• 締切済み

言葉の真実味

僕はそれぞれの人生に優劣をつけるべきではないと考えていますし、人の人生観や哲学にも優劣は無いと思っています。 ですが、口から出る言葉には、説得力や真実味が有ったり無かったりと、確かに差があります。 それを、アサイチで「サラバ!」の西加奈子さんがしゃべっているのを聞いて、ふと思ったのですが、どうすれば、内田樹さんや西加奈子さんのように、言葉に真実味、納得させる力を持たせる事ができるようになるでしょうか?どのような理論や裏打ちが必要になりますか?

みんなの回答

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.4

西加奈子さんは私は彼女が小説家であるということしか存じ上げませんが、内田樹さんの著書はかなり読んでいます。それだけの知識から考えたことですが、 >内田樹さんや西加奈子さんのように、言葉に真実味、納得させる力を持たせる事ができるようになるでしょうか? ふたりとも国語力、文章力、言語力が並みではない、われわれ市井の凡人より格段に優れているということはいえます。いはば言語、言葉を扱うプロである、ということでしょう。人間は言葉でコミュニケートしますから、1)この能力が優れていれば、彼らの語る言葉が筋が通っていて、分かり易いために聞く人を納得させひきつけることが出来るということがいえると思います。 2)に彼らの肩書きが重要です。若くして大学教授になったり、文学賞を受けたりしたら、そのひとたちを尊敬する気持ちが生まれます。何か、優れた人が言うのだから、それは信用できるに違いない、という気分が聞く人に芽生えるのです。 >どのような理論や裏打ちが必要になりますか? やはり彼らの深く多大な知識が上記の理由になります。どのようなというより、何であれいかに彼らが受容した理論や知識を自らのものにしてしまっているか、ということでしょう。自分の理論として自信を持って話すから説得力も生まれるのでしょう。内田さんの話にはそのうえに一流の言論人にある創造性のきらめきがあります。私は好きです。

ext1219
質問者

お礼

ありがとうございます。 内田樹さんの言葉は、うーんと唸って編み出した言葉というより、閃きや想像性を感じます。でも、筋もそれなりに通っているし、大抵喩えがすごく分かりやすいから、すらすら読めますよね。

回答No.3

世の中の一般大衆に広く受け入れられると思われる「甘口コメント」を発する人がテレビなどには出てくる。で、そういうものは、たいていの場合、真実とは別物。 良薬は口に苦し。辛口で、一般には受け入れがたい真実を語る人は、テレビ局がオファーしないし、そういう真実を語る番組にはスポンサーもつかないので、早々に打切りになる。怒りキャラを演じる人もいるが、そういう怒りが広く大衆に受け入れられるというヨミがあるから。 言葉に真実味を持たせようと考えた時点で言葉としては嘘になる。真実味を演じていることになる。 また、世の中に真実は無い。常により良いモノを求める世の中にあっては、現在真実と思われているモノは、とりあえずの今日的「仮説」なのです。将来的には、新しい科学的発見があって、それまで真実と信じられていたモノが変わるかも知れない。世界的な思想家哲学的発想の転換があって、国際ルールが変わるかも知れないのです。そういう意味で、全て、真実と思われている事象は、今のところ正しいということにしている「仮説」なのです。 また、言葉のみで人を納得させるのは困難。裏側での生き様を垣間見せることで、その実際(実生活)の姿と言葉(または文字)との乖離がないことで、人は納得する。演者の言葉では無いと納得する。

ext1219
質問者

補足

つまり、素晴らしい人からしか、素晴らしい言葉は出ないのですか?

  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1253/3429)
回答No.2

理論というのならば。 1+1=2 は知っていても、それを数学的に証明できる人は少ないです。 たとえ心理学を学ぼうとも、その意味が理解出来ていなければ、ただの自己満足で終わることでしょう。 裏打ちというのならば。 経験や信念、行動が伴っているかなど、言葉以外のものがそこに含まれているのか・感じられるかどうかも大切な判断材料になっているだろうと思います。

ext1219
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.1

人生経験やね。但し、今時のTV番組に真実味があるとは到底思えないがw

ext1219
質問者

補足

今朝のアサイチはご覧になりましたか? 言わされていたのですか?

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