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神とは「悪」なのか?

shift-2007の回答

  • shift-2007
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回答No.2

参考にしてください。 http://okwave.jp/qa/q8718784.html

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 性善説、また性悪説というのもやはり人の概念ですよね。 リンク先は回答数が多いのでのちにじっくり読ませていただきます。

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  • 悪は 善と同じように存在していますか?

     1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。  2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。  3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。  4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。  5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか?  6. 回答は ふたつに分かれると思います。   6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。     6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。  どうでしょう。  

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 「正義」「悪」とは一体何ぞや? ‐ 神様、現実って?!

    川崎で万引き少年が、店主に警察へ通報され、逃走途中に事故死。 店は愚民からの嫌がらせによって閉店しております。 私は、この事件がきっかけで、「正義」と「悪」について 考えるようになりました。 先ほど、男女逆差別を危惧する方の質問に回答しました。 そこで、私は偽善者の話をしてきた訳ですが、 質問内容とは直接関係ないものの、 書きながら、どうも人間には、「善」を好む性質もある一方、 あえて「悪」に向かおうとする、性質があるのではないか、 と思いました。 さて、 【質問1】 皆さんにとって、「正義」「悪」とは何ですか? 【質問2】 絶対的な「正義」「悪」は存在すると思いますか? 【質問3】 生まれつき「悪い人間」というのは、存在すると思いますか? 【質問4】 昔、アメリカで多重人格症であるという理由で、 殺人を犯した男性が無罪になったようです。 殺人を犯した人格以外の人格を、尊重するという考えのようです。 (多重人格者は、他の人格でいる時の記憶がないそうな。) 詳細は知りませんが、皆さんはこのような判決について、 どう思われますか? 【質問5】 中学生のころ、学校の漢文の授業で、 「自分が、蝶になった夢を見ている人間なのか、  人間になった夢を見ている蝶なのか、わからない。  (人間と蝶の、どちらが本当の自分かわからない。)」 という内容の漢文が出てきたのを思い出しました。 皆さんにとって「現実」とは何ですか? また、「真実」とは何ですか? 【質問6】 よく宗教信仰者などで、 「悪いことをすると、神様が天罰を下す。」などという人がいます。 “神様”という言葉を使う人をどう思いますか? 【質問7】 あなたが死んだ瞬間、「正義」と「悪」は、 “この世から”消滅すると思いますか? 「悪」も必要だから、この世に存在するという人がいました。 正義・悪の区別は、人間が勝手につけたものだとしても、 「二つの相反する力が、引っ張り合っている」のは確かな気がします。 正義感が強い人間ばかりを集めて一つの社会を作っても、 その中から、悪の“補欠候補”が順番に悪人に姿を変えて、 結局は、全体のバランスはほぼ同一になると思います。 仮に、何らかの理由で、どちらかが大幅に偏った社会集団は、 天秤が壊れて倒れるように、 結局はこの世から姿を消す運命になるような気がします。 ただ、私もやはり絶対的な「正義」と「悪」が存在するかは、 かなり疑問です。 だいぶ前、猫ちゃんと一緒に遊びました。 猫ちゃんには、どうやら人間が言う正義・悪は関係ないようなんです。 (当たり前だと、言われるかもしれませんが。) 同じ空間にいても、猫ちゃんと自分が見ている世界は違います。 脳や目の構造が違います。 人間同士でも、視力も違えば、気質も違う、見ている世界は、 個人ごとに少しずつ違うはずです。 当然、「正義」「悪」にも、感覚にズレがあるはずです。 教育によって授かった知識は、同じなので共通部分も多いが、 脳の構造に起因する感覚には、多少ズレがありそうです。 上の漢文の話ですが、現実世界=自分の知覚するもの、でしかない、 即ち、自分という主体が主観的に捉えるものが全て、と考えると、 夢もまた、ある意味、現実なのかも知れません。 真実(第1義的世界)は一つしかなかったとしても、 現実(第2義的世界)は人格の数だけあると考えることも 出来るような気がします。 この、第1義的世界を(もしそんなものが存在するとすればですが)、 人間は客観的にそれ見ることは出来ないことになります。 自分もその世界の一部だから。 キリシタンの中には、神様という言葉を使って、 人間の外に、そういう人格がいて、「悪」人に制裁を課すような 言い方をする人がいますが、 神=真実を司るもの とすると、 正確には、自分も神の中にいる、というのが正確な気がします。 上で言う、第1義的世界です。 人は、自分が作った第2義的世界に生きながら、 客観的に捉えることの出来ない、第1義的世界で 互いに影響を及ぼし合っている、 そう考えることも出来ないでしょうか? (言葉の表現が下手でごめんなさい。ちょっとわかりにくいですね。) 皆さんはどう思われますか?

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。