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江戸時代の石高制について(篤姫)

江戸時代の石高制について教えてください。 今、BSで再放送されている大河ドラマ「篤姫」を見ております。無血開城後、 徳川家は新政府から駿府で70万石との沙汰を受けたとのドラマの展開です。 ドラマですので言い渡された「70万石」は正確には諸説あるのでしょうが、そんなに 大差はないと思いますが、知りたいのは徳川家が最も繁栄した時代に石高はどれ ほどだったのでしょうか? また大政奉還した(篤姫で言う「無血開城」した)直後はどれほどの石高だったのでしょうか? あと根本的な質問ですが、石高とはそもそもどのようなものでしょうか? 色々調べると「人間が一年間に食べる米の量を基準に設定されたもの」と書いてあり約150kg。 「1石=10斗=100升=1,000合」との記述もありました。 そもそも「加賀100万石」「島津77万石」などと時代劇や書籍で出てきますが、これらは その藩の米の生産量を表しているのか、又はその藩の人的な規模やその藩の穀物など の生産性を表しているのでしょうか? それとも今で言う「各都道府県の税収や人口規模」、「世界におけるGNP」などと同じ意味 合いなのでしょうか? 加賀100万石というのは「米などにそれだけの生産性がある=藩に入るお金が多い=人口も 多く兵力もある」という事なのか、ただ単に本当に米の生産量のみを表して、その藩の力 (権力の大きさ)などはまた別なのでしょうか? ドラマでは「70万石」に減らされたことで、徳川家が食べて行けず大騒ぎしている様子が描か れていますが、これは今までの徳川家の規模(人口)のまま米の生産量が低くなると食べてい けなくものが出てくるという事と共に、その分藩の人口も減らされる(自然と減ってしまう)という 事でしょうか? 一般的にいう「石高」と時代劇などでいう「石高」は違うものと考える方が正確なのでしょうか? 無知で恥ずかしいのですがお教えください。 よろしくお願い致します。

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  • m-jiro
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.4

> あと根本的な質問ですが、石高とはそもそもどのようなものでしょうか? 田、畑、屋敷の面積とその良否から計算します。田で説明すると、 1枚1枚の田の面積を測り、次に良否を判定。良否は一般に5段階が多く、各評価には「石盛(こくもり)」という数値が 上田=2石 中田=1石8斗 下田=1石5斗 下下田=1石 荒田=8斗 のように決まっています。ランクの名称や石盛の数値は村ごとに違います。 これが決まると、面積×石盛 を計算します。これがその田の「高(たか)」です。 畑も同様ですが、石盛は田の半分程度、屋敷は一般に良否ランクがなく上田の石盛と同じです。 ひとりの人が所有する全ての田、畑、屋敷の高を合計したものがその人の持高です。 ひとつの村の高を全部合計したものがその村の村高です。 領有する地域の高を合計したものが知行高です。「加賀100万石」などと言うのはこの数値です。この数値はピッタリ100万ではなく、1合以下の細かい単位まで計算しています。 高は江戸初期(大名などが封ぜられた時)に決まりました。だいたい当時の米の生産量に近いと思われますが、豊凶の差が大きかったので数年間の平均値を基に算出されたと思われます。そしてこの数値は幕末まで変りません。農業技術の進歩や新田開発で米の生産は増えたはずで、修正された数値が実高とか内高といわれる数値です。 高に免という数値を掛けたものが年貢です。江戸時代の年貢は4割だった(免が4割=四公六民のこと)とよくいわれますが、これは高に対する割合で、農家の収入に対する割合ではありません。当時の年貢は現代風に言えば固定資産税で所得税ではありません。実際の米の生産量からいえば2割程度だったと思われます。冬にも麦などの生産があるし、商品価値の高い綿や菜種なども作りましたから割合はもっと下がり10~15%程度だったと思われます。 石高は武士の格式を表します。石高によって常備しておく武力が決まっていました。参勤交代で多くの家臣を連れているのはこの人数です。いつでも戦争ができる体制で行進していたわけです。また石高によって就ける役職も決まっており、城中で座る場所も違っていました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

石高 軍事政権である豊臣政権においての軍役の決定方法です。 農業が国の基幹産業で、生産性のケタ違いの差はないという実情から 都道府県別の税収≒人口規模≒GNP みたいな感じになります。 加賀100万石というときは、100万石に見合った軍役を出せということになり、参勤交代は軍役の一種であるので、参勤交代の人数もコレでほぼ決まってきます。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.2

江戸時代の経済は、「米本位制」をとっていました。金本位制というのがありますね。ドルはいつでも金に換金できるという制度です。だから、この場合は金の価格にドルが引きずられるということになります。 江戸時代はこれが米でした。原則的に武士への給与は米で現物支給されます。武士とその家族とおつきの者なんかはもらった米でまず自分たちが食べる分を確保し、余った分を米屋に売って換金しそのお金で他に必要なものを買いました。現代の社会なら、給料は円で支払われますがお買い物なんかはドルでやらなければならないというのと同じです。 現代社会でも円相場が上がったり下がったりすると海外旅行で使えるお金が増えたり減ったり、企業なら利益が増えたり減ったりしますよね。それと同じで、米の値段も変動しました。なんと現代と同じく米相場というのがあってそこで商人が取引していたのです。 ですから米の値段が下がれば武士や大名が所有している資産が減るということになりますし、米の値段が上がれば資産が増えることになります。武士の立場からすれば米が高止まりするのが理想ですが、そうなると農民でも武士でもない町人なんかは非常に困ります。 この米相場をどうするかが幕府の経済政策として江戸時代を通じて幕府を悩ませた問題でした。幕府はしばしば米相場に介入しました。介入といっても日銀がドルを売ったり買ったりするみたいに米を売買するのではなく、「米の値段をこれ以上上げるのはまかりならん」などと命じたのです。でも商人もはいそうですかと従うわけにもいかないので思い通りにはいきません。 各大名の石高は#1さんの回答の通り。江戸時代の大名には石高に応じた「格」というのがありました。五十万石の大名であればそれにふさわしい大名行列や服装などが求められたのです。ということで、大名の石高というのは名目なんですね。例えば蝦夷地(北海道)の松前藩は一万石の大名となっていますが、当時の蝦夷地では米は作れませんでした。だから、実際はゼロ万石なんですが大名の格付が一万石ということです。しかし、実際の松前藩は昆布や鰯(ほしかという肥料になりました)、鰊などの海産物を生産していたので一万石どころかもっと稼いでいました。実際、幕末には三万石に格上げされています。 一方、貧乏な藩でも名目上の格は保たねばならないので何十万石の大藩となれば出費もそれだけ大きくなり、藩の財政を圧迫します。米沢藩がその典型で、あの上杉鷹山のときはあまりに借金が多くて「藩を幕府に返納しよう」つまり破産しようというところまで追い詰められました。 上杉鷹山は変動相場の影響を受けやすい米だけじゃなくて、漆などの直接現金収入が得られる産業を奨励し、大変な苦労をして借金を返します。また、薩摩藩は琉球を属国として持っていたので琉球を通じた密貿易で莫大な利益をあげていました。しかし薩摩藩は時々蘭癖(西洋狂い)の君主が出てきて外国製品を買いまくって藩の財政を悪化させています。 さて、もし大名が配置換えなどで石高が減ったらどうなるでしょう?武士はかつての日本企業と同じで終身雇用制です。終身どころか息子が家を継げば代々雇用されます。雇用が失われるのは、何か問題を起こしてクビになるか、自ら退職して帰農するかです。 というわけで、社員の数は減らないのに会社の収入は減るわけですから、あとは給料を下げるしかありません。映画「たそがれ清兵衛」なんかでド貧乏な武士が出てくるのはそういうわけです。たそがれ清兵衛では主人公はド貧乏なのに中間(おつきの者)がいます。彼の家はそういう格なのです。いくら貧乏でも中間を解雇するのは許されません。「武士は食わねど高楊枝」とはこういうことなのですよ。 七十万石に減らされることがどれだけ衝撃的なことなのかがご理解いただけたら幸いです。 なお、大奥は将軍の夜のお相手をする女性でも30歳になったらもう将軍様とのセックスは禁止です。また他の女性たちは将軍どころか男と関係を持つこと自体が禁止。それだけ厳しい禁欲的な生活を強いられるので多少の贅沢は多めに見られていましたし、引退後の年金は充実していました。そりゃそうですよね。そこまでやったんだから生涯面倒見てくれないと。 しかしそのため大奥の出費が非常にバカにならず、予算を減らそうという老中と大奥側がしばしば対立しています。そういう背景も考えながらドラマを見ると楽しみにもまた深みが出てくるのではないでしょうか。

noname#131166
noname#131166
回答No.1

通常の大名の石高は家臣の石高を加えるので、幕府の石高をどうするかは異論がありますが、直轄領が最大に達したのは8代将軍吉宗の晩年の延享年間で、463万石になります。 http://www.e-obs.com/heo/heodata/n507.htm これに家臣である旗本がおおざっぱに300万石、大名への貸地が100万石で、通称800万石と称していました。 石高とは米の生産量で、ここから領主が半分ほどを取り、これを商人に売って現金を得る仕組みです。 この石高にも格式を表す表高と、実際の石高を表す内高があり、大名は表高で参勤交代の人数やお付き合いをするため、内高が表高より多い藩は豊ですが、水戸藩などこの逆の大名は貧乏でした。 薩摩も77万石と称しながら、実際は半分ほどの石高のため貧しい藩で、琉球貿易などで持ち直した藩です。 石高は米を生産できる土地を支配しているという事で、実際には副業をしていることが多く、幕府は金山銀山を持っていましたし、先に挙げた薩摩は琉球貿易、松前藩は北海道など。

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