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認識者を想定しない「客観的実在」とは?

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お礼率 73% (210/284)

数学カテゴリでの回答者の方とのやりとりのなかで「客観的実在と人間の認識」が
話題になりました。

人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは
うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。

色、匂い、味、手触り、音色、寒い(暖かい)などは人間の五感がなければまったく
存在しない概念ですから、客観的実在とは言えないと思います。
形、大きさ、質量などになると、よく分かりませんが、これも認識者がいて
何かと比較するという思考がない限り成立しない概念だと思います。

とすると「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」
とは何でしょうか?
エネルギー? 情報? 法則? 時空間とそのゆがみ?
哲学的にはもっと違う答えが可能だと思うのですが。

どんな主観的な意見でもいいですからお聞かせください。
「客観的実在」の「主観的意見」なんて、変?
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回答 (全19件)

  • 回答No.9

こんにちは。
またmori0309さんの難題に吸い寄せられてしまいました。
質問を読んで即、頭に浮かんだのは
デリダによるフッサール批判「幾何学の起源」です。
と、思って下を読んでいったらstomachmanさんが
近い回答を寄せられていますね。似てしまいますが
「3平方の定理はピタゴラスによって発見されたが
 しかしその事実は発見以前からあったのではないか?
 そして、もし現在まで発見されていなかったら
 その事実は無いに等しいのではないか?」
といったようなコトだったと思います。
フッサールの超越論は、このとき歴史の単一性を武器に
「もし・・」といった仮定を否定することで
客観的実在に仕立てちゃうんですよね。
でも、クリプキや柄谷行人は、客観的実在を発見することによって
もしも・・といった仮定の世界が出来てしまうんだぞ
と言うんですよね。
「固有名は確定記述の束に収束されない」というヤツですよね。
デリダはジョイスのフィネガンズ・ウェイクの一文
「He war」を使うんですよね。
「He war」は実在の文章なのだが
ドイツ語で読むか、英語で読むか、で意味が違っちゃうんですよね。
だから何なんだ?というと
すいません、こないだも申し上げました通り
何なんだろう?なんです。
ご免なさい。今日は退散します。
お礼コメント
mori0309

お礼率 73% (210/284)

CUE009さん、ありがとうございます。

存在と認識について素人の思索をしてみました。(寝言です。申し訳ありません)

1.「存在」の認識のしかたは無限通りあるのではないか。感覚的なもの(色・匂いなど)
  計量的なもの(大きさ・質量など)半概念的なもの(民族・国家など)
  概念的なもの(美・善など)・・・・・・
  認識の方法やカテゴリは、いくらでも好きなだけ創り出せるのではないか。
2.認識の方法やカテゴリを、いくら豊富に充実させても、ありのままの「存在」を
  完全に認識することは、結局できないのではないか。方法やカテゴリによる認識が
  すでに「存在」を枠にはめることであり、見え方を限定してしまうのではないか。
3.人間や生物による「存在」の認識は、「存在」そのものを認識しているのではなく、
  感覚器官によって、いわばデフォルメされた姿、または、理性思考から生み出された
  道具によって、都合よく写し取られた「存在」の断片・断面・造影の図ではないか。
4.「存在」は、見る側の見方によって、いかようにでも姿を変えるのではないか。
  見る側の見方が「存在」の「姿」を決めるのではないか。
5.何かがある。これは客観的事実である。しかし「何があるか」を決めるのは認識者の
  主観である。
6.しかし『「存在」に「真の姿」などなく、認識者の同意数しだいで客観度があがったり
  さがったりする相対的な姿(虚構)しかない』かというと、決してそんなことは
  なく、「存在」はつねに「認識者」の父であり母である真実在である。(←こんな表現
  しかできないんです)
7.認識者が「観察」という態度をやめることによって、かえって「存在」は「真の姿」を
  現すのではないか。

どうか、ツッこんでください。(6と7、無茶苦茶ですね)
投稿日時 - 2001-03-30 01:14:17
  • 回答No.19
レベル5

ベストアンサー率 0% (0/2)

<客観的実在>が現代哲学においては,ある意味で否定されています.

客観性を前提とする<唯物論>と主観性を前提とする<観念論>は,
近代において対立してきましたが,本来は対立するものではないのです.
唯物論は存在論上の話題で唯心論と対立します.
観念論は認識論上の話題で実在論と対立します.

デカルトは<観念論>と<唯物論>の2面性を持っています.
「主観が客観を隈なく理解できる」というのがデカルトですが,
これは,<客観>が既に確定的に存在し,
<主観>(つまり「我思う,故に我あり」の<我>)は,
それをしっかりと把握しきれるということです.
認識者を想定しないというのは,
このデカルトにおいて<客観>は<主観>があってもなくても構わない,
ということではないでしょうか?
数学・物理などは,この近代的な理性主義に端を発する部分が大きいので,
そういった学問では<客観的実在>を前提としてしまうのでしょう.

私たちは,物理などの<客観性>を当然のように受け止めながらも,
そこまでの<客観性>を人間の理性が想定できるのかと疑問を持ちます.
そういった矛盾した考えを同時に持つわけですが,
これは一方でデカルト的な理性の中に身を置きつつ
(つまり,現実が客観として存在するのは当然と自然に思える),
デカルトを打ち破った現代哲学の思考もしている
(つまり,<理性の限界>を疑う),
ということではないでしょうか?
お礼コメント
mori0309

お礼率 73% (210/284)

reneさん、回答ありがとうございます。

このテーマ、私にはむずかしすぎて、思考がどうどうめぐりしています。
なんとか整理できたら、またお礼させてください。

私は思考ゲームを楽しみたいと思っているわけではなく
「世界や宇宙の真のすがたと有限の生をもつ人間(私)の関係」を
考えたいと願っています。
投稿日時 - 2001-05-14 00:23:51
  • 回答No.7
レベル12

ベストアンサー率 32% (130/406)

【お礼レス】
>「何かがある。しかし認識主体とその認識能力を前提に立てなければ、何があるかは まったく語れない」この命題(?)からは一歩も外に出ることができないのでしょうか。

「銀河系は宇宙である」という例を西田流に解釈してみると、実在は「銀河系」にも「宇宙」にもない。「・・・は・・・である」という繋辞にあるとなりますが、この例だと恥ずかしながら理解できません。星を見たり、相対性理論によって、はじめて宇宙の実在が認識できると思ってしまうのです。

しかし最近もっと身近な例で、すこし西田の考えることが理解できました。それは商品開発の「場」のようなものです。いろんな開発者「個人」(主語)が出入りする場、社員や顧客(述語)が出入りする場、この「場」は個人と社員などの繋辞であり、かつ商品開発のための実在である。つまり人間でなく場が新商品を生み出すからです。

こうなると実在とは認識以前の存在なんでしょうか?
お礼コメント
mori0309

お礼率 73% (210/284)

orimotoさん、ありがとうございます。
> 人間でなく場が新商品を生み出すからです。
実在するのは「場」であるということでしょうか。
物理学でいう重力場とか電場とか磁場みたいなものでしょうか。
(ちがうでしょうね)
『ひとつひとつのモノよりも、むしろモノとモノとの関係が
 本当の「実在」を出現させ、それが新しい何かを産む』
そう解釈してよろしいでしょうか。
人間は、やはり、自立・自律・普遍・不変・不動・固定・孤高の
認識者であるという超越者意識を、そろそろ脱ぎ捨てないといけない
のでしょうね。
(かと言って虚無的相対主義思想に陥るのはイヤなのですが)
投稿日時 - 2001-03-30 01:26:05
  • 回答No.6
レベル14

ベストアンサー率 57% (1014/1775)

mori0309さんたら、またまた回答者を無間地獄へ誘おうという....
 この話は、しかしながら「認識者が気が付いていないけど在る」というもののことを指しているだけのようにも聞こえます。だって、ここで言う認識者というのは他人じゃ話にならない。mori0309さんをおいて他には居ないわけですから。
 認識者たるmori0309さんが踏んづけるまで犬の運値は存在していなかったのかどうか。存在してたから踏んづけたんですよ、きっと。で、踏んづける前の犬の運値の形・大きさ・質量・色・匂い・味・手触り・暖かさなんぞ、知りたくもないですけど、想像できないほど難しいものかなあ?
補足コメント
mori0309

お礼率 73% (210/284)

ぜひお知らせしたいことがあります。mori0309@mail.goo.ne.jp
投稿日時 - 2001-07-06 13:17:08
お礼コメント
mori0309

お礼率 73% (210/284)

さすが! 師匠・巨匠・塾長! (このセリフそっちこっちで言ってます)
文理双頭の獅子を自在に操る真の賢者、stomachman博士。
この名コメントの匂いに、さっそくまた「お風呂」に入りたくなっちゃいました。
もしよろしければ「洗濯ネット」においでになりませんか。入り口は一つ目のパイの
ほか、随所にあるみたいです。
投稿日時 - 2001-03-26 17:42:20
  • 回答No.1
レベル11

ベストアンサー率 31% (81/257)

全くの暴論ながら、「神」の存在同様、認識と切り離した、「客観的実在」など無意味です。

あったとしてもいいし、なかったとしてもかまわない。

では、人間の「認識」、「観測」によって、「在る」と認められたものに客観性があるか、「実在」と呼ぶに値するか?

非常にプラグマティックになっちゃいますが、有用・便利であれば、実在と考えるようにしています。数学カテゴリで「虚数」やら「複素数」に就いて議論が出ていましたが、電気屋さんにとっての複素数は、料理人にとっての塩と同じ位有用であり、実在観があります。

数学系に絞っても、
0、数(自然数)
1.分数
2、ゼロ(=0)
3、負の数(-)
4、円周率(=π)
5、虚数(=i)
と次々に有用なものを考え出して、「実在化」してきました。

e^(iπ)=-1

というのは偶然ながら実によく出来ています。

上のものは数学的抽象であって、実在とは異なるという反論もあるでしょう。しかし、目に見えるものもホントに「実在」しているかとなると、「実在」の定義から始めないといけないでしょう。

ハイゼンベルグの不確定性原理が物理屋さんのみならず、哲学屋さんにも多大な影響を与えたのも衆知の事実です。観測や認識から独立した客観的実在など、考えるだけ時間の無駄です。
お礼コメント
mori0309

お礼率 73% (210/284)

ametsuchiさん、回答ありがとうございます。

> 観測や認識から独立した客観的実在など、考えるだけ時間の無駄です。

まったくそのとおりだと思います。
なぜ私はこんなことを考えるのだろうと自問してみました。
結局、問いの根源には「自分とは何か」を知りたいということがあるの
だと思います。
自分がこの宇宙に存在する。何が不思議と言って、これくらい不思議な
ことは他にないです。

私という意識体は、何ゆえにこの宇宙に出現してきたのか。どのような
因果、どのような力によって、それは実現されたのか。私は自力で
生まれてきたのか、他力(神のような?)によって生まれさせられたのか。
単なる物理化学法則によって必然(または偶然)的に自分というものが出現
したとは思えないのです。他者や他の動物を物質的に観察して、人間とは
そういう必然(偶然)物であると信じこむことはできるでしょうが、自分の
ことを考えると、そうであると信じることは、なかなかできないです。
(自分以外はデク人形だなんて言ってるわけじゃないです)

人間は、そういう虚無(法則奴隷)を 超えた存在だと思うのです。
「生きる」とは「自分」の「自由」を信じる ことです。

純粋に客観的実在は真実在でもあります。それこそが「主観」をもつ「主体的
認識者」を生み出します。私は私を生まれさせたもの(あるいは力)こそ、この
宇宙における真実在だと思います。人間は、自分は、いつの日かそれを認識
することができるのだろうか。

科学者からは上記のような考え方は否定されがちです。人間だけが何か
特別なものであるかのような思いこみは、感傷であり、真理究明のさまたげに
なると。

でも残された人生をどう生きるかと考えるとき、私には避けて通れない問い
なんです。日常生活の「議論」や「目標」や「競争」に、それほど意味がないと
いつのころからか思いこんでしまっているので。

な~んて、バカみたいですね。自分でもそう思います。(いいトシなのに)
投稿日時 - 2001-03-25 21:41:50
  • 回答No.4
レベル9

ベストアンサー率 30% (25/83)

>人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは
>うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。
イメージ出来なくて当然なんじゃないでしょうか?
例えば、mori0309さんがイメージできた場合、イメージできた時点で「客観的実在」ではなく「mori0309さんがイメージできた客観的実在」
即ち、「mori0309さんの主観的実在」になってしまうんじゃないですか?

「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」 ではなくて、
「非認識者」にとっては全てが「客観的実在」であり、
「認識者」にとっては全てが「主観的実在」である。

で、わたしの場合はと申しますと自分で「客観的実在」のイメージっていうか概念を持っているつもりになっています。
どんなものかというと、「歴史」です。
それも、誰にも記されることの無い、それでも確実に刻まれていく「事象」と「時間」。
もちろん、いつ、どこで、なにが起こったかはわたしは知りません。それでも、いつでも、どこでも、なにかが起きている。もし、なにも起きていなくても、それは、「なにも起きない」という一つの事象が起きている。あとは、「認識者」がいるかいないかの違いだけ。
「認識者」が0人の場合「認識者のいない客観的実在」
「認識者」がX人の場合「X人の認識者にとっての主観的実在」「X人の認識者以外にとっての客観的実在」
てな感じです。
お礼コメント
mori0309

お礼率 73% (210/284)

xinmanさん、回答ありがとうございます。
> イメージできた時点で「客観的実在」ではなく「mori0309さんがイメージできた客観的実在」
> 即ち、「mori0309さんの主観的実在」になってしまうんじゃないですか?
ホントにそのとおりですよね。アップした自分の質問を読み返してみて、自分でも苦笑しました。

> 「歴史」です。それも、誰にも記されることの無い、それでも確実に刻まれていく「事象」と「時間」。
「事象」と「時間」が絶対的なものかどうか、それはアヤシイですよね。古典物理学的だと思うんです。
「今の気の持ち方しだいで過去の意味(事象も含んだ)も変わってくる」これはとんでもなくトンデモ
ですけど、私の文学的・幻想詩的な「主体と認識と意志と実相」論です。

> 「認識者」が0人の場合「認識者のいない客観的実在」
> 「認識者」がX人の場合「X人の認識者にとっての主観的実在」「X人の認識者以外にとっての客観的実在」
> てな感じです。
なるほど。同時に
「客観性とはそれを唱える人間の頭数によって精度に高低のあるものでる。全ての人間が「真」と
認めるものは客観性100%で、一人にしか「真」と認められないものは客観性0%である」
とも言えるでしょうか。

何でも色メガネで見ようとする認識者としての人間の目を通さない世界。そこではまったく
分解・分類・分析・定義・カテゴライズされない「素のままの真実在」がその実相をありのままに
発揮・顕現させているのではありますまいか。
人間の外界認識尺度が有限であることのみならず、カテゴライズされた尺度自体が、人間の意思と
行動の自由を奪っているのではありますまいか。
「認識」や「定義」という行為が人間の可能性を停滞させているように感じてなりません。
「真理」や「真実在」はもっと直知可能なものであり、それは精神の真の自由の発揮によって、到達
できるのではないかと思います。直知とは認識のことではなくて、あえて言えば一体化とか、本源回帰
とか、そういうことです。

ありゃ~   どうしてもトンデモ発言になってしまうmori0309です。(申し訳ありません)
投稿日時 - 2001-03-26 15:40:39
  • 回答No.11

> どうか、ツッこんでください。(6と7、無茶苦茶ですね)

6と7は無茶苦茶、なんてトンデもない
重要な所ですよね。
1~5は、つまるところ現象学に対するポスト構造主義による批判に
近いモノとして読みました。
認識とは差異の体系である、といった意味で
デリダの「グラマトロジーについて」あたりで
知としての体系化がなされていると思います。

> 6.「存在」はつねに「認識者」の父であり母である真実在である。
存在がどう意識に立ち入ってくるか?といったフッサール現象学に対して
存在そのものを問うハイデッガー実存主義の、今日的な位置づけが
悲しいかな、素人の私にはよく分かりません。
フッサールがメルロ=ポンティやデリダによって
それなりに決着がなされているように見えるのに対して
ハイデッガーは今日どこへ行ってしまったのかしらん。
で、私は、存在を考えるためにラカンを読みました。
ラカンについては他スレッドで少し述べさせて頂きましたが
鏡に写った自分を如何に認識していくか?といった話が思い出されます。
ラカンだと、客観(モノ)と主観(イメージ)の間に
もうひとつ大事なシンボルの世界があって
逆に言えばモノとイメージはシンボルによって隔てられていて
直接触れることは出来ないとされます。
デリダはイメージとシンボルの二分割について批判していますが
モノ(客観的実在)については触れられていないように思われます。

つまり、7は今日的にかたづけられていない大切な問題だと思います。
私ももうすこし勉強します。
質問者側に回ろうかしらん。
  • 回答No.10
レベル10

ベストアンサー率 35% (56/160)

どなたの著書かは忘れましたが、『哲学入門』という文庫本で
同様の話題を目にしたことがあります。

その本では、
机なら、机という形は、見る角度によって異なるので、どの
形をもって「その机そのものの形」と定義することはできない
とか、色にしても光線の加減によって変化するので、どの色が
「その机そのものの色」であるかは断言できない...等々という
ことを述べています。

(ちなみに、色も形も光線の作用によるものというふうに
片付けることができるし、その光線の作用というのも、
その対象を構成する原子の化学結合(の電気的な作用)
によって、光線のある波長が吸収され、別の波長が乱反射
することである、というふうに片付けることができたんじゃ
なかったかな? 註:実はよく知らない)

結局、人は、対象についての「感覚与件」を受け取ることが
できるだけで、対象そのものの実体については何も分からない。
逆を言うと、すべての認識は感覚与件から「逆方向」にたどって
推測したものにすぎないと言えるわけで、
その点だけに着目して極論すると、
「すべては認識者の観念の中にある」という
(別の意味づけの)「観念論」に至るわけです。

このアイディアに、
科学的な知識(?)を援用して味付けすると、
要するにすべては、脳に対する電気的な刺激に
還元できる(!?)ということになり、
映画の「マトリクス」みたいに、すべてはマボロシなんて
話にもなるかもしれない...??? というナンとも
不気味なSFをでっち上げることもできそうです。
(コンピュータの仮想世界は、ある種のそれかも)

そのように考えると、とりあえず、「実体」については
不可知であるし、それを問うことには意味がない(!)、という
ふうな(不本意な?)片付け方をすることも可能だろうと
思えます。

所詮、すべては「記号」である、というか...
(つまり、記号こそ人の世界だ、というわけ)。
そう、やっぱり真実とは主体性のことを言うんだよ(?!)
お礼コメント
mori0309

お礼率 73% (210/284)

misokaさん、はじめまして。回答ありがとうございます。

> 要するにすべては、脳に対する電気的な刺激に還元できる(!?)
> ということになり、
う~ん、やはりそういう考えには納得できないですねぇ。
(もちろんmisokaさんはひとつの思想を例示されているだけだと思いますが)
「認識する」「理解する」という現象は「写像」や「変換」とはまったく違うと
思います。「脳に対する電気的な刺激に還元できる」という言葉は、ただ単に
「外部の熱・光線などの刺激が、五感を通じて脳内パルスに変換されている」
という程度にしか読み取れません。脳内では「刺激内容」を「理解する」ということが
明らかに起こっていると思います。「理解する」とは、過去の感覚記憶とのパターン
照合の結果による「検出感」なのかもしれません。(ちょっと安直ですね)

脳のなかで「主体」やその「理解・認識」がどのように実現されているのか。
興味はつきないです。すくなくとも外部刺激の自然投影現象のようなものでは
決してないと思います。
私には、精神とか心とかいうものは、因果律や法則を超越していると、思えて
しかたがありません。脳細胞という媒体なしには存在できませんけど、いったん
自己組織化臨界に達した「精神」という「実体」は「媒体」など超越していると
思えてなりません。ミクロレベルの脳細胞は物理化学法則どおりに機能しています
が、全体としての「精神」は物理化学法則の必然的展開物ではないのでは、、、
そして「認識」とは「精神形成」そのものなのでは、、、
「原子炉に火が点る」「肉体に魂が宿る」「脳に自由精神が出現する」
これらたち、なんだかイメージが似ていると思うんです。

こういうことを一生かけてでも研究したかったのですが、、、トホホ
(一度しかない人生、過去を愛せ、今を愛せ、どうしようもない自分を愛せ)
(雲名愛的自逆詩でした。mori0309)
投稿日時 - 2001-03-31 02:45:08
  • 回答No.18
レベル7

ベストアンサー率 0% (0/5)

>「認識者を想定しない客観的実在」
>「宇宙や世界における客観的実在」
>とは何でしょうか?

mori0309さんに質問です。
「意識のない状態」を意識できますか?
  • 回答No.12
レベル10

ベストアンサー率 35% (56/160)

> (もちろんmisokaさんはひとつの思想を例示されているだけだと思いますが)

...すみません、「回答」としては一番マジメではない部分が
引用されてしまって、お恥ずかしい限りです。
確かに、例は例ですし、「極論として」という位置付けでは
ありますが、単なる「ご紹介」であったというわけでもない
のは、もちろんのことです。

私の回答を(余計な部分を除いて、補足して)まとめれば、

・外界の認識はすべて、感覚与件という信頼し切れない
 「メディア」を通じて得た情報をもとに、推測された
 ものを基盤としている、ということ
 (また同時に、これによる以外の認識はない(?))
 (「マトリクス」の例は、ここの部分の極論)

・したがって、ダイレクトにアプローチした場合の対象を
 どうイメージするか、あるいは、アプローチ方法がない
 対象をどうイメージするか、という問いには、
 「意味がない」(!?)。
 むしろ、感覚与件を基盤とする世界が、われわれの
 「環境世界」であるという片付け方をするのがよい(?)、
 ということ

というような感じです。

おそらく、「認識の領域の縁」にアプローチする、ギリギリの
限界は、認識自体を、それ自身の体系により認識するという
程度に留まってしまうだろうと思います。

ここまでが、お題に対する回答として考えたこと+補足です。
もしかしたら、ズレまくっている(いた)かもしれませんが(^^;

ところで、

> 「認識」とは「精神形成」そのものなのでは、、、

あまり脈絡のない話になってしますが、
この言葉、とても神秘的で面白いな、と思いました。

それで、「回答に対するお礼」欄で書いていただいた内容とは
ズレてしまうとは思うのですが、勝手な連想をしてしまって
(クセなんです)、変な禅問答を考えてしまいました。

── 何ら認識を伴わない精神とは?(是如何に)

でも、これはおっしゃる通り、両者一如なのかもしれませんね。

では、前述の問答からの派生として、こんなものを
考えてみましたが、これはどうでしょう...

── 一切の対象がない世界とは?

主客の分離がないその世界は「存在」していますが
(もちろんあくまで仮定ですが)、認識する対象がないため、
認識という作用自体が発生し得ません。
その世界とは何でしょうか?

本題から大分それているようですが、ちょっと面白いかな?
と思ったので、書いてしまいました。蛇足です。
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