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都市国家と神殿の関係について教えてください

Nebu3の回答

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  • Nebu3
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回答No.1

 お答えしましょう。 (1) 「都市国家」と現代国家の違い。  都市国家で有名なのは古代ギリシャのポリスですね。このポリスは  明らかに起伏の大きいギリシャの地で経済規模の小さい人々が地形  の区切りで分かたれて自治的な共同体の生活を営み、その共同体の  統治機構としてポリス(小国家)が形成されました。どのポリスも、  多数の奴隷を抱えていて彼等の反乱を鎮圧したり他のポリスと戦う  ためにも市民(奴隷や他国民では無い成人男性)に選ばれた統治者を  市民集会で選びました。現代国家と理念はよく似ていますね。違い  は経済規模でしょう。日本国家全体を統治する政府を国民全員が、  集まって選ぶのは不可能でしょう。直接民主主義と間接民主主義の  違いです。なお古代アジアの「小国家」も概ね似たようなものです。 (2) 古代の都市国家でなぜ神殿や聖職者が有力だった。  これは都市国家に限らず古代は全世界みな同じです。例えば日本の  古代国家である奈良・平安時代の朝廷は政務を行う太政官に並んで  占いや宗教を扱う神祇官が対等にありました。天災や人の運命を、  「神」の意志であるとしか考えられない古代人にとっては神を怒ら  せないように崇めるのは現代の防災工事に似た発想があります。 (3) 中世のキリスト教のローマカトリック教会が何故、権威・権力を  持つのか?   上の(2)の続きになります。奴隷のユダヤ人から生まれたキリスト  教がローマ帝国の国定宗教にされて以後、キリスト教教会は勢力を  延ばして、ヨーロッパ全域が封建主義の領主支配体制になったころ  ローマ教皇がヨーロッパ一番の権力者として宗教権力をたてに君臨、  例えばフランスの国王がローマ教皇に逆らって領地の主張をすれば  キリスト教を破門され、国王は生きて行けなくなります。国王は、  教皇の許しを得るために何日間も雪の降る中戸外で土下座しつづけた  絵が残っています。ヨーロッパ中の人々が信じこまされるとその宗教は  とんでもなく恐ろしいものになります。それぞれの貴族(領主)が治める  荘園(領地)には必ず教会があって領主とならぶ力をもちました。力とは  主に教会用の税金を徴収する権益です。 ※ ローマ教皇なんて大したことない。本当に神っているの?ローマ教皇は  神の代理人?そう人が考え始めるのがルネサンスと宗教改革。以後人々は  科学を尊重する近代思考に。それまで(古代・中世)は神を信じ神と、神の  代理人である聖職者を心から怖れて生きて来た。聖職者を含む権力者は、  この恐怖心を利用して支配しました。  して人々を支配した聖職者を含む権力者

colmoschin
質問者

お礼

回答をありがとうございます 非常に分かりやすいです! 神を怖れていたから聖職者が権力を握ることが出来たのですね 言われてみると単純明快ですね(^^)スッキリしました 地形の区切りにより共同体が分かれてしまった話は参考になりました また、よろしくお願いします

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