復習するは我にあり?

このQ&Aのポイント
  • 中高の整備委員、美化委員からは 人は無責任に見えても 色々と事情があるのだと言う事が分かった。
  • 大学に入ってみると 教育大なのに受験に疲れて元気なく、また採用試験に有利と言って校内暴力に対して少林寺拳法をやってるのを見た。何か違うと思った。
  • 東京に出た 情報量が多かった。色んなものを見たが病気になってしまった障害者になった 今まで出来た事が出来なくなった。
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復習するは我にあり?

中高の整備委員、美化委員からは 人は無責任に見えても 色々と事情があるのだと言う事が分かった。 哲学をして世の中の問題を解決しようと強く思った。 大学に入ってみると 教育大なのに受験に疲れて元気なく、また採用試験に有利と言って 校内暴力に対して少林寺拳法をやってるのを見た。何か違うと思った。 大学をやめて野に下り ドロップアウトして最底辺の生活をした。力が抜けていった 最底辺は楽だが 充実しない。バイトをしながら考えに考えた。 仕事に就いた 労働をした。考える事もあまり出来なくなった。 東京に出た 情報量が多かった。色んなものを見たが病気になってしまった 障害者になった 今まで出来た事が出来なくなった。 就職した 弱者の立場が分かった。 仕事をしながら考えた 存在性思想に辿り着いた。 家庭教師をした 出来ない子の悩みや喜びが分かった。 存在性思想を宣伝した 分かってくれる人は僅かだた。 時間ばかりが過ぎた だんだん空しくなってきた。流された。 今 存在性のことを書いたが やはり反応は少ない このまま私は消えていくのだろうか?残念だ。 私はどうすればいいのでしょうか? (1)このまま消えていく (2)哲学をやめて楽しむ (3)哲学を頑張って乗り越える (4)哲学をやめて苦しむ (5)早く天国社に行く。 さあどれでしょうか?  

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  • Nakay702
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回答No.15

遅ればせながら、お答えします。(「“復習”するは我にあり」の発想に、yuniko99様の謙虚な心的態度を感じました。) >(1)このまま消えていく ⇒そんな恐怖にも似た予感は、如何ともしがたいですよね。私ごとですみませんが、「そんなはずはない」と思いながらも、正直「このまま消えていく」ような感覚に襲われることが時々あります。 しかし、…お互い、せいぜい抗いましょう! 「人間が最も恐れるもの、それは自分自身の想像である」(コンラッド)そうですから。 >(2)哲学をやめて楽しむ >(3)哲学を頑張って乗り越える >(4)哲学をやめて苦しむ ⇒哲学は、残念ながら、失礼ながら、「やめる」ことも「乗り越える」こともできないと思います。そして、日々それと関わりながら過ごしていく、そうしていかざるを得ないのだと思います。 おっと、これも、ほとんど自分のことでした! ま、お互い「一日を、生涯として生きる」(中山ミキ)ようにしましょう! 「昨日はもうない。明日はまだない。しかし、今日は確実に君のものだ」(アラビアの俚諺)そうですから。 以上、ご回答、(というより、自戒)まで。

yuniko99
質問者

お礼

どうもありがとうございます。回答を自戒と添える所に、ナカイ702さんの謙虚さを感じます 全くその通りですねえ。哲学は頭が動いてる限り止める訳にも行かないでしょうね 中山ミキまで出てくるとは思いませんでした。思想の根の広さを感じます。 今日一日を一生涯のように生きる いい考えだと思います そうしたいものです これはどうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (19)

回答No.21

 ごめん。降りるわ。

yuniko99
質問者

お礼

そうですか。

回答No.20

 ★ (No.19お礼欄) (さ)についてですが 人間としての身は殆どDNAと食物や環境が 心は、脳を物質としてその性質として心(精神)があります。  ☆ 《DNA》は 身です。身をつくる重要な要素です。  《食物》は 身が摂取するものです。  《環境》は そこに住むところです。  デタラメを言ってはいけません。  《物質》から出来ている神経組織としての《脳》において その《性質として心(精神)がある》。この《性質》観については 大方の認めるところです。ここは あらそう必要はありません。  ★ DNAからくる性質にも多くの存在性があり、心(精神)も多くの性質を獲得し多くの存在性を持ちます。  ☆ 《DNAからくる性質に》 顔や運動能力など身にまつわる特徴があります。この点は誰も反対していません。    その《性質にも多くの存在性があり》。これは 分かりにくいところです。  たとえば 身の特徴としての性質がそなわるにあたっても 存在を存在たらしめている《存在性》というチカラが根源において横たわっている。といった意味でしょうか?  でも 《多くの》というのは 解せません。根源のチカラが どうして多くあるのですか?  つまり いづれにしましても その存在性を言わなくても 《存在は存在そのものによって存立していて そこに性質をそなえてもいる》とも言えるはずなのです。  ですから 存在性を立ててもいいでしょうが その必要性はまづ見当たりません。なぜ こだわりますか?  ★ (身と心の)存在にプラスに働けば存在性であり、マイナスに或いは害になれば存在性ではありません。  ☆ では この命題について 問うてみます。  《マイナスに或いは害になる》チカラとは 何のことですか?  《(身と心の)存在にプラスに働く》のは 人間が意志をもってからだによいことをするのを別とすれば 身の組織が 自己組織化をするかたちで 身ないし存在の維持向上のために(プラスに)はたらいている。のではないですか? つまり 《存在性》を立てなくても 同じことが言えるでのはないですか?  ★ 存在性という考えはごく自然な考えだと思います。  ☆ 何か根源のチカラを想定するというかぎりで 存在性という言い方をし得ますが どうしてもそれでなければならないという必要や理由が まだ納得行きません。

yuniko99
質問者

お礼

>《マイナスに或いは害になる》チカラとは 何のことですか? 害になる事は幾らでもあります。DNAは人間に置いては厳しい淘汰にそれ程は晒されておらず 病気になり易い、或いは生まれつき病気や障害があったり、マイナスの遺伝子を持っていても大概いい年まで生きます。 私もそうです。 スリルを求めたり、タバコや酒やギャンブルや麻薬や色んな事に中毒になるというのも マイナスになることです。 人と喧嘩するだけでもマイナスになる事が多いです。 それに自分にとって害になるだけではなく 他人に害になっても社会的動物である人間にとってはマイナスになります。 どうもです。

回答No.19

 No.16です。  ★ それで存在を実現する性質に「存在性」という名前をつけたのです。  ☆ やっぱり 次のように問うことになると思うんです。:  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (さ) 存在性によって《人間》として存在するものは 《身と心》とから成るという特徴がある。身のハタラキや心の機能は 人間にとっての性質となる。  となると思うのですが きわめてややこしいですよね。どうですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを強行突破するとおっしゃっているのですが わたしなら ようしません。  つまり要するに《性質》ということをなおざりにしないために 《存在性》という言い方を用いたいということのようですが こうなりますよ。:  ・ 存在性によって存在するたとえば人間なる存在は 性質として 身において動物と同じく感性としての知覚のハタラキを持ち 心において動物とはかなり違った記憶や知解やなかんづく意志といったハタラキを持つ。  つまり 《存在を存在たらしめ それにおいていろんな性質を実現する存在性》ということになります。  つまり 《存在は 存在みづからにおいて存在として成っている。そこには性質が伴なわれている》と言っても ほとんど同じことになります。  つまり もめなくてもよいところで かたくなに自説をまもろうとしている。と映ります。  与しません。よろしく。

yuniko99
質問者

お礼

(さ)についてですが 人間としての身は殆どDNAと食物や環境が 心は、脳を物質としてその性質として心(精神)があります。 DNAからくる性質にも多くの存在性があり、心(精神)も多くの性質を獲得し多くの存在性を持ちます。 (身と心の)存在にプラスに働けば存在性であり、マイナスに或いは害になれば存在性ではありません。 存在性という考えはごく自然な考えだと思います。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.18

>私はどうすればいいのでしょうか? 往生すればよい。 善人な表往生す。いわんや悪人おや。

yuniko99
質問者

お礼

悪人ですねえ私は・・・なかなか分からない 馬鹿者です すみません どうもありがとうございます。

noname#208724
noname#208724
回答No.17

存在性のイデオローグは、Yuniko99さんだけでなく、外国の言語学者の中にもいたんですね。むしろ心理学や考古学や民俗学や人文社会学に近いですもんね。 先日、哲学カテゴリーに言語の基本についての質問が投稿されてたので、私もその質問に回答したのですが、皆さんから支持されている回答の中から興味深いものを見つけましたので紹介します。 ――――――――――――――――――――――――― ソシュール研究家の著書に、ソシュールの講義の記録があり それは簡単に言うと次のようなものだった。 “人間は言語の発明者ではありえない。” ――――――――――――――――――――――――― というものです。 人間の存在以前に、言語が作成される性質があったことになります。 これはつまり、 “物質の存在以前に性質があった。”ということを暗に示唆すると感じました。 構造物の以前に設計図があるのと同じことですね。 やはり優れた学者さんの見解は、国籍を問わず聡明さを感じるものがあります。 外国にまで同じことを考える学者さんがいたんだから、それでいいじゃないですか。 ここらで一休みして、別な研究もやってみたらどうでしょうか。 先日、役所へ高級人工言語の講習に参加したいって申し込みに行ったら、それは若い人向けですって言われてへこんだので、しかたがないので私は今、論理学を独学でやっています。ほんとに人生は長い寄り道ですね。自分が新規で立ち上げる活動の結果が出るのは30年後、40年後なんですから。でもすぐに結果が出るようなものに飛びつくようでは、自分もたいしたものではないことを証明するようなもんです。

yuniko99
質問者

お礼

なるほど 同じ様な事を考えた人がいたのですねえ。外国に? それは嬉しいですねえ。早くメジャーな考えになって欲しいものです 私の研究も活かされるかもしれません。 どうも教えてくださって大変ありがとうございます。

回答No.16

 No.7です。説明をありがとうございます。   (あ) ★ (No.7お礼欄) 存在性とは その存在が存在する為に必要な性質または有効な性質 を言います。  ☆ 言葉の問題ですが ふつうはですね 《性質》と言えば:   (い) 性質とは 存在するものが持つチカラ(またそのハタラキ)やほかのものと違ったシルシとなるもの  ではないかと考えます。つまりむしろ逆であって:   (う) 存在が存在であるゆえに そこに性質がそなわっていたり伴なわれていたりする。  たとえば 次のようにです。:   (え)★ カニならカニが持ってる8本の足で歩く事や泳ぐこと、餌を取ることハサミで戦うこと   (お)★ 呼吸をすること その他諸々の性質を持っているから生きていられるのです  けれども   (か)=(あ) ★ 存在するにはそれなりの 存在させる性質が働いているのです。  というのは おそらく二つの場合が考えられると見ます。:   (き) 存在を存在たらしめる何らかのチカラ   (く) 存在は存在そのもので存在である。つまり《存在が存在するために必要なもの》は 立てない。  そして   (け) この(き)のチカラだとすると それを《存在性》と言おうと思えば言えるのでしょうかねぇ。  ただしその言葉と (い)~(お)の《性質》とは 紛らわしいですよね。つまり次のように言わなければならなくなります。:   (こ) 存在するものは いま《存在性》とよぶチカラによって存在していると仮説する。そのとき この存在するものの一つひとつには それ自身の特徴としての《性質》を持ってもいる。  と。さらにつまりたとえば:   (さ) 存在性によって《人間》として存在するものは 《身と心》とから成るという特徴がある。身のハタラキや心の機能は 人間にとっての性質となる。  となると思うのですが きわめてややこしいですよね。どうですか?

yuniko99
質問者

お礼

性質というのは存在の持つ力またはその働き、そしてそのシルシとなるもの と言うのは頷けます。ただ実際に辞書を引いたら そのシルシのことが書いてあり 性質は物事を見分ける特色 という書き方です また今までの考えからすると物質・エネルギーの持つ属性 と書いてあります 性質は存在の属性であることは知っていましたが よく考えてみたところ 性質は同時にその働きで、存在に態を与え存在を実現する まさに真理に則って現れるものです。 性質の重要性が軽視されてると思ったのです。 性質は精神を形作っています。精神は独立したのもです。 性質の重要性を今一度注意してみていただきたいのです。 それで存在を実現する性質に「存在性」という名前をつけたのです。 どうかよろしくお願いします。 どうも大変ありがとうございます。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.14

子供の頃に父親に教えられたことがあります。人生において些細なことが人生を大きく変えてしまうことがある。だから小さな事にもその選択に気をつけねばならない。人生とは小さな事を一つ一つ選択してゆくことなのだと教えられたのです。これまでの人生を振り返えってもすべてが小さな選択の結果であったと思います。その選択に慎重であったので大きな失敗をせずに幸せに暮らしています。そしてその選択に自負心を持っています。 今、貴方は自分の選択を他人に質問しています。自主性のない生き方は余計に虚しくなりますよ。

yuniko99
質問者

お礼

うう 確かに。自分で選択しなくては そうですね なかなか相談できる人がいなくて 特に哲学が絡むと難しくて 書いてしまいました。 そうですね 最後は自分で選択しないと。 今中途半端は状態です 全くお恥ずかしい。 どうも大変ありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.13

僕は世界にたった一人だよ 僕は世界にたった一人だよ ねぇ そうでしょう? 君にしかできない事なんて ないかもしれないけど 何もせずに消えてゆくの 何もせずに消えてゆくの 何もせずに消えてゆくもんか~ 僕だって 誰だって 気持ちイイ事がしたいだけー! 爆弾ジョニーの、「唯一人」という曲の歌詞です。 最後の、気持ちイイ事がなんなのか、よく考えてみるといいのかもしれません。清々しく、くよくよせず、こだわらず。。 ずばり2番ですね。やめるとは言わないまでも、程々に、です。哲学は程々にして、楽しむです。 しあわせになった哲学者、少なそうですし、哲学によって真理にたどり着くという保証は無いです。真理なるものを求めるにしても、哲学以外のアプローチは無数にあるでしょう。

yuniko99
質問者

お礼

・・・そうですね、哲学以外のアプローチもありますよね このGWに作戦を練りたいと思います 戦略的・・・という言葉はあまり好きではありませんが 作戦くらいはいいかもしれません。 気持ちいいことしたいですねえ 清々しい人生にしたいものです どうも大変ありがとうございます。

  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.12

この質問は哲学カテゴリーではなく人生相談系のカテゴリーでするべきですね。

yuniko99
質問者

お礼

なるほど そうですね・・・

回答No.11

役立たずは淘汰される事で社会は進歩し、 役立つ人間が貢献する事で社会は発展する。 (どっちでも良い)

yuniko99
質問者

お礼

ありがとうございます 気が楽になりました。

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