• 締切済み

圏論とヒルベルトの公理主義について

圏論とヒルベルト公理主義って同じことをやっているのでしょうか。 どちらも、概念の内部構造ではなく、外部との関係によってとくちょうづけていますよね? 両者の違いがいまいちよくわかりません。 ちなみに私は全くの素人です。しかし、今後ちゃんと厳密に数学を記述していきたいと思っているので、どちらの本を読むべきか迷っています。 よろしくお願いします。

みんなの回答

noname#221368
noname#221368
回答No.1

 圏論は個別の数学理論、つまり技術です。対して公理主義は思想です。なので同じ事をやっているのか?という問いそのものが、まず無意味です。そこはまず最初にわかって下さい。  圏論はもちろん公理主義的方法を用います。しかし圏論には公理主義の思想とは別の思想的背景があります。にも関わらずなぜ圏論が公理主義的方法を用いるかというと、そこには歴史的経緯があります。  ヒルベルトの公理主義は、カントールの提出した技術的に非常に強力な道具=集合論によって、数学を集合論帝国化できるかどうかの問いだったんです。  カントールの無限集合論は確かに矛盾した。しかしその包括的な有用性は抜きん出ている。一つや二つの矛盾のために、それを諦めるのは惜しくないか?。だとすれば、矛盾が起きないように十分注意深く選ばれた公理系の基で、集合論によって記述された数学が無矛盾である事を証明できれば良い。  それが集合論帝国の正当性の証明になる、とヒルベルトは考えました。この考えは普及しました。  考えが普及するという事は、それを実現する技術が開発されるという事でもあります。公理主義の考えは、数学を集合論によって抽象化する技術を開発させました。19世紀以降の数学は、公理論的に組織的で抽象的な抽象数学へと姿を変えていきます。  次いでゲーデルが、集合論帝国の正当性が無い事を、完全性定理に基づいた不完全性定理によって証明します。しかし公理化と抽象化の遺産は残ったんです。  集合論帝国化の思想は破れたとしても、公理化,抽象化された数学は、それ以前のどんな数学体系よりも洗練されスマートでした。そういう状況下で構造主義数学が生まれます。 >どちらも、概念の内部構造ではなく、外部との関係によってとくちょうづけていますよね?  数学の基本要素を、それが属する環境(集合=外部)との関係で特徴づけている、という意味ではそうです。しかしその関係は、概念の内部構造の反映です。というか、集合内に関係として定義された構造が、基本要素を定義すると考えます。しかし構造主義数学では、まだ関係が個体(要素)を定義するとまでは言えません。個体には個体としての意味があり、集合内の関係によって決められた意味が、個体(要素)に付加されるだけです。  圏論も最初は集合を使います。しかし集合を使って写像などを定義し終わると、「恒等写像を個体と呼ぼう」という過激(?)な定義が現れます。これをもって集合の要素は「恒等写像」と同値になり、恒等写像そのものを集合の要素のようにみなして議論を進める事が可能になります。  つまり圏論は、関係(写像,関数)の束しか扱いません。その意味で、最も構造主義的な数学なのかも知れません。  圏論は既存数学との相性のために、最初に集合に基づいた写像を定義し、それを個体写像の定義によって「再抽象」して集合論の土台を投げ捨てます。  圏論は関係しか扱わない。個体写像(関係)を要素と呼びたいなら「そう呼べばいいべや」・・・、という訳です。でもこの過程は、とってもわかりにくい。  それで思う訳です。 >ちなみに私は全くの素人です。しかし、今後ちゃんと厳密に数学を記述していきたいと思っているので、どちらの本を読むべきか迷っています。  読むのはとめません。ただし「今後ちゃんと厳密に数学を記述」したいなら、ヒルベルトでもなく圏論でもなく、普通の数学書を読んで下さい。  現在の普通の数学書は、両方の事を考慮してます(全部ではないが)。そして数学において、練習と技術の占める割合は非常に大きいです。思想なんか、技術が出来てから語りな、なんて事にもなります。  なんか誤解してる気がしたんです。圏論とかヒルベルト公理主義なんかの本質がわかったとしても、数学が嘘のようにわかるなんて事は、あり得ませんよ(^^;)。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう