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言葉の意味性について

心理学でいいのか哲学でいいのか迷ったのですが、言葉による心象の差ということだと思いましたので、こちらにしました。 先日車でラジオを聴いていて、人生相談のようなトークの間があったのですが、その投稿者が「彼女とのデートの最中、キスしようとしたら拒否されて、さらに「あなたとの付き合いを考えたいの」と言われた。どうしたらいいか」なんていう話がありました。この「考える」という言い方が問題で、これは古語的には、 「か(接頭語)身 交わす」 という意味合いらしいです。つまり、「考える」という言い方は、元をただせば、「身をもって交わる(もっとも比喩的にであって実際上ではない)ように、人を心の中に受け入れ味わう」という意味らしいです。 つまり、古語的には、この会話は 「あなたとの付き合いは、身をもって交わってみたい」 という意味合いに近いものだと思われます。 一方では、再起不能のような拒絶間に直面し、一方では、女性からの強い告白であるかのように、発音(伝播される音声)は同じであっても、その心理的効果は180度違ってくるわけです。 ここでわからないのは、そもそも言葉の意味性というのは何なのでしょうか?なぜ、特定の発音によって、受ける心象がかわるのか。高々100年くらいで同じ国でもぜんぜん違ってしまう。この可変性はいったいなんなのか?あるいは、意味性から生じる心理作用とは一体何なのか?つまりは、伝統とは何なのかという問題ともつながっているように思います。本当に日本人のDNAなんてものがあるのか。そんなものは、一代違って全く違った社会言葉が発生したら、跡形もなく消えるのではないか? 改めて、よくわからなくなります。 抽象的な質問ではありますが、どう考えるべきでしょうか?

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回答No.3

 仰せのように『考える』ということの多義性において、古語に伝わる意味性がずれるというとおかしいが、変移してきていることがわかりますね。  伝統やDNAの問題はここでは考える要素ではないように存じます。  心理作用もそうですね。無論言語という多方面多なる位相で媒体用具ですから、間接には影響や関連はあるでしょうけれども。  ことばは社会の変化、生活などとともに変移していかないと生活も社会も、そしてことばも機能しないのではないですか。    純粋、元来。これは発した次の瞬間、その人の抱く観念から別歩きをし始め、社会化されていきます。共有化と社会性はことばの使命の一側面でしょう。  そういうこともあるほか、安易安直な生活と観念での使用にもより、手垢や俗化という事態も避けられないのが、究極の神霊の天地開闢以来の原則です。ことばはもっとも純粋な、そして元来のことから、もっとも俗悪なところまで繋がる、一つの流れです。  神が言葉を発した。それからもう俗化は始まります。  人間に言葉を与えた、それはコミュニケーションをさせるとともに、お互いの離反(同じことばで異なる観念意味内容による)させるためでもありあました。これが創造のプロセスを一面から画いたものです。  観念と意味は生活と歴史で異ならざるを得ない。いい意味では社会化でしょう。これは多面俗化ということでもありましょう。  DNAや伝統、心理作用は間接ではあるが、このことをテーマしにしての論及には関係させることではありません。  人間の宿命でしょう。

garcon2000
質問者

お礼

やはり、言葉あっての社会なのではなく、社会あって付属物のようなものなのだと思います。極端に言えば、言葉はなくても社会はあるのでしょう。人が使うということは、努力しなければ社会の変遷により言葉はとどめられず変化していく、しかも、堕落の方向へと自然に流れます。その相克のようなものが常にあって、分かり合えないし、壁ができる、人間が温和に調和することはないという宿命に通じますね。

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  • hakobulu
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回答No.2

「考える」というのが、 「か(接頭語)身 交わす」 「身をもって交わる」 という意味だったというのは面白いですね。 教えていただいた内容から推測するだけですが、 人なり事象なり、なんらかの対象について、自らの全身全霊を以って交わろうとする、つまり必死に理解しようとする行為。 といったようなところから生まれた言葉だったのかもしれませんね。 「考える」という行為には、元々それほど真摯な人間の心情が込められていたということでしょうか。 時代を経るにしたがい、考えることができるという有難味も薄れきて、アーメンと惰性で唱えるキリスト教徒と似たような感覚になってしまっている、ということはあるかもしれませんね。 >この可変性はいったいなんなのか? :時代環境の変化に合わせて言葉が変容したり、あるいは新たに生み出されたりするのは、言葉自体が人間の感覚によって生み出された(出されている)ものだからでしょう。 DNAといえども、常に新しい体験を獲得しつつ引き継がれるわけでしょうから、変化はあると思います。 結果として当初に獲得されたものは次第に希薄になっていくはずで、伝統というのは、それを惜しむという意味合いも含まれているような気がしますね。

garcon2000
質問者

お礼

偶然この「考える」のオリジナルを知りました。そして、ことばの変遷とは何なのか、まったく疑問になりました。言葉に期待するのは間違っているようです。 「考える」に関して言えば、相互にわかりあう努力ということが疎くなったから消滅したのかわかりません。いずれにしても、形式化の流れは歴史の常のようでうす。 社会が先で、あくまで言葉はそれに付随するだけのようです。

回答No.1

>あなたとの付き合いを考えたい 今まではずるずると付き合ってしまったけど、 その気はないので もう一度(付き合いを続けるか終わりにするか)を考えたいということではないかと思います 付き合うかどうかを考え直したいという雰囲気ですね 要は「考える」というところにミソがあるのではない、という気がします。

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