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キリスト教徒は何を思い、オーマイゴッドと言うのか

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.8

 こんにちは。  要するに ひとが《わが神》と呼ぶとき 聖書にもとづく場合とたとえば日本人の場合とで どう同じでどう違うか? これを問うていると読み取って回答します。  1. いわゆるオシエを前面にそして全面に押し立てて しかもおかしいことに(つまり オシエは考えるものなのにそれを無条件に受け入れるという意味での信じるの対象にするから おかしいことに) わが神を信じますと言ったりする。こういうシュウキョウの中にいてその風潮やクウキに拠って(また 酔っぱらって)思考し行動する場合の《わが神》とは ただの言葉です。観念です。人間の想像の産物としての神です。あほんだら教です。  2. それでも一たん緩急あらば――つまり 困ったときの神頼みというような現金な心の状態であっても そのような危急な場合には―― わが神よと祈ったり願ったりするそのような心にも 普遍真理としての神は こたえてくれると思います。あるいは 何も助けには成らないとしても チカラを与えてくれます。元気にもしてくれない場合には 何がしかのさとりを得させてくれます。あぁ 世の中は こうしたもんなんだと分かるようになる。  3. ということは シュウキョウのインチキなる観念神でなければ どの神も――名は違っていても・あるいは多神教だろうが一神教だろうが―― 同じです。人類にとってひとつの(そして一つというのは 全体という意味でもあります)神です。真理です。真理というものは 一般に愛です。というのは 世の中のことを知るようにさせてくれるなら ひとはそのとき世界とそしてわれ自身と和解するようになる。和解が成れば こころはすがすがしくなる。そういう意味で 自由になる。この自由を見させる真理は 愛です。  4. 十字架の神は こういった普遍性としての神を指し示しました。何ら違いはないと。名前が違うだけだと。もしほかの信仰の神が そういうことを知らせなかったとすれば それは ちょっとおねんねだったのだと考えられます。つまり キリスト・イエスだけが ひとつの真理・ひとつの神のことを  むしろ身体で指し示した。と考えられます。もっとも 真理に到るのは いろんな道があるが 最終的にたどりつくのは いづれも同じひとつの真理であり神のもとであると 素朴に日本人が先祖伝来の信仰において思っているとすれば すでにキリスト・イエスの伝えたことを知っていた。ことになります。  5. アメリカ人は・つまり欧米かといわれる人たちは このようなシンプルな真理にはなお抵抗があるのではないでしょうか。多少ともクリスマス・ツリーのごときカザリがついていないと たのもしいと思わないのでしょう。まぁ そのようにしつけられて来たのでしょう。ひと言で言えば 阿呆です。ただ一本はだかの樅の木だけでは 頼りないとしか思えないとしたらです。地道にあゆむこと これにまさる神の愛はありません。

Flareon
質問者

お礼

昨日相当酔っ払って質問したので、仮面ライダーやプリキュアのかっこいい文句を忘れていたよ。 そして丸一日質問を気にしなかった。 その割に今回は盛況だね。 ありがとう、趣旨はよくくみ取ってくれている。 貴方だけには、念を押して聖書の引用はやめてくれ、アマテラスさんと比較しないでくれと言いたかったんだが、余計だったね、そのようなあんたの相手の意図をくみ取る理解力は、それだけを取ってみても日常で相当哲学の成果として応用できるん出ないかな。 主文は、言い回しのあんたのくせになれた私からすれば、見解の全容に合意できないところは無い、私が宿題にしてなかった取り組みに気がつくところもあり役に立ったよ。 今回初めて、真理が愛と明言したね。 私は、命という言葉と、愛という言葉の、言葉を分かつ差異はどこにあるのか考え始めたところで、生きると言う行為の真実は練り込めばおおむね説明できるだろうが、西洋の真理の概念がそれとどのように関わるかとっかかりとなる発言だった。

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