• 締切済み

土佐日記 紀貫之

藤原のときざねさんと紀貫之さんはどんな関係だったのでしょうか?

みんなの回答

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.2

こんにちは 『土佐日記』の注釈書や、古典全集等の注釈を見ると、「藤原のときざね」について、説明を省いたり、「詳細は不明」とするものが多く見られます。しかし、1/3ほどが「在庁官人か」としています。「在庁官人か」の論拠は確認してはいませんが、下記の筋立てで大筋で間違いはないと思います。 ところで、『土佐日記』で、土佐の大津から船出するまでに、具体的な人名、官職名で表記されたものは4名います。「藤原のときざね」「八木のやすのり」「講師」「(主の)守」です。 「八木のやすのり」は、「この人、国にかならずしもいひつかふものにもあらざなり。」としています。つまり、「この人は、国衙で特に召し使っている者でもないということです。」くらいに訳せます。 「講師」は平安時代時代に、令制国に一名ずつ置かれた僧官で、国分寺の住職。 「主の守」=朝廷から令制国に派遣される国司の長。なお、国司は四等官で、上位から守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四階級に分かれます。なお、『国司補任』では、紀貫之の後任の土佐守を、『外記補任』を根拠として、元・大外記で従五位下の島田公鑑としています。 これらをまとめると、京より下向した新任の土佐守、土佐国の宗教界のトップ、在野ではあるが土佐国の有力者となります。そして、文中の「知る知らぬ送りす。」「上中下、酔ひあきて」「ありとある上下、童まで酔ひ痴れて、」という表現を考えると、前土佐守の紀貫之は、土佐国の全ての階層の人々に惜しまれ、見送られたとする情景を描いた-事実かどうかは別にして-と考えられます。とすると、「藤原のときざね」は何を代表するかです。注目するのは、「八木のやすのり」の身分についてだけ説明があることです。逆に考えれば、官にないのは「八木のやすのり」だけなので特記したと考えられます。そうなるとあと残るのは、土佐国の在庁官人(郡司の可能性もありますが)ということになります。 ところで、新任の守を国境で迎える時の儀式に「境迎(さかいむかえ)」があります。京から下ってきた守は、国境前で、正装・帯剣し、国境内には在庁官人が徒列、まず神宝が入国し、次に守が入国、在庁官人のあいさつを受けることになります。ここにあるのは守・在庁官人・神宝(宗教)の三つになります。 そのように考えると、「藤原のときざね」は在庁官人を代表していたと考えられます。 では、在庁官人とは何かといいますと、ウィキとは少し違いますが、令制国の国衙(国庁。現在の県庁のようなもの)で、収税・警察軍事・雑務などの国衙・国務の実務を分担し、下級役人を監督する国衙の役人。現在の上級地方公務員のような存在で、国守(国司)により任命されました。この内、現地の土豪層の出身者が在庁、中央の官人系統の者が官人とされました。親子など代々在庁官人を受け継いでいくものも多かったとされます。中央から派遣される国司は在国しないことも多く(目代以下の受領の側近が下向することも多かった)、国衙の実務は在庁官人(と目代以下)により運営されていることが多かった。 この在庁官人の任命は国守なので、守と在庁官人は上司と下僚の関係ということができます。貫之と藤原のときざねも同じ関係だっただろうことになります。 なお、在庁でなく、郡司という考え方もできるのですが、郡司は平安時代になると影響力を徐々に失い、在庁官人が令制国の実務の担い手になりますので、在庁の可能性の方が断然高いと思います。 新任の守、在庁官人、僧官、在野の人が揃うことにより、「知る知らぬ送りす。」「上中下、酔ひあきて」「ありとある上下、童まで酔ひ痴れて、」という構成が完結することになります。 在庁官人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%BA%81%E5%AE%98%E4%BA%BA 以上、個人的な論証ですので、参考程度に。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • spring135
  • ベストアンサー率44% (1487/3332)
回答No.1

またですか。

参考URL:
http://www.kotono8.com/history/tosa/09341222.html
全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 土佐日記

    紀貫之は、女のふりをして書きましたが、なぜ女のふりをしたのですか? という宿題がでました。 なぜなのですか?

  • 土佐日記について

    なぜ男である紀貫之は、女が用いる、ひらがなをつかって土佐日記を書いたのですか??

  • 土佐日記について

    紀貫之が書いた土佐日記ですが、当時は12月29日までしかなかったのでしょうか? (12月29から1月1に飛んでいたため)

  • 土佐日記

    土佐日記の紀貫之は、何と言う名前の女性に成りきって作品を書いたのですか?ネット検索でも、探し知れません。教えてください。

  • 土佐日記で・・・。

    土佐日記に、「それの年の十二月の二十日あまり一日の戌の時に、門出す。」という文がありますよね? そこで質問なのですが、なぜ紀貫之はこんな遅い時間に出発したのか教えていただきたいのです。 よろしくお願いします。

  • 紀貫之と紀淑望の関係は?

    こんばんは。 いつもお世話になっています。 古今集仮名序を書いた紀貫之と 真名序を書いた紀淑望の関係について調べています。 ふたりの間には血縁関係はあるのでしょうか。

  • 「土佐日記」とかな文字の普及

    下記の文章は、「大学の日本史」という本の「漢文学の隆盛」という項の1節です。 かな文学の始まりとして名高い紀貫之の『土佐日記』は、土佐国(高知県)の国司であった紀貫之が任期を終えて九三四(承平四)年から翌年にかけて都の平安京に帰る旅路の出来事を、女性が「かな」で日記につづったかのように書いた作品である。当時もその後も男性貴族は漢文で日記を書いていたが、漢字文化をふまえたうえで、かなによって日本語を自然に表現する方向が見出されていったのであった。 お考えを教えていただきたいのは3点です。どれか一つでも構いません。 1 紀貫之は、なぜ「かな」を使おうという気になったと思いますか???私も高校時代、「漢文」は大の苦手でしたが、紀貫之も「漢文」が苦手だったのでしょうか???笑「かな」を混ぜたほうが分かりやすくて、便利が良かったということでしょうか??? 2 現在、私たちは、漢字と仮名を併用して文章を作りますが、「土佐日記」は、現在の日本語を形成する重要な転機になった「作品」だと理解しても良いのでしょうか??? 3 「当時もその後も男性貴族は漢文で日記を書いていた」とあるのですが、朝廷や幕府で、男性も「かな」交じり文を使いだしたのはいつごろからでしょうか???

  • 土佐日記 女性仮託と亡児虚構論

    紀貫之が土佐日記を書くとき、女性に仮託した理由はなんでしょうか? また、それは亡児虚構論と何か関係があるのですか?

  • 土佐日記の「門出」についての質問

    国語の古典で、授業で門出を習いました。 そこで疑問に思ったことを質問させてください。 門出の中で、作者である紀貫之は 「男もすなる日記ときふものを、女もしてみむとてするなり。」 のように、自分を女として文を表現していますよね? 私の考えでは、漢文が関係しているのかと踏んでいます。 何故かわかる方、いらっしゃいましたら教えてください。

  • 紀貫之がひらがなを使ったのは何故?

    紀貫之はなぜ当時では男性が使うのは珍しいひらがなを使ったのですか?