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老子:37章 道は常に無為にして《非知》か
Tefu_Tefuの回答
- Tefu_Tefu
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こんばんは bragelonneさん 「ミイラ取りがミイラになる」を「上善は透明な水のごとし」にすることが哲学の役割だということでしょうか? 老子が言いたいのは、自然界の清流に身を任せて生きなさいと捉えることができるでしょう。 しかしですね、自然と共に生きて行くという事を実践しても未来があるとは思えません。 私は、老子は世界の人達を純粋な心で助けることが必要だと述べているように感じるのです。 例えば、 綺麗な水を誰もが使えるようにするには、田舎暮らしをすることではなく、水を綺麗に濾過することが必要だと思います。 これで、老子の澄んだ心と清流が何の矛盾もなくなれば、哲学は役に立つのでは。
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お礼
お早うございます。てふ_てふさん。ご回答をありがとうございます。 ★ 「ミイラ取りがミイラになる」を「上善は透明な水のごとし」にすることが哲学の役割だということでしょうか? ☆ いえ これは 単なる感想のもんだいです。 ☆☆ (No.4補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ (あ)★ 「ミイラ取りがミイラになる」という諺を思いつきますね。 (い)☆ 水のきれいに透き通った湖を思い浮かべて欲しいものだなあ。 上善は透明な水のごとし。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり(あ)をあなたが思い浮かべたのは わたしが批判しようとして老子を読み そこにむしろ自分(=ぶらじゅろんぬ)の見解に近いところの《非知》の思想を見出した ゆえに《ミイラ取りがミイラになった》ということからでしょう? それに対して いや それも言うなら《上善は透明な水のごとし》と言うごとく《水のきれいに透き通った湖》のようだと言って欲しいなぁと応じたのです。 つまり わたし(=ぶらじゅろんぬ)が 心が澄んでいるので 敵(=老子)の文章を読むときでも 良いほうへ・相手の有利なほうへと解釈するようですねと言って欲しかった。――こういう意味です。 あとは もっともなことをおっしゃっているようですが イヂ汚く言えば 絵に描いた餅ですよね。 ★ 自然界の清流に身を任せて生きなさい ☆ って いったいどうやって実行するのですか? ★ 水を綺麗に濾過することが必要 ☆ 心の水でしょう? どうやって? ★ これで、老子の澄んだ心と清流が何の矛盾もなくなれば、哲学は役に立つのでは。 ☆ だけれどもですね。《清流》が抽象的すぎることはいま措くとすれば 《心》は・つまり人間の心は 《自然無為にのっとるような人為》と《その方程式を逸脱する作為》とがあります。 きびしく言えば 前者の自然の人為にしても これは《ハカラヒ》なのです。つまり《人為》です。 いったいどうやって人為=ハカラヒなる意志行為を 自然と不自然とに分けるのでしょう? (ぶらじゅろんぬ理論では 《やましさ反応》の有る無しで判定します)。 だから老子は 具の入っていない味噌汁だと言っているのです。ゆう(湯 / 言う)だけです。 これをやはりイヂ汚くののしるなら 実際に行動する思想としては インチキなのです。《無為自然》というひとつの理念を言ったまでなのです。 ゴータマのさとりと全く同じです。どこまで皮を剥いて行っても 芯は出来ていません。 苦を解脱した状態が さとりである。苦とは 思うようにならない状態で まださとりに到っていない凡夫のありさまである。といった《玉ねぎ》だけは わるびれず主張するわけです。《思うようになったさとり》とは その人の主観が《生活のすべてが思い通りになっている》と思い込めば 成就したとなるわけです。玉ねぎ説法です。 それと同じです。《無為自然》も。《清流》とは 無為自然である。無為自然とは 水をきれいに濾過した清流である。わが生活のすべては 清流がながれるようになったとその人の主観が思い込めば 道の達人たる聖人だと説く玉ねぎ理論です。 ゴータマ・ブディズムも 老荘のタオイズムも みんなみんな二千年のマボロシです。 目を覚ましたブッダになりましょう。