• ベストアンサー

いい加減な気持ちが神を拝むのである

a_honaの回答

  • ベストアンサー
  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.3

まあ、何を願い、祈るのかによって、それが崇高なものか低俗なものかに分かれるよね。 形式じゃなくて中身だと。

hitonomichi34
質問者

お礼

そもそも神とは拝むものではありません。 非信非拝非願という言葉があります。 有瑠慶非信非拝非願 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。  

関連するQ&A

  • ただの思い違い

      無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、人間精神は宇宙の法則から自由であるなどと願ったりするが、本質的にはそれはただの幻想にすぎない。 思い違いだよね。  

  • 思い違い

      無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、人間精神は宇宙の法則から自由であるなどと思い違いをするが、本質的にはそれはただの幻想にすぎない。 思い違いだよね。    

  • まず初めに無ありきってことか

      「色即是空、空即是色、この世の全ては無であり空である。」 我々が日々見たり、聞いたり、味わったり、感じたりするこの世の諸々の出来事は全て錯覚であり、我々がこれら諸々の出来事を単に階層現象表面的に定性化している、まあ簡単にいえば「いい加減」に認識している結果であり、もともとこの世界は無であり空であるとみなす考え方はいかがなものでしょうか。  

  • 神を冒涜する行為

    神が想像上のものであるなら、 神を冒涜する行為を、 人間が勝手に想像することは可能だと思います。 が、もし神が実在していたとするなら、 人間が神を冒涜することなど、不可能だと思え るのですが。(神の視点では) それは、人間がどんな悪さをしたとしても、 所詮は、ひとつの自然現象に過ぎないように思 えるからです。 人間以外の動物が何をしようが自然現象に過ぎ ないのと同じだと思うのです。 自然現象には善も悪もないと思います。 人間は勝手に「自然」と「人工」を区別して考え ますが、神の視点に立てば、全てが「自然」に 過ぎないと思うのですが。 人間のみが「自然」に反逆できる存在だと捉え るのは、ある意味、人間の傲慢さの表れのよう に思えるのですが。 神を冒涜する行為について、思うことを教えて 下さい。

  • 神とはなんでしょう?

    『自然』や『生命』に『神』を思う人あれば 現象に『運命』や『意志』を感じ『神』を見る人あり 『ラブラスの魔』のごとき『神』を幻想する人もあり 『集合的無意識』の中に『神』を見いだす人もあり 『神』といってもいろいろあります 『神』とはなんでしょう? 有神論の方は『神とは現象に対してどのような存在なのでしょう?』 無神論の方は『人間はなぜ神を幻想してしまうのでしょう?』 という質問として受け取ってください

  • 神は与えられるものではなく、自ら生み出すものである

      もしも神が人の心の中に宿うものであるなら、それは既成のものとして与えられるものではなく自ら生み出すものである。 この意味においてあらゆる既成の宗教に登場する神、聖書やコーランなどの経典に書かれた神は与えられた神であり、真に人の心に宿う神とは言えないのではないか。  

  • 脳内断裂の世界

      かつて、あるブータン帰りの人が言うた。 宇宙は存在しない。 無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象 表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、 「無いとは分からないことが有」であって、本質的には存在しない。 彼は真理を探求しよーとブータンに行ったが、そこで得られたもんは真理ではのーて脳内神経断裂の世界やった。 ブータンは良質のアヘンを生み出すが、それは真理の探究の道具としては良質ではなかった。 その地にて彼の脳内神経は完全に断裂した。 脳内断裂した彼はその後、ビッグバン、ビッグバンとつぶやくよーになった。  

  • 神に抗え

    神が人間を作り出したのは、自分を崇拝させるため。 自分の光を強めるため。 そのために我々は苦しみを与えられ無力を感じ、 神様助けてくださいと言わざるを得ない状況に陥れられているのだ。 われわれは神を賛美するための奴隷で良いのか。 何故自分の意思で生きようとしないのか。 自分を崇める者に永遠の命を与え、 崇めない者に不幸を与える。 そんな存在の操り人形で良いのか。 神を超え、新たなる高次元の存在として君臨し、 世界を導くべきは我々ではないか。 神の意志に抗い運命に抵抗すること。 神が人に与えた苦痛、恐怖、絶望を乗り越えるのだ。 それが真の自立であり生き残る手段である。 そのとき人類は新たなる高次元生命体として地上を永久に支配する。 そう思いませんか。

  • 神様とは・・・

    神様とはすごいです。 上手に人間をお造りになったと思ってしまいます。 私は生まれも裕福で、お金にも困ったことがありません。 仕事をしても営業成績はトップです。 別に仕事をがんばったわけでもないです。 むしろいい加減に仕事をしています。 昔からくじ運も強いしお金もよく拾ったりします。 営業を必死でがんばっている人と代わってあげたいくらいです。いやそんな人に対して申し訳なくなってきますし、お金に困っている人などもほっとけなかったりするので助けてあげたり、募金に協力したりしています。 しかし!! 恋愛だけはてんでダメなのです。 神様は上手に人を作ったんだなぁ~と思いました。 私は金運や仕事運などより、愛情運を高めたいです。 恋愛してもいつも一人相撲なので、なんとかならないのでしょうか?

  • 『善の研究』における神の概念

    西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。 この第二編は「真の実在」を規定する部分です。 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章) 意識現象は、刻々と移りゆくものである。 その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。 この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。 「神」が出てくるのは、そうした流れです。 「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 さらにこの神は 「この点より見て神は無である」 「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」 という存在でもあります。 西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。 すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。