• ベストアンサー

「実存」って何でしょうか?

waysの回答

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.7

うん、何よりも、そこに「ある」ということ。語るのは、そのものがある、ということの次に行われる。本質を見抜く、という言葉がありますが、それよりも何よりも前に、「存在する」ということです。

yuniko99
質問者

お礼

成程そうですね 我が意を得たりです。 どうも大変ありがとうございます。(質問が実存とはなにかなので)

関連するQ&A

  • 実存は本質に先立つか??

    実存は本質に先立つと言ったのは・・・実存主義者の・・・サルトル? 果たして実存は本質に先立つのか? 本質が実存に先立つのか? 本質なくして存在があるのか?基本的性質を持って存在としなければ 定義のしようがない。 実存が先立つのは人間だけか?人間も本質がなければ 誰々さんとも言えず存在は成り立たないと思うのですが。 私の定義は この本質を個性と言い変えて 個性ある性質を持ったエネルギーが存在だと。 哲学も唯物論から実存主義まで色々あるのではないでしょうか? それらの哲学は この「存在」ひとつ取っても整合性はあるのでしょうか?? 沢山の哲学者がそれぞれ言いたい放題言い放ったのが哲学なのでしょうか?? 科学にはちゃんと共通の物差しが有りますが 哲学はどんなルールがあるのでしょうか 哲学に詳しい人 教えてください。僕はお金を出してもらえず哲学科に行けなかったので わからないのです(^^ゞ

  • 実存哲学

    ハイデガーの実存哲学(主義)とは現代存在論は同一のものなんでしょうか?いろいろ調べてみたんですがいまいちよくわかりません(>_<)それからカントやデカルトの(近代)認識論から(現代)存在論へと移行したということについてなんですが、どのように移っていったのかむずかしくて理解できませんでした!このことについても詳しい人、教えてくれませんか?お願いします!

  • 実存主義の理解を深めたい サルトル

    こんばんは。 サルトルを読みたいのですが、哲学頭ではないので敷居が高く入り込めない状態です。今までサルトルで読んだのは「嘔吐」「水入らず」「実存主義とは何か」です。実存主義の理解を深めたいのですが、他に何から読むとよいでしょうか?なるべく、哲学用語だらけだったり、長すぎないものがよいのですが、わがままを言わず読みたいと思っています。初心者がおさえるべきサルトルの著作を勧めて頂けると幸いです。よろしくお願い致します

  • 哲学における「実在」の概念について

    「実在」という概念は、哲学上、どのように捉えられているのでしょうか? 「存在」はハイデガーの論考に代表される大問題ですし、「実存」も、バリバリの大問題です。ですが、素人的には「実在」って、そういうレベルでは考えられたことがない気がするんですが、どうでしょうか? とはいえ、「存在」とも「実存」とも違うのは確かなので、そういう概念自体には意味があると思うので、それなりに考察に値するはずだとは思うのですが。。。 わたしはいま、「生物の種の実在性」ということをちょっと考えているんですが、そういうことを考えるのに、そもそも、「実在とは何か」っていうのをはっきりさせないと始まらないと思うんですが、どこから手をつけていいのかわかりません。それに、そういうのは生物カテで聞く問題でもないと思うので。 詳しい方よろしくお願いします。

  • さて、何を語ろうか。

    主観的哲学と客観的哲学というものがあると気付きました。 ≪主観的哲学≫ ・我思う故に我あり ≪客観的哲学≫ ・人は必ず死ぬ 同様に ≪主観的哲学≫ ・私は最善の選択しかできない。故に私にとって私の選択は常に正しい。 ≪客観的哲学≫ ・善悪は相対的なもので絶対善、絶対悪はない。 恐らく我々は人生哲学(客観的哲学)について他人の助言を必要としない思われます。 客観という道具はもっぱら迷える子羊たちへの助言に使い、 我々は自身は、客観によって分離し取り残された『私』の本質を主観によって探るべきではないでしょうか。

  • 認識者を想定しない「客観的実在」とは?

    数学カテゴリでの回答者の方とのやりとりのなかで「客観的実在と人間の認識」が 話題になりました。 人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。 色、匂い、味、手触り、音色、寒い(暖かい)などは人間の五感がなければまったく 存在しない概念ですから、客観的実在とは言えないと思います。 形、大きさ、質量などになると、よく分かりませんが、これも認識者がいて 何かと比較するという思考がない限り成立しない概念だと思います。 とすると「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」 とは何でしょうか? エネルギー? 情報? 法則? 時空間とそのゆがみ? 哲学的にはもっと違う答えが可能だと思うのですが。 どんな主観的な意見でもいいですからお聞かせください。 「客観的実在」の「主観的意見」なんて、変?

  • ニーチェ~ハイデガー~サルトルの思想的つながりは?

    19世紀末にニイチェは、このプラトンのEssentia(本質存在)がExistentia(現実存在)に優位するという「プラトン主義」と「形而上学」をひっくり返し、西欧の2500年の「形而上学」の歴史に終止符を打ちました。 これを受け継いだのがハイデガーで、ハイデガーはデカルト以来の意識中心の、自我を出発点に取る近代哲学を放棄し、人間の事実存在(実存)に出発点にとる「実存哲学」を始めることになりますが、後期になるとサルトルの「実存主義」と区別するために、今度は人間を中心とする「実存哲学」から「転回」し、「存在」を中心とする「存在論」を展開しました。 … という哲学の解説を読んで興味が湧きましたが、ところどころ分かりませんでした。 前半の、ニーチェが「プラトン主義」と「形而上学」をひっくり返した、とはどういうことでしょうか? 後半で、ハイデガーは自我を出発点に取る近代哲学を放棄し、人間の事実存在(実存)に出発点を取る「実存哲学」を始めた、とありますが、自我を出発点に取るのと実存に出発点を取るのとではどう違うのでしょうか? サルトルと区別するために~とありますが、結局やってることがサルトルと似てきちゃった、ということですか? ハイデガーは結局サルトルを超えるような仕事をしたんでしょうか?それともサルトルとは全然別の種類の分野に進んだ、ということですかね?

  • ヱヴァンゲリヲン第26話の”真実”の概念の出所は?

    26話では、 冬月「受け取りかたで、別モノになってしまう脆弱なものだ。人の中の真実はね」 加持「人間の真実なんて、その程度のものさ。だからこそ、より深い真実を知りたくもなるがね」 と言及しています。 一般世間では、真実とは世の中に一つだけ存在するものとして扱われることが多いです。しかしエバンゲリオンの中では、真実は主観的な概念だと主張されています。 このような考え方はどのような哲学から来るものなのでしょうか。どんな思想家の哲学から来ているのでしょうか? 例えば、真実は個人が持つものというここでの考え方は、実存主義というよりは本質主義的だと言うことも出来るかもしれません(これは例なので異論あっても見逃してください) 誰か検討がつく方は、ご回答よろしくお願いします。

  • この解釈は間違っていますか?

     先日、“人の道”さんに贈った文章の後に始まる「論」の私の解釈の可否、あるいは誤解の可能性の確認をしたいのです。  タイトルは「大圓鏡智」です。  観念態  一、法身の絶対的観念態  法身(ほっしん)一大観念態   吾人が現に寫象(しゃしょう)する處の世界の天体の星宿より、乃至山河大地動植物等に至る迄の森羅万象の相と顕われてをる物と、また一方に外界の万象を寫象する処の主観なる心との二面を為してをるが、客観界の一切万象は主観の心がなければ写像することが出来ぬ。客観と認むる物と、また吾人の主観の心とは、それが一大根元がなくてはならぬ。此の根元を法身の一大観念と云う。  法身自体は主観客観の相対的でなく、之を統一する処の絶対的観念態である。夫(それ)が世界の相対的の方面には物象心象の二現象と為るも、本質は同一観念態の相対的現象と云わざるべからず。故に此の一大観念も物心二象の本源なりと云うことを得。  吾人の主観なる心も客観なる物象も、本は同一法身の絶対観念態の分類現とす。故に此の物心二象の本質同一なりとの理を明かす為に四種の観を以てす。  今、華厳法界観の會色帰空観等の四観を物心即一観に転用せば、  (一)會色(物)帰心観  客観の万物の本質は心なのである。万象は主観の心に帰す。主観の心と客観の物象とは同一本質である。氷炭相容れざる如きもので無い。向こうに見ゆる山河大地等の物象は自己の観念が客観化して現じた相である。実は自己心の相を向うに見てをるのである。向こうの物夫れ自体は何であるかは、物の象と現れたのは自己の観念の相である。若し自己の心が無ければ、外界の相は如何なる象相なるかは認識することが出来ぬ。故にすべて客観の相なるものは必ず主観の心に帰すべきものである。【このあとに、色心不二観、物心無礙観、物心無寄観、と三つの項目で論じられています。】  私の受け止め方は、以下のようなものです。  (一)會色(物)帰心観に論ぜられていることは、いかにもこの世の世界は夢、幻なのだと行っているように思えます。また釈尊の「空」観をそのように捉えているような考えをしばしば見受けます。  でも、此処は客観の相は実在しないと言っているのではなく、あくまでもその実際の現象をとらえている心に現れている相は“主観”なのだ、その主観そのものを我々は実在と思っているのだと言っているのではないでしょうか。(上手く表現できないもどかしさがあります)  なぜって、実際にモノが在るからこそ、見たり触ったりする事が出来るわけですから。  ☆ この世の事は総て夢、幻、なんかではないのだ!   よろしくお願いいたします。

  • フランクルの実存分析とロゴセラピーの違い

    「フランクルの実存分析とロゴセラピーの違いを述べよ」といわれたのですが、 この2つはほとんど同義に扱われており、違いがわかりませんでした。 いくつかの辞書を引いたところ、 「実存分析はフランクルの立場を表す」 「ロゴセラピーは、患者が自らの存在の意味を、対話を通じて見出すよう援助する事」とかいてありました。しかし余計にわからなくなりました。 今わからない事は、以下の3点です。 1.フランクルの立場が今1つわからない 2.ロゴセラピーの意味があまりにも抽象的でわからない 3.その繋がりがわからない 悩んでおります。どなたか教えて頂けないでしょうか。