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昔の大名の石高は

大名や武士の、石高を誰が決めて 何万石を与え.る、と言っていたのでしょうか 例えば徳川家康とか 詳しい方教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.4

>石高を誰が決めて 何万石を与え.る、と言っていたのでしょうか 石高は、時の為政者が収穫量の見込みを調べます。 奈良時代頃は、全国を「下国・中国・上国」と分けていました。 ※収穫が多い豊かな土地(国)は、上国です。 鎌倉・室町では、各地の領主の「自己申告」も存在しました。 ですから、実際の取れ高と石高は差が多かった様です。 そこで、この対策を行ったのが「太閤検地」ですね。 武力を背景に、全国各地の土地を調べ収穫高を算出しました。 江戸時代でも、原則的に太閤検地の結果を踏襲しています。 ですから、「○○藩○万石」と言っても実際の石高ではありません。 「何万石を与える」は、朱印状記載事項ですね。 信長・秀吉時代は、戦場の働きによってその対価を支払った訳です。 ※戦場での失策は、領地没収。^^; 家康が将軍になった時に、全国各地の領主・大名に「一度、領土を幕府に返納」させ新たに「○万石を与えるとの朱印状」を与えています。 ※領主・大名が死亡すると、幕府が認めた後継者に新たに朱印状を与えた。 ※幕府が後継者と認めなかった場合は、お家断絶+領土没収。 家光以降は、幕閣(老中など)の進言によって将軍が「同意」する事で朱印状を与えています。 添付画像は、福井藩主松平重富に与えられた領知目録です。

nsmz32722
質問者

お礼

党もありがとうございました とても勉強なりました。

その他の回答 (3)

  • IXTYS
  • ベストアンサー率30% (965/3197)
回答No.3

こんにちは。  石高は秀吉が行った太閤検地がベースになっています。 しかし江戸時代に入り、各藩が新田開発を積極的に行っています。 特に八代将軍吉宗は新田の開発と特産品の開発を各藩に奨励し、産業が大きく発展しています。 倒幕の主体となったのは薩摩藩と長州藩です、 石高はそれぞれ77万石と29万石です。 しかし両藩とも海外との交易(密貿易)で財をなしており、幕府から睨まれています。 特に薩摩藩は琉球との三角貿易で膨大な蓄財をしており、幕府は密偵を送り、これを探り出そうと躍起になります。 これに対抗するため、薩摩藩は意識的に薩摩弁を複雑怪奇にしてよそ者の侵入を辺境で察知し、そこで殺害しています。 一般に外様大名は石高が高く、親藩、譜代は低めです。 これは石高に応じて費用負担を定めていたことに拠ります。  米の石高でその藩の経済力を評価するのは典型的な重農主義の考え方です。 しかし、江戸時代中期以降、各藩に特産物が開発され、海路を使って日本各地に販売される膨大なチャンネルが確立します。 こうなると経済は重商主義に大きくかじ取りがなされます。 幕府も田沼意次の時代に海外貿易を振興し、幕府経済の再建を図りますが失敗。 しかし、九州、中国地方の強力外様大名は積極的に重商主義政策に転換します。  黒船来航以降、明治維新に至る道筋を見ると海外との交易に積極的だった薩摩、長州両藩が連合を組んだ時点で『勝負あった。』  徳川幕府は滅ぶべくして滅んで行ったのです。  時代を見る目を持っている人間がいつでも時代を先取りしているのです。  

nsmz32722
質問者

お礼

どうも有り難うございました、大変勉強になりました

回答No.2

石高そのものは国によって違うのはご存知ですよね 例えば 尾張(愛知)だと55万石…と言う様に 大名が支配している国を家臣に与える時は 大名自身が決めていたと思います

nsmz32722
質問者

お礼

どうも有り難うございました とても勉強になりました。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.1

太閤検地が有名ですが、時の権力者が石高を調査して支配体制の参考にしているのです。徳川吉宗も大規模な検地を行なっています。時代が進み各藩の開墾が進んで幕府が把握している石高と現状の石高に齟齬が起きていたのです。大名は自らの藩内の現状の石高は把握していたはずです。それを幕府に調べられるのは嫌だったと思います。それができるには強い支配力が必要なのです。石高はまさに各藩の経済力です。その経済力に応じて、江戸の普請なとの負担をさせていたのです。

nsmz32722
質問者

お礼

どうもありがとうございました。大変勉強になりました。

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