおのれに問うていますので、 自己自身として存在するか?・・・おのれは主体として存在するか 自己自身としてでなく存在するか?・・・おのれは客体としても存在するか という意味です。 たとえをあげましょう。 おのれは主体として存在するか?  これについては「われ思うゆえにわれあり」で解決します。 おのれは客体として存在するか? 歩いている自分は存在するか。座っている自分は存在するか。 眠っている自分は存在するか。 これは、どうやって解決したのか、私は知りませんが、 一説には、世界との係わりによって解決したらしいです。 しかし、寝ているときにどうやって世界と係わるのでしょうかねえ。 疑問はつのるばかりです。 なんだか、かえってご迷惑をおかけしたようです。 反省しております。 ところで、「実存」という概念は、キルケゴールがつくった 概念なんだそうです。

hierophantg
質問者

お礼

客体としての存在とは、思いつきませんでした。独学で読んでいるため、中々ページが進みませんでしたが、大変参考にさせていただきました。どうもありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.2

参考までに。 前半の文はたしかし曖昧(まぎらわしい)かと思います。 「現存在」が「しかじかの仕方で態度をとっている存在」といえば、 身の回りにある「人間以外の」モノだろうと読めます。 それをハイデガーわざわざイタリックにして「実存」というのは解せない、というわです。 それというのも、「第9節」(s42)には、あの有名な、 ――現存在の「本質」はその実存にある。 という宣言と矛盾するように思えるから。 (ちなみに、ここで「本質」とかっこになっているのは、 従来の意味ではという引用的な意味で使われています。) その宣言のまえおきとして、 従来の「エクシステンツィア」(これは普通のモノという意味で使われてきたが、 それには「事物的存在」という術語をあて、 「われわれ(ハイデガー)」は「現存在」の存在のありようにその語(実存)をわりふると 述べているのだから、質問者様が首をかしげたくなるのは、ますますもっともです。 ここからは私の愚考です。 さきの文で、 「現存在が態度をとっている存在」の存在は「Das Sein」ですが、 これを「存在」と「訳し」たのでは どうしたって「存在者」を指すのだろうと読んでしまいます。 ですが、大文字であり(ドイツ語はもともと名詞は大文字ですが)(英訳ではThat kind of Being towards which Dasein can comport itself)、 ここは「現存在」の「存在(ありうよう)」を「実存と名づける」としか読みようがないと思います。 ご質問の後半は上記9節以降を熟読していけば誤解はないものと思います。 ただ「現存在」の「自己自身」や「固有性」はとてもむずかしい「概念?」です。 人間の本質が問われているので、 (「人間は政治的な存在である」「人間は話す動物である」「理性的な存在である」など、 種々の「性質=本質」では人間を汲み尽くせないというのがハイデガーの本音で) どうしても「神」の影がさしてくるのは仕方ないのではとも思います。 (人間が人間を超えるというときの名として「神」と言ったまでですが) 以上です。

hierophantg
質問者

お礼

 「実存」という一語をとっても、様々に読めてしまいますね。大変参考になりました。有難うございました。

noname#182794
noname#182794
回答No.1

1. 現存在:自分が存在する可能性を自分に問いかけることができる存在。 すなわち、人間に限定して、現存在としています。 それに対し、係り合っているすべての存在を実存としていますので、 質問者様が理解されたとおりで良いと思います。 ここで、係っているという表現に注意しなければなりません。 これは直接的な係わりには限定されておらず、離れた場所であっても 有効な係わりとみなすのです。 それは、時間上において、今は、手もとに無いという、その物の 一形態としてとらえているからです。 2. おのれ自身の実存といった場合には、現存在そのもののことであり、 すべての人間について、おのれ自身という可能性を認めています。 現存在以外の実存といった場合には、道具存在のことです。 ここで、犬や猫などの動物は、道具存在として扱うのかという 問題が浮かび上がってきますが、ここは質問者様ご自身が、現存在として 研究なさってください。

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