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言論の自由なんて普遍的価値ではない

神や神につながる偉大なる預言者を冒涜することは、 人のすることではなく、神に逆らう悪魔やそれに つながる者たちの所業である。 悪魔やそれにつながる者たちを駆除することは 神の御心に沿ったことである。 神のみ前においては罰せられるのは悪魔につながる 者たちであり、それらを駆除した者たちには祝福が 与えられるであろう。 という宗教ってどこにでもあるのではないでしょうか? なぜ言論の自由がそれらの教義より上位であると 言えるのでしょうか?だれが決めたか教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.7

”なぜ言論の自由がそれらの教義より上位であると 言えるのでしょうか?だれが決めたか教えてください。”      ↑ 順序が逆ですね。 価値の序列は人間が決めました。 だから、人間に都合が良いように決める ことが出来ます。 神を信じない近代社会においては、言論の自由が 教義よりも上である、と人間が勝手に決めたのです。

ok-camera
質問者

お礼

単なる西洋の価値観を、西洋よりはるかな歴史のある 中東のイスラム系の国家や中国に押し付けるのが 間違いなのですね。 薄っぺらい西洋の価値観が崩れる時代かもしれませんね。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • gatenten
  • ベストアンサー率15% (6/39)
回答No.6

「言論の自由」はフリーメイソンが生み出した価値観。 まずフリーメイソンは信仰を持つ者しか会員になれない。 信仰の対象に関係なく、また身分制度による身分にも関係なく、人種や肌の色に関係なく議論、言論、表現 が保証された場がロッジであったし、フリーメイソンが長年存続されてきた存在意義。 現代においては逆に表現の自由が社会のかなりの部分まで拡大したのでフリーメイソンの存在意義は小さくなっている。

ok-camera
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • hanak00
  • ベストアンサー率7% (10/126)
回答No.5

正義や宗教という暴力から身を守るための知恵。

ok-camera
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.4

一般的には憲法ですね。日本でいえば第21条で定められています。 1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 宗教との関係でいえば我々は文筆で自由に「神や神につながる偉大なる預言者を冒涜」して構わないのです。少なくとも公権力はそのことを阻止しません。 ちなみに世界には宗教が憲法より上位にある国もあるようですが、先進国ではないようです。

ok-camera
質問者

お礼

ありがあとうございます。 宗教は国家主権を超越することもありますので とても困りますね。警察は死んだ人を復活させる 力がありませんのでやっぱり口は慎むべきですね。

  • pg8mw
  • ベストアンサー率23% (55/230)
回答No.3

宗教の教義の流布は、言論活動そのものだからですよ。

ok-camera
質問者

お礼

神の言葉を伝えるのは正しいことです、 悪魔の言葉をしゃべろうとするものは 殲滅しなければなりません。 ありがとうございました。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.2

「という宗教ってどこにでもあるのではないでしょうか?なぜ言論の自由がそれらの教義より上位であると言えるのでしょうか」 →突然の文章の意味が分かりませんね。

ok-camera
質問者

お礼

それはこまりましたね。3番4番様はご理解いただけたようですが 分からないのは自分が悪い方って思いませんか? ありがとうございました。

  • sick25
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.1

jまず・・・ 神も 人間も 悪魔も 皆永遠性がある事を知りましょう そうすると いつまで経っても この世は 神と悪の戦いの場・・・ しかし 実際は 悪魔と言うのは 本来 神が創った天使長が 人間に嫉妬したのがキッカケで生まれた後天的なもの  なので 元の姿に戻る事が出来れば良いだけ そして まずは 元の姿に戻る手本を人間が しない事には 悪魔と化した天使長も 戻る術を知らないのです そして 人間も又 元の姿に戻る術を知らないのだから 此処でキリストという 術を会得した人物が必要になるのです イエスキリストは その使命を半分も果たせないまま 十字架につけられました しかし 神は キリストは イエスだけで無く 降臨させる期間を経て 再臨のキリストを再び準備し イエスの果たせなかった使命を引き継ぐ事により 完遂させる事にしたのです そして それは完遂し 新しい時代は 既に始まっているのです ノストラダムスの 人類滅亡説や マヤ文明説とは 古い悪の時代が滅亡し 新しい時代になる事を予言したものだったのです

ok-camera
質問者

お礼

いよいよアルマゲドンの時代ですね。 ありがとうございました。

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     たたき台を述べて 表題について問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に非思考の庭が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。それは われわれのものでさえある。けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。そしてそこまでである 信仰をめぐる《超現実》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。到り得ない。   ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とは 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ☆ このように《個人にとっての・わがたましいの》問題である 信仰は。  その信仰から 瞑想を経て観想(テオーリア)を得て この観想から理論(テオリ=セオリ)を打ち出すとすると その命題が 組織宗教では教義とされる。教義は すでに信じるではなく 考えるの問題である。  人は人をころさないものだなぁという観想から 《汝 ころすなかれ》という教義をこしらえる。けれどもこの教えは 信仰の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。ところがこの個人の信仰は ついぞ 非思考なのであって 教義とは別物である。まして組織ないし集団の心をひとつにする手段にはなり得ない。その仮りの命題を持って来て その教義化によって信教と良心の自由を侵してはならないものである。  したがって  ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。  ☆ と言えたとしても 問題は すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》というその組織宗教じたいについての批判が先である。後光でないものを後光としている。信仰から来る後光だと仮りにしても 後光の源をすでに忘れており ないがしろにしている。なぜなら 組織会員一人ひとりの信仰を 集団の教義ないし規則に従うようにする動きを必然的にもたらすからである。  この逆立ちは 個人の信仰の自殺行為である。  個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物である。  仮りに信仰をも批判する人がいて  ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  ☆ というくだりを 次のように言いかえたとしよう。  ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  ☆ だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? まづこのように反論する。  つぎにもしたとえ《信仰は 幻想的幸福》でしかないとしたとしても 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ 話し合いをつうじて互いに幻想も現実に合ったものとして行ける。  信仰は 教義化をせずその観想――おしえのようなものになりうるが――を他人に押しつけない。語り合うまでである。そこで心から同意する内容があれば 自分で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。幻想的幸福は 練られて行くであろう。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく 信仰および自由意志を侵害する悪癖に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

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  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。