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土佐日記について

紀貫之が書いた土佐日記ですが、当時は12月29日までしかなかったのでしょうか? (12月29から1月1に飛んでいたため)

みんなの回答

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1443/3519)
回答No.3

旧暦の月の日にちは月の満ち欠けをもとに決められていましたので、ひと月の日数は29日(小の月)または30日(大の月)で、同じ月でも年ごとに異なりました。土佐日記の記述によりますと、土佐を出発したのは承平4年の12月ですが、この年の12月は小の月で29日までしかありませんでした。 この前後の年の12月をみますと、承平元年:小、同2年:大、同3年:小、同4年:小、同5年:大、同6年:小、同7年:小です。 なお承平4年の12月は当時使われていた西暦(ユリウス暦)では935年の1月8日から2月5日までに相当します。

noname#224207
noname#224207
回答No.2

紀貫之が日記を書いた年がたまたまそうだったのでしょう。 陰暦の場合にはひと月は大の月(30日)小の月(29日)の二種類でした。 しかも毎年その並びが変わりました。 旧暦の月の大小の並び・・・その1 - こよみのページ koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/201202090.htm 注) 現在高島易断などで出版されている暦に使われている旧暦は度々変更が加えられた後のものです。 紀貫之が土佐日記を書いた頃とは若干異なっていますので注意して下さい。 旧暦は一年間の日数が変わりました。 354日であったり384日だったりしました。 現在のように365日で閏年が四年に一回というのではなく、閏月と呼ばれる月をひと月分纏めて付け加えたりつけなかったりしていました。 古文を読まれる場合には閏〇月という表記がよく出てきます。 例えば六月の翌月に閏六月と表記されて現代の感覚で言えば六月が二回あるということになります。 何月に閏月を加えるかは毎年変わっていました。 この暦を決めるのが朝廷の権限でした。 明治になって太陽暦が採用されるまでは一定の計算ルールに基づいて朝廷が決めていました。 江戸幕府も口出しはできませんでした。

  • Saturn5
  • ベストアンサー率45% (2270/4952)
回答No.1

現在の暦は明治6年から使われているもので太陽暦といいます。 1年=365.24日を風習に従って12月に分けたもので、 大の月、小の月も固定されています。 明治5年まで使われていた暦が太陽太陰暦といい、太陽の動きと 月の動きを組み合わせたものです。月の周期は29.53日なので、 大の月が30日、小の月が29日でした。また、月の動きと太陽の 動きは関係がないため、2~3年に1度、閏月を入れて調節して いました。そのため、大の月、小の月は固定せず、12月が30日で 終わることも、29日で終わることもありました。 http://www.ndl.go.jp/koyomi/nazo/01_index.html

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