• ベストアンサー

都市国家と神殿の関係について教えてください

0fool0の回答

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.4

お礼ありがとうございます。 古代ギリシャは古代ローマ支配以前の歴史を指すもので、国家の名称ではなく、文明の総称で、文化圏の事を指します。 古代ギリシャでは帝国と呼べる有名なモノの一つにアレクサンドロス時代のマケドニア帝国がありますが、一代のみであり、また遠征中に王が没してしまいます。 また、各都市の兵士達も「各都市の兵」であり、「各都市の市民」である為、統制が取れない状態であり、定義にもよりますが、統一国家とは扱わない事が普通です。 都市国家という分類は、一つ一つの都市が独自に軍事・経済を保持・運営している状態で、それぞれの都市が並立している事で、都市間での戦争もあります。 つまり一つの都市が、一つの国家を形成している様に見えるので、都市国家と呼ぶわけです。 統一国家と言うのは、中央に政治・軍事が集中している為、各都市においては軍備が無い場合も有りますし、自治権は大きく制限されています。 「神に祈っても~」、の件は、ちょっと筆が滑ってしまいまして、そもそもが政治・統治システムの話で、都市国家とはイコールではない話でした。 古代ギリシャでは政治は「市民」による投票を重視した、「民主制」でしたので、神権政治の話は古代ギリシャでは当て嵌まりません。 神権政治の典型的な都市国家は、マヤ・アステカです。 邪馬台国、殷王朝等も神権政治ですが、都市国家かは判らない、もしくは記録が無く判りません。 古代エジプトは神権政治でしたが、既に統一王朝を立てていました。 神権政治への否定のプロセスはケースバイケースですが、多くは生活の維持が難しくなってきた時に「改革」として起きると考えられますが、上記の様に一つ一つ違う為に、一緒くたに語ってしまった私の間違いです。 陳謝いたします。 神権政治の決定的な否定は、インフラの整備、科学技術の進歩、前出の理由等による生活の向上等から、もしくは天災から生活が崩壊して、「神のお告げ」の力が落ちて来た場合に起きます。 次の選択肢は、新しい別の神を迎えるか、神の代弁者を交代するか、神から政治を取り上げるか、です。

colmoschin
質問者

お礼

詳しい説明をありがとうございます なるほど!統一国家と神権政治の話だったのですね ここ2日間は神や宗教の話ばかり分析してました 最後の行にもおっしゃる通り神を信じる事に限界が生じたのか、テクノロジーの発達により神に祈る機会が少なくなったとも言えるわけですね 勉強になります これからも よろしくお願いします

関連するQ&A

  • 古代ギリシャに現代でいう国家という概念はあったか?

    よろしくお願いします。 古代ギリシャではアテネ、スパルタはじめ多数の都市国家がありました。 各都市国家には法律があり、都市国家ごとの文化や慣習もありました。 しかし紀元前500年頃はペルシャ戦役を 都市国家連合軍で戦っています。 当時のアテネ、スパルタはライバル同士であったし その他の都市国家もそれぞれ独立した国家としての形態を成していたと認識していますが、この上のさらにギリシャという国家のもと集結したということでしょうか?? 都市「国家」と呼んでいるけど その上のギリシャという国家もあったということでしょうか? あったなら国境という概念や線引きがあったのか? 国という概念は現代とどう違うのか?

  • 第一人者

    歴史でよく出てくる第一人者制ってどんなものなのでしょうか。 ローマの皇帝は「ローマ市民の第一人者」ですし、イスラムのカリフは「信徒の第一人者」で、日本の古代の大王(オオキミ)も豪族の第一人者だそうですが、第一人者制がどういう仕組みの支配なのか良く分かりません。 武力・財力による専制・封建的な権力でなく、多数選挙の民主的な権力でもない、「権威による支配」というものが良く分かりません。権威=第一人者の権力・強制力というのはどういう理屈・仕組みで発生し行われるものなのでしょうか。分かりやすく教えていただけると嬉しいです。

  • (西欧の教会と国家)権力の分散と自由の発達との関係は?

    サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳「文明の衝突」 神と皇帝、教会と国、宗教の権威と世俗の権威という二重性が、西欧文化に広く行きわたっていた。このように宗教と政治が分離していたのは、ほかにはヒンドゥー文明だけだった。イスラムでは神すなわち皇帝であり、中国や日本では皇帝すなわち神である。正教会では、神は皇帝に従属するパートナーである。教会と国の分離と両者のたび重なる衝突は西欧文明に特徴的で、他の文明にはまったく見られない現象だった。このように権力が分散していたことが西欧における自由の発達にどれほど寄与したかは計り知れないものがある。 さて、お願いです。 著者は、権力が教会と国家とに分散していたことが西欧における自由の発達に寄与したと、あっさり言っています。「権力の分散」と「自由の発達」との因果関係を知りたいです。 教会と国家の力が拮抗していて主導権を争うとすれば、両者が民衆を味方につける必要性から市民の力が大きくなり自由や平等の主張が声高になる、こういう仮説は思いつきます。一方でまた、教会と国家の力が拮抗していて強力であれば民衆は二者の圧迫を受けて忍耐の限界に早く到達するから自由や平等の主張も早い時期に声高になるだろう、こういう正反対の仮説も思い浮かびます。いずれにしても当てずっぽうの思いつきで、休むに似たりです。 人権思想の歴史や宗教改革の経緯に明るい方に著者の論理を代弁して欲しいです。もちろん、民主主義思想が西欧で進化した理由について著者とは見解を異にする説も拒否はしません。 よろしくお願いします。

  • 天皇制が続いてきた根本的理由

    日本では古代より、どんな権力者も実質的な権力は握っても、名目上の権威は天皇に保持させてきました。中には、自ら天皇になろうとした権力者もあったかもしれませんが実現はしませんでした。中国では革命思想のためか何度も朝廷が代わりましたし、フランスでは革命で王政がなくなってしまいました。日本のように、古代から現代まで一系の天皇がその権威を保持し続けた国は珍しいのですか?また、日本の天皇制が中国やフランスのようにならなかったのは、どうしてですか。言い換えれば、なぜ日本以外の国では「今日から俺が新しい王さまだ。神様だ。」ということがまかり通ったのに、日本では通らなかったのですか。日本の風土と関係があるのでしょうか。

  • 「古代イタリア」 と言わないのはなぜ?

    古代国家を表現する時、一般的には 「古代」 + 「国名 (都市名ではなく)」 で表しますよね? たとえば古代中国、古代エジプト、古代日本 ・・・ ところが、どういうわけかイタリアだけは 「古代ローマ」 と表現します。 古代ローマ帝国とか、古代ローマ人、決して 「古代イタリア人」 と言う事はありません。 ローマは首都名のはずです。 近くにあるギリシアではそのまま 「古代ギリシア」 と言います。 決して 「古代アテネ」 とは言わないのに ・・・ なぜですか? もし歴史の試験などで 「古代イタリアでは ・・・」 と書いたら×になるでしょうか?

  • 「日本」という国家の歴史について

    「日本」という国家の歴史について色々と疑問があります。 (1)日本国の歴史は2600年ほどあるといわれます。 神武天皇の即位を元にした皇紀という暦も存在するようですね。 しかし、「国家」という概念が「国民国家」という近代的な概念に由来するものであり、古代に「日本国」という国家意識を持っていた人など皆無であったと思います。 つまり、「日本国」という「国民国家」が成立したのは明治以降の話であって、それを神武天皇にまで話を広げて、「日本国」の歴史は2600年以上あるというのは大変無理のある議論だと思うのですが、どうでしょうか? (2)「日本国」では天皇が断絶することなく続いていた(つまり天皇の連続性)のだから、「日本国」は皇紀1年から続いているという意見があります。 しかし、天皇という地位が存在することと、それが実際に主権を行使していたことは別の話ですよね。 日本史を顧みても、蘇我氏・藤原氏・上皇・武士政権などなど、天皇以外が主権を行使していた時期はいくらでもありました。 鎌倉幕府~江戸幕府末期の武士政権の頃など、天皇は全く政治的権力を行使していなかったといえます。 別の国の例として、神聖ローマ帝国を例に挙げます。 神聖ローマ帝国が正式に解体したのは1806年ですが、実質的には1648年のウェストファリア条約の時点でほぼ解体していました(実際にはもっと前から衰退ぎみでしたが)。 1806年まで続いていたのは形式上の話で、1648年には解体していたといってもよいでしょう。 天皇制も同じ話で、現代まで存続してはいますが、武士政権が成立して以降は権力として死に体なのですから、天皇を主権とする「日本国」は、実質的には武士政権成立の時点で滅亡していたと思います。 明治以降になってからは再び復活したので、天皇を主権とする「日本国」は一時的に復活しましたが、戦後「象徴」になってからは権力としては再び解体しました。 このような理屈から、天皇を主権とする「日本国」は皇紀1年から現代に至るまで存続していたとは到底いえないと思うのですが、どうでしょうか?

  • 「主権」の「定義」について。

    「主権」の定義として百科事典の説明では 「英語sovereigntyの訳語で,政治学,国際法学上の概念であるが,相互に若干の差異がある。政治学的には統治権または国権と同義で,国家がその領土およびその領土内のあらゆる集団や個人を支配する最高絶対の権力で,他のいかなる法的制限にも服さないとされる。また国家の最高意思のあり方としての権力をいい,その権力が何に属するかによって国民主権,君主主権,団体主権などとも呼ばれる。国際法学では国家の基本権のうち最も重要なもので,最高独立にして絶対の国家権力であり,自衛権・生存権・独立権・領土権などはすべて主権の一側面と考えられる。いずれも西欧における近代国家の成立過程で教皇権・王権など中世的権威に対抗する理論として主張され,近代以降の国際社会はそのような主権を有する国家が並存する状態にある。しかし現在の国際社会では種々の国際機構に参加することによって国家主権はなんらかの制限を加えられる傾向にある。」 この文章を読んで2つ疑問があります。 (1)この中で自衛権・生存権・独立権・領土権などはすべて主権の一側面と考えられるとありますが、外交権がなかったり他から何かしらの制限を加えられていたら主権は認められないのですか? (2)「国家がその領土およびその領土内のあらゆる集団や個人を支配する最高絶対の権力で,他のいかなる法的制限にも服さないとされる。」と言いつつ、最後に「しかし現在の国際社会では種々の国際機構に参加することによって国家主権はなんらかの制限を加えられる傾向にある。」とありますが、国際機関から何かしらの制限を加えられている限り、それは最高絶対の権力で他の法的制限に服さないと言う、主権の定義に矛盾した(実際は主権とは言えない)状態なのではないでしょうか?

  • オランダはなぜ17世紀、海上帝国を築けたのですか?

    オランダは国土も狭く、 個人的に歴史的に見ても脆い部分がある国家の イメージがあるのですが、 なぜ17世紀に海上帝国を築き上げることができたのでしょう? 大航海時代のスペイン、ポルトガルのようにローマ・カトリック教会のような なんらしかの大きな後援者がいたからでしょうか?

  • 放射状の市街と碁盤目状の市街

    ヨーロッパの大都市は、王宮や教会を中心に放射状に市街が形成されていると思います。 一方、中国の北京や唐の時代の長安は、碁盤目状の市街です。 なぜ、ヨーロッパでは放射状に市街をつくったのでしょうか。 なぜ、長安市街は碁盤目状につくったのでしょうか。 漠然とした疑問ですが、両者の間にはどのような考え方の違いがあるのでしょうか。 テレビで観ただけですが、アルジェリアにある古代ローマ遺跡では、街路は碁盤目状になっていました。 よろしくお願いします。

  • 古代ローマの凱旋について

    海外で留学で、高校の古代史(Ancient history)の授業で先日、ローマの凱旋(triumphs)について習ったのですが、語学力のせいもあってか先生の話や本だけではわからない所がありました。 ローマの、凱旋、特にコンスタンティヌスのものについて、いくつか質問があるので詳しい方解答お願いします。 『1』 凱旋はいつ行なわれるのか。 というのも、例えばコンスタンティヌスの場合だと312年にミルヴィオ橋でマクセンティウスに打ち勝ち凱旋し、315年にコロッセウム近くにあるコンスタンティヌスの凱旋門が作られたとなっていますが、ミルヴィオ橋は遠くないためすぐローマ市内に凱旋(帰国という意味で)できたのでは・・・ 凱旋のスタートポイントは凱旋門だと聞いたのですが、この場合はどうなんでしょうか。凱旋式が起こなわれた年を調べようとしたのですが調べ不足なのかわかり ませんでした。凱旋式は315年以後に行なわれたのでしょうか、それともスタートポイントが違うのでしょうか。 『2』 凱旋のルート 上にも書いたのですが、凱旋のルートが良くわかりません。 ルートは凱旋門→フォロ・ロマーノ→ユピテル神殿と聞いたのですが、どの道を通っていったのでしょうか? コンスタンティヌスの凱旋門をスタートポイントにするなら直線でフォロ・ロマーノへ向かうとティトゥスの凱旋門にあたると思うのですが、直線ではなく他の道だったのでしょうか?それとも2つ凱旋門をくぐったのでしょうか? 『3』 コンスタンティヌスはユピテル神殿に行ったのか。 コンスタンティヌスは凱旋は行なったが神殿には行かなかったとネットの記事に載っていたんですが、どうなんでしょうか? 他の皇帝と同じように行という記事もあったのですが、どちらなんでしょうか・・・