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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学は万能なのか紙一重か?)

哲学は万能か紙一重か?アホアホと変態の見分け方

このQ&Aのポイント
  • 哲学は一般人には理解できないことまで深く理解していて、それを存在たら示すほど賢いから出来るんですよね?でも哲学してる人と変態の見分け方があるでしょうか?
  • 哲学が生活の役に立つのか疑問になってきました。気持ちの持ちようが変われただけで、計算が速くなったり、記憶力が上がった実感は持てていません。私にとって世界は一向に平常運転なので、何の役に立っているのか疑問です。
  • ある種の生物は成長とともに段階的に変態しますが、そもそも変態が哲学なのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

こんにちは。 ☆そもそも変態が哲学なのでしょうか? ◇わたしは、 哲学をする人は、程度の差はあれ、「変態」なのだと思います。 哲学なんて世のため人の為にならないこと、生産的でないことをやっているのですから。 やたらと理屈っぽいし、頭は硬いし、ユーモアに富む話も出来ない。 ───一説には、哲学が生まれた古代ギリシアは、ヒマでヒマで、考えることする以外何もすることがなかった。この暇つぶしの為に、哲学が生まれた。生産的な活動は、すべて奴隷にさせていた─── ですが、 いろいろと考えているうちに、哲学しているうちに、 幼虫→さなぎ→蝶といったように、姿形を変える(変態)することがあるかもしれませんね。 ☆哲学してる人と変態の見分け方があるでしょうか? ◇英語でHENTAIと翻訳される『変態』とは違うのでしょうが、 哲学する人は変態だと思いますよ(笑い)。 HENTAIは、MOTTAINAIと同じく、今や世界中で使われている言葉です。 ☆でも哲学人は一般人には理解できない(というか必要にしてない) ことまで深く理解してて、それを存在たら示すほど賢いから出来るんですよね? ◇賢くはない、と思います。 もし一般人より賢い点があるとすれば、 みずからの知性や知力に限界があることを知っていることくらいでしょうか。 自分が無知であることくらいは知っている・・・。 無知であるから、知が欠けているから、知を愛し、それを追い求める。 ──────────── 愛(エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち愛は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。このような生産的な性質をもつ愛には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。愛は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%AE%B4 ──────────── というわけで、哲学をする人は愛知者(philosopher)。 ☆最近は自分のことじゃなくても「変態・変態」と言ってるので 本当に自分が変態にならないか心配になってきました。 ◇わたしは常々自分のことを「バカ」呼ばわりしています。 高校生の頃から、 「なんでこんなことも分からないのだろう? なんでこんなにバカなんだろう!!」 と嘆き、自らを虐げ、自らを鼓舞しています。 なのですが、 他人(ひと)から「バカ」呼ばわりされると、態度には出しませんが、たちまち「ブチッ」と切れます。 たぶん、心の奥底で「オレをバカ呼ばわりしていいのは、オレだけだ」と思っているからなんでしょう。 そして、 「オレは確かにバカだけれど、そのことをよくよく知っているけれど、お前───質問者さんのことではありません。わたしをバカ呼ばわりした人───程には、バカじゃない」 と思っているんでしょうね~。 ではでは。

miko-desi
質問者

お礼

多角的に変態の分析助かりました。回答ありがとうございます。 古代ギリシャ哲学が生産的でなかったのは 「嗜好を超えた真面目」が出来なかったのでは思います。 永遠に怠ける為にはどんな理屈が要るか人生掛けて考えた。←セコい。 なのでその目的たる思想を奴隷に気付かれないよう、 手段として抽象度を上げて曖昧にし、共通認識出来る言葉を奪っていった(完) 手段が目的となってて、真面目に達しない「主観」とか「嗜好」 哲学の目的って何だ?変態だったら哲学してる風なのか? 変態の目的は何だ?多分本人にしてみれば真面目な生産的過ぎることで 「変態仮面」をご覧になれば、そこにはピュアなハートが! 関西でにめったに「バカ」と言ってはいけないです。 アホは愛嬌があって「憎めない奴」ぐらいのポジティブな意味に受け取るけど、 バカは「死んだらいいのに」ぐらいネガティブな表現です。 アホ呼ばわりは慣れたけど、 バカ呼ばわりされても「鏡」で反射させるイメージをして こっそり楽しんでます。

その他の回答 (6)

  • mmky
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回答No.13

追伸 >「アホな人には勉強を税金でさせて知能を鍛えてもらう。 頭のいい人は余計な勉強をさせず仕事をしながら納税してもらい 何か証明したり発明してもらう。 いつの間にかアホが賢くなって、頭のいい人も疲れちゃってアホになって逆転したら 立場を交換して振り出しに戻る。」なんて思いついた。 ○思いつくだけで偉いですね。「いつの間にかアホが賢くなって、頭のいい人も疲れちゃってアホになって逆転したら立場を交換して振り出しに戻る。」これ本当にある話なんですよ。セミは潜水服のような殻をつけて長い歳月を地中で過ごしますが地中で過ごす間は、まさか自分が見たこともない世界で空を飛べるセミだとは考えもしないんですね。 これ人間を模して造られた生き物なんですよ。人間もセミと同じように羽化登仙するまで自分自身が本当は何者かを知らないで生きているのですね。アホだと思っている自分が本当は美しく、賢明な自分であり、逆に賢いと言われたものが、実は見るに堪えない生き物だったりするんですね。 仏教の逸話では、自分の名前もすぐ忘れるチューダパンダカという弟子の話がありますね。チューダパンダカは前世で知識を鼻にかけて嫌な奴だったので、釈尊の時代にアホに生まれてそのカルマを修正したという話です。こんなことも実は世の中にたくさんあるのですね。だから思いつくことは、それに近いことを潜在的に知っていることかもしれませんね。つまり、生きるということはセミが暗い地中で生きているようなものだということですね。セミが地中の長い年月で得る知識など、羽化登仙して飛び立った世界から見るとゴミみたいなものだったというオチですね。空を飛ぶセミの目から見る視点が哲学者の視点なんですよ。セミの幼虫のままではいつまでも「無知の知」でしかないというのが哲学者の口癖なんです。セミの幼虫の状態の人間がどのように生きるかも大切なことですが、それはあくまでも人間としての主なる目的ではないのですね。みんなセミになれる能力があるので生きているうちにセミであることを思い出して欲しいと願って、答えているわけなんですよ。真実を知ることは気持ちが救われるだけではないのですね。社会も良くなるからなんですよ。

miko-desi
質問者

お礼

褒められてる!?何とまあ。 博識なmmkyさんのお話は棚ボタにして、機械ではない人のぬくもり、肌があります。 再度の回答ありがとうございます。 >>「いつの間にかアホが賢くなって、頭のいい人も疲れちゃってアホになって逆転したら立場を交換して振り出しに戻る。」 でも実際そうですよ。 いい仕事して社会を養ってる人がどんな人も偉いんで、 自信ないなら本人の為にも仕事やめるか変えるかしたらいいんですよ。 勉強は自慢するためじゃなくて いつか社会奉公する為に必要だから税金で投資されるべきで、 学歴を自慢するのは公金泥棒自慢に過ぎないと思ってます。 >アホに生まれてそのカルマを修正した 上には上が、下には下もいることを分かってる。 アホにも。アホの上は変態と定義しましょうか。 賢いの上も変態。円環スパイラル。 「当たり前のことを当たり前にしてきた一般人の偉さ」も定義したいです。 そして、これから出没するセミさんの雄叫びも興味深くなるお話で感謝です。 セミさんは騒々しいけど健気な生き方してて、 慈愛目線で抜け殻を見つめたり、私も一回きりの人生を 全身振り絞って叫び生きていけたら。なんて羨ましさがあることも。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.12

こんばんは miko-desi 様 >自分で自分のことを「アホアホ」言ってると本当にアホになるそうです。 >そもそも変態が哲学なのでしょうか? ということは 変態が哲学であると証明できれば 「哲学変態論」が成り立つのですね 了解しました 私は 解らないことを考えるのが哲学だと思っています そこで 最近 幸福とは何か?について 考えています 私は 他人を褒めたり寄付をすることは 自分の幸福に繋がると考えていました それは 自分の幸福でもなく 必ず他人の幸福にも繋がる訳でもないという結論に至りました 闇雲に他人を褒めれば嫌がられる場合もあります 只 寄付をしても 必要としている人に届かないし お金では他人は救えません むしろ 自分の好きな事をすれば 他人に喜ばれ自分の幸福にも繋がると思います 自分が欲しい物を購入すれば 他人にとても喜ばれます 他人に何かを貸してあげれば とても喜ばれます 他人の親切に対して「ありがとうございます」とお礼をすれば喜ばれます これは 自分の幸福が他人との共同主観になったということでしょうか? 驚きですね (^-^) あと一つ ミラーニューロンは厄介です ミラーニューロン(英: Mirror neuron)は霊長類などの高等動物の脳内で、自ら行動するときと、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすることから名付けられた。他人がしていることを見て、我がことのように感じる共感(エンパシー)能力を司っていると考えられている。 Wikipediaより 世の中に 自分ができていると思っている人が多すぎます 貴方様は何も理解できていないのに どうして? ってことです 「無知の知」 miko-desi様の「哲学変態論」が立証できればいいですね

miko-desi
質問者

お礼

「哲学変態論」の体系を整える必要が出てきそうですが表現、芸術部門なのでしょうか? 回答ありがとうございます。 変態と幸福についてです、変態には超越的な感覚の幸福論がありそうです。 理想が人間を不幸にもします。 変態は部分的な五感で得る理想など超えてしまって実感全体となるのです。 完全感覚です。 使命感、達成感、安心感、感覚が全てなのだと思います。 何やら宗教染みる?そんな辱めを受けたくはない。 唯一人進め、誇りを持って、進めば誰も迷惑かけないし、 止まらぬ限り寂しくはない。 >自分の幸福と他人との共同主観。 「約束」ですね。 微笑みは約束なしの約束。 Tefu_Tefu様は外人を見たことがありますか? 私は何度もあります。(自慢ではなく) 微笑んだら微笑み返してくれます。 何千マイルも離れた所から来られた人類に不思議。 世界は広いのか狭いのか。 人間はチンパンジーの子供に似てて、 霊長類に「大人になれない病」が発症して、 そこから種が分岐したという説があります。 面白い説ですよね。 笑う人間は霊長類からすると子供っぽいようです。

回答No.4

>哲学は万能なのか紙一重か? いいえ。 万能なのは数学だけです。 論理学も離散数学の一分野と考えましょう。 物理学は一見万能に見えますが、そのスコープがミクロかマクロかによって「物理現象そのものも異なる」という解釈がなりたちますので、万能ではありません。 いわんや、全体が自然言語依存になってしまう哲学など、万能の真逆です。万能薬を期待してはいけません。せいぜい特効薬的な局所的効果を期待できるだけと思います。 >そもそも変態が哲学なのでしょうか? 変態は、昆虫類や甲殻類などの節足動物に観察されますが、人間が変態するところなど見たことも、聞いたこともありません。 昆虫が変態する事と人間が哲学する事には何の関係もないと思います。

miko-desi
質問者

お礼

竹を割ったようなバッサリ回答ありがとうございます。 数学には誰がやっても同じとなる正解があるから? 物理もわかりれませんけれども。 でもまだ科学にもわからないことあるじゃないですか! 構想を重ね、身内で実証した効果的とされるギャグさえ 親しくもない人から「無理!」の烙印を押されることがあるのですよ! 証明されてるものは誰がやっても反証可能なはず! この現実の前に、どこに偽が? 記述され得ない情報を生体は妄想想像力以上の認識で世界を捉えてるかもしれない。 生体には必ず膜があり、膜や外皮は生体の防御としてより 神経細胞と別に環境因子に対して自身でイオンの電源を入れたり切ったり、 システム的に逆因果を感じたり考える思考回路であるらしい。 オートポイエーシスは非線形で反エントロピー的に変態。難しい言葉で何となく言ってみる。 哲学は多数の推論を持ち、逆説が多いしやはり変態しますね。 昆虫は自分を変えるが 人間の「変態は(自分を変えず)世界を変える」/ miko-desi

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

哲学してる人と変態の見分け方があるでしょうか? ○ありますよ。簡単な見分け方は町や都市や国家の人々全てがその人の考え方になると、どのようなことになるかを予想してみることですね。おぞましい世界になるなら明らかに変態であり、良き世界になるならまっとうな哲学者ということですね。これ簡単なことですが以外にわからない人多いですね。 つまり、「全員があなたになったとしてどういう世界になりますか?」という単純な問いなんですね。 これどんな学問にも言えることですね。例えば、生科学が進んで、試験管から大量の人間もどきが生産されたとき、あなたと人工の人間とは何が違うのと問うて、生科学者はなんと答えるかですね。まあ、DNAのコピー品だから同じだと答えますかね。生命の価値は同等と考えるならば作る方も造られた方も大した価値はないですね。肉食型宇宙人から見れば単なる食料の増産くらいにしか見えないかもしれませんね。 こんなのは哲学者にしか答えられない問題ですね。 どの分野であれ変態はどこまで行っても変態なんですね。羽化登仙で飛ぶときは死んだときぐらいが変態の未来でしょうね。

miko-desi
質問者

お礼

羽化登仙という単語勉強になりました。長年お世話になります。 回答ありがとうございます。 私が考える理想社会は適材適所であることなので、すこぶる効率があがるはず。 アホな人には勉強を税金でさせて知能を鍛えてもらう。 頭のいい人は余計な勉強をさせず仕事をしながら納税してもらい 何か証明したり発明してもらう。 いつの間にかアホが賢くなって、頭のいい人も疲れちゃってアホになって逆転したら 立場を交換して振り出しに戻る。 なんて思いついた。 私のクローンが居て私の代わりに死んでくれたら私は私の死後を生きながら見れる? 自分の死って案外興味わかないな。 自分のことなのに私は生きてるんだから「私可愛そう」なものかどうか。 すべらないネタを一緒に考えてくれたら私は助かるかな? 近似鏡すぎて!何も映らん発展しなさそう。 私に似た人、ぐらいが弾かれる価値と思う。

回答No.2

 みこ‐でしさん こんにちは。  ★ そもそも変態が哲学なのでしょうか?  ☆ そうですよ。  あたかも さなぎから成虫の蝶に変態するといった過程をたどるのが 哲学するという行為です。  ところが 哲学することは 生きるということとまったく同じですから・しかもその《生きる》の中身については 人それぞれに考えがありその思惟=仕事=おつきあい=共生のかたちは 違っているのですが それでもその違いがそれほど《ヘンタイだ》と言われるほどには 変わりありませんから  ――つまりは もしよほどヘンタイだと言われるようなら それは《哲学》とは似ても似つかないおアソビかおフザケでしかないでしょうから――  《紙一重》のほうの問題ではなく 《ふつうの市民一般にほとんど同じである》というほうの問題になると考えます。  どういうことか?  ふつうの市民なら ほとんど皆が すでに《蝶》に変身していると思われるという意味です。  かつては 一部でしょうが ニルワーナとして煩悩を断ち身も心も無にして執着を捨てるという《灰身滅智》なる修行とそれを成し遂げたことが めざすべき《蝶》だと考えられていました。これは 《紙一重》のほうの問題です。  ところが 一般にすでに現代人は 誰もが《変態を果たした成虫》に成っています。  なぜなら 世は《資本主義》のなお全盛の時代です。鼻の前に人参をぶら下げられて これを求めて――あるいは時にこれを拒み別の生き方を模索して――生きるというとき 配偶者やあるいは子どものためにも これらかなり人間性を削ぎ落とさねば進めないような社会の仕組みの中で これに甘んじるということ。  この現実を おのが自由意志において引き受けるということ。これを成し遂げたところには 成虫への変態がある。のではないでしょうか?  むろん 市民哲学者らは さらにその後も――つい毎日の忙しさに心が流されてしまうとしても―― この成人としての生き方について 哲学することを怠らないでしょうし 怠惰であったとしても いつかはその原点に立ち戻ってかえりみることがあるでしょう。  この《変態》の過程を わが身をうんうんと推してあゆむことが 哲学することだと考えられます。  科学は そのための資料を提供してくれます。  さらには みなさんの《生きること》が社会として・全体として どのように捉えられるか? これをも哲学して行くことでしょう。  先にそちらが攻撃を仕掛けるようにしてこちらに迫って来たではないかとうそぶく弁論術にも立ち向かっていかねばなりません。といった全体としての問題だと思います。  ヒトは さらになお変態を繰り返してあゆんで行くのかも知れません。哲学は つねに出番であるようです。

miko-desi
質問者

お礼

今回はスッキリ解読できました。疲れましたが。 回答ありがとうございます。 ************************************************************** 生きる中身について人それぞれに共生のかたちや考えが違ってても変態と言われるほどにはなりません。 よほど変態と言われるならそれはおアソビかおフザケでしかないが ふつうの市民一般とほぼ同じく、人間性を削ぎ落とさねば進めないような社会の仕組みの中で 成虫への変態が哲学という意味です。 世は資本主義なお全盛の時代で、現代人は誰もが時にこれを拒み、 配偶者やあるいは子どものために別の生き方も模索して 現実を「自由意志において引き受ける」過程をたどって自らの殻を破り さなぎから成虫の蝶に変態する「哲学するという行為」をしているのです。 ニルワーナとして煩悩を断ち身も心も無にして 執着を捨てる修行を成し遂げることが目指すべき蝶だと考えられていました。 これは紙一重の問題です。 ******************************************************************* 自分で文章の整理したり付け加えたりの編集をさせて頂きました。大体のところはってますか? 「みんな悩んで大きくなった」という訳ですね。 逆に「悩めない」ので自虐するんかな?想像力が乏しいせいか能天気かで。

回答No.1

この世界を構成する情報は一体であり、「哲学」だの「科学」 だのといった分け目はない。 かつては、宗教も含め、全てが環境認識として一体のもの であったのだ。 ただ、環境認識が深まるにつれ実験や観察器具が専門化し、 あるいは情報量の増大になって分業化するようになり、扱う 我々の側の都合で、仮に分けられているだけだ。 生物を扱う「生物学」や望遠鏡で宇宙を観測する「天文学」 など、それぞれの分「科学」が独立した残りの、全体の意味 や細分化した要素の位置づけといった総合的な部分が、 「哲学」として残っているのだ。 少なくとも私は、哲学をしようと思った事など一度もなく、 ただ『自分の生きているこの世界について知りたい』と思っ た結果として、科学も哲学も、あるいは世界中を回っての ボランティア活動もあったのだ。 むしろ、環境認識をおろそかにして、目の前の「お金や自己 顕示」といった“目の前のニンジン”に操られ、見えていない 道を爆走する人々の大胆さには、感心するばかりである。

miko-desi
質問者

お礼

地球家族、生き物万歳目線からの回答ありがとうございます。 いっそ、めずらしい動物を観察して和んだり感心するネタにする動物園のような 「人間はどこでしょう?哲学家園」レジャー施設を提案してみる。

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