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ヒルベルトの点・直線・平面の定義の仕方とは?
- ヒルベルトは、点・直線・平面を直接的な定義ではなく、公理系の中でそれらが満たすべき条件によって間接的に定義する方法を提唱した。
- 彼は、点・直線・平面という基本的対象と、存在する、の間に、と合同という基本的関係を基本概念と考え、それらに直接的な定義を与えず、公理系の中でそれらが満たすべき条件によって間接的に定義されていると見なした。
- この定義方法は、点・直線・平面などの基本概念を直接的に定義する必要がない「無定義用語」となり、それらの基本概念が公理系において満たすべき定理と一致することが示される。
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#2です。 >ヒルベルトは数学全体を説明出来るような公理群を作ろうとしたが、そのような公理群では矛盾が引き起こされる事がゲーデルによって証明され、矛盾を引き起こさない様に改良された公理群では、数学全体はカバー出来ない。 実質的にはそうなんですけれど、人間は欲張りなので、この公理群は究極まで行ったらきっと矛盾するんだろうなと思いながら、矛盾も起こしやすそうだが結果も沢山出せるであろう強力な公理群を仮定して、経験的に矛盾を起こさないであろう範囲に制限してそれらを使用する傾向にあります。矛盾する事の証明も、ふつうは非常に難しいので。 その代表は公理的集合論、通称ZFC体系と言われる奴です。ZFCには、例えばラッセルの集合のようなものは、自動的に排除できる安全装置が組み込まれています。 ZFCの経験的信頼度ですが、一時ZFCで究極まで行かなくても、つまり普通の数学の活動範囲で矛盾が見つかったという報告があったのですが、結局誰も信じませんでした。後にその証明に誤りがみつかったそうです。 ペアノとの対比ですが、たぶん問題意識の違いじゃないでしょうか。ペアノの目的は時代が時代だったので、「自然数は神が与えた」みたいな説明ではなくて、出来る限り自然で可能な限り普遍的・具体的・論理的な自然数の定義を、あくまで数学によって与える事だったと思います。その目的の手段として、公理化(形式化)の手法が選ばれたんだと思います。 いっぽうヒルベルトは、不変式論の研究を通じて公理化(抽象化)の威力を知っていたので、積極的に数学をいわば無意味化する(形式化する)事に価値を見出した、というところだと思います。
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#1です。だいぶわかりにくかったと思うので。 要するにヒルベルトは、用語の意味なんか考えたらやってられないから、文法のみに基づいて、全ての数学文章(証明)を機械的に正誤判定をできる機構を作りたかった訳です。 その結果は、ある種のプログラムを書くのと同等になりました。もしかしたらPCでプログラムを書いた事があるかも知れませんが、自分の書いたプログラムをコンパイルしたら、大概コンパイラーがエラーを出します。しかしコンパイラー(というよりコンピューター)は考えませんから、一定の手順で文法チェックを行うだけです。ヒルベルトが究極的に目指したのは、そういう文法チェックを、数学の全文章に対して行えるような機構だと言えます。 機械的チェックなので意味も何もない無味乾燥なものですが、それだけにもし可能になったら、誰も文句はつけられません。だって機械的って事は、意味なんかわからなくても、とにかくやりゃ~同じ結果になるって事ですから。 ヒルベルトは想像もしなかったでしょうが、彼のこの発想は、現在のプログラミング言語に成立に、陰ながら多大な影響を与えたはずです。
補足
丁寧な回答大変ありがとうございます。 つまりそれまでの数学の定義が、 A とは Z の事である。 と言う様な公理を作っていたのに対して、 互いに矛盾を引き起こさない幾つかの条件(公理群)に当てはまるものを扱う。それは A でも B でも C でも当てはまれば何でも良い。A, B, C が具体的に何かという事よりも、それらがどの様な定理や構造を作るかを考える(抽象化)。 (ヒルベルトは数学全体を説明出来るような公理群を作ろうとしたが、そのような公理群では矛盾が引き起こされる事がゲーデルによって証明され、矛盾を引き起こさない様に改良された公理群では、数学全体はカバー出来ない。) と言った感じですかね? あと、27ページに「このようなことはペアノの公理系が自然数を定義するだけでなく,未定義な‘次の者’ n′ から‘1 を加える’演算が自然に定義されたことに対比できるでしょう.」と書かれているのが少し悩むのですが。 「対比」というのは「違うものを比較する」といったニュアンスだと思ったのですが、ここでは「未定義な‘次の者’ n′ から‘1 を加える’演算が自然に定義された」事とヒルベルトの考え方の共通性を述べているのでしょうか? 長文かつ質問が多くなってすみません。
話としてなら、高校レベルかそれ以下です。ただヒルベルトが公理主義を唱えたのには背景があって、その背景(目的)は大学レベルの話(でも話)かも知れませんし、目的に関わる具体的作業をやろうとすると、大学学部レベルを越えます。という訳で、自分は具体的作業はできません。 [話として] 事の発端は、カントルが無限集合論を始めた事です。ここで集合とは、何かの集まりと考えてOKです。自然数全体の集合とか、実数の集合とかは、あなとの想像する通りのものです。集合論は数学を行う上で、無視できないくらい非常に強力なツールである事が、その後はっきりします。 ところが無限集合論というか、無限個のものを考えだしたとたん、普通に使っている論理が怪しくなり出しました。数学でも通常は、常識的に使っている普通の論理を忠実に適用していけば、絶対に間違う事はないと考えられます。もし変な結果が出たら、「それはお前がミスしたからだ」と言い切れます。それが数学の価値でもあります。その事を、数学の無矛盾性と言います。 ところが不用意に無限集合論を展開すると、矛盾する結果を「あれよあれよ」と導ける事が明らかになります。一番簡単なパラドックス(矛盾)は、ラッセルのパラドックスです。 例えば自然数の集合Nを考えた時、NはNに部分集合としては含まれますが、要素としては含まれません。その点は、不用意な集合論でも厳密に区別されるからです。実数の集合Rでも、それは同じですよね?。そうすると「自分自身を要素として含まない集合」は、ごくありふれた普通の存在です。 集合論の価値は、何かを集めるという操作を際限なく続けられる点にあります。これがあるために、数学上欠かせない強力なツールになり得ます。なので「「自分自身を要素として含まない集合」の集合」も、場合によってはあり得る訳です。「「自分自身を要素として含まない集合」の集合」をAとします。 Aは、「自分自身を要素として含まない集合」でしょうか?、「自分自身を要素として含む集合」でしょうか?。やってみるまでわかりませんが、でもどちらかであるはずです(←普通の論理)。 Aは「自分自身を要素として含まない集合」だとします。そうするとAは「「自分自身を要素として含まない集合」の集合」なので、Aは「自分自身を要素として含む」事になり、「自分自身を要素として含む集合」でもある事になります。これは矛盾です。 Aを「自分自身を要素として含む集合」だとします。そうするとAは「「自分自身を要素として含まない集合」の集合」なので、Aは「自分自身を要素として含まない」事になり、「自分自身を要素として含まない集合」でもある事になります。これは矛盾です。 ↑は、ちょっと鬱陶しかったと思いますが、上のような議論はけっこう簡単に出来るんです。「「自分自身を要素として含まない集合」の集合」Aは、大き過ぎる無限集合として知られており、現在では集合の仲間には入れない事にしています。 しかしヒルベルトの当時、「数学は絶対に嘘つかない」という信念があったので、別の方向へ行きました。上のような事態に出くわすと、数学の無矛盾性が疑われます。そこで彼は、数学の無矛盾性を、なんとかして(数学で)証明しようと決意します。 無限集合が手に負えないのは、無限なのでその全てを見渡せない事にあります。そして良く考えてみると、我々が使っている論理は、有限個のものしか対象にしていません。無限個なんて誰も見た事ないからです。何故なら、全部見れたら有限だからです。 そこでヒルベルトが注目したのは、具体的な証明作業でした。具体的な証明作業は、絶対に有限の行数で終わります。そうでなかったら、証明は永遠に完了しないからです。 さらに証明の具体的な手順とは、次のようなものです。例えば記号 // は「平行」を表すものとします。 ・直線1と直線2が//で、直線2と直線3が//なら、直線1と直線3は//. 上記はこうも表せます。直線は普通、Lineの頭文字Lをとって、L1とかL2とか書くので、 ・L1//L2で、L2//L3なら、L1//L3. さらに「なら(ならば)」を記号 ⇒ で表し、「で(かつ)」を記号 ∧ で表す事にします。 ・((L1//L2)∧(L2//L3))⇒(L1//L3). (1) 上記において、記号の意味なんかいるでしょうか?。対象L1,L2,L3と、∧と⇒が、妥当な順序で並んでいる事さえ確認できれば、証明は正しいと判定できます。しかし特殊関係//については、そうは言えません。しかし例えば、「//は(1)のようにしか使わない」と最初に決めておけば、完全に記号の意味を忘れる事が出来ます。そしてここまで来れば、 ・((T//C)∧(C//H))⇒(T//H). (2) でも良くなります。数学では普通、基本論理として次の4つの公理が使われます。「または」を記号 ∨ で表します。A,Bなどは、ある任意の関係です(L1//L2のような)。 a)A⇒(A∨B) b)(A∨A)⇒A c)(A∨B)⇒(B∨A) d)(A⇒B)⇒((C⇒A)⇒(C⇒B)) これら4つの公理と、数学における特殊関係を、全部(1)や(2)のような形でリストアップしておき、それらを互いに組み合わせ、また互いに代入し合い、可能な全ての関係を導いてやっても、常に「妥当な記号並び」になっていて、矛盾が発見されなければ、数学の無矛盾性が証明された事になります。 途方もない話に聞こえますが、考えてみれば、原理的には具体的に実行可能です。またヒルベルトは、どんな証明もそれがただしければ有限行で終わる、という強い信念を持っていたので、上記のような事を目論みました。こうして彼は、公理主義を強力に推し進めました。 で、上記の作業はじつは、アプリケーションのプログラムを書く作業と同じなんですよ。だから現在であれば、絶対にコンピューターにやらせます。プログラムは意味を何も考えなくても実行可能だからこそ、コンピューターでも出来るんです。 ヒルベルト・プログラムは、ゲーデルによって「それは不可能だ」と止めを刺されますが、公理化の努力は、思わぬ方向へ開花します。 (1)や(2)でT,C,Hが何でも良いという事は、(1)や(2)は対象に束縛されないという事です。直線に限らず、どこにでも応用可能な理論だという事になります。この方向を抽象化といいます。 一つの例は線形代数です。線形代数は本来、ベクトル(と行列)の正式理論で、12個の公理を持ちますが、その12個の公理をじつは関数が満たすんです。つまり関数は、ベクトルとして扱える事になります。ここから関数空間の理論が生まれ、今では意識もしない形であらゆる分野で使われています。 公理化は、公理化(抽象化)という構図の中で、現在数学の一部になっています。
お礼
なるほど 。抽象化の話や、ZFC体系の話など、大変勉強になりました。 3度に渡って丁寧な説明をしていただき、本当にありがとうございました。