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都市国家と神殿の関係について教えてください

noname#224207の回答

noname#224207
noname#224207
回答No.3

>古代では「都市国家」と言われるモノがありますが、 「国家」あるいは「国」という言葉の定義から、歴史学者が命名しました。 国家は、国民、領土、統治者の三者を保有するものことです。 この三つの条件を満足させて宣言すれば、国家なるものの出来上がりです。 現在は、他国の承認が求められています。 かつてのユーゴソラビアは現在はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアとして各々独立した国家である、と宣言しています。 チェコスロバキアもチェコ共和国とスロバキア共和国として各々独立を宣言しています。 台湾を国家として、他国が承認することを、中国共産党が拒絶しています。 朝鮮民主主義人民共和国を大韓民国は国家として認めていません。 韓国にとっては38℃線以北も韓国の領土です。 このために韓国と北朝鮮は現在でも戦争状態です。 休戦協定で戦闘を交えていないだけです。 日本の江戸時代の藩も言葉の定義にしたがえば立派な一つの国家です。 >これは現代の「国家」とはどう違うのでしょうか? 国家という言葉の定義上は違いはありません。 敢えて都市を付けて歴史学者が呼ぶのは、都市が主体で農業や漁業を主体とする地域が極端にすくなかったことに由来します。 ギリシャという名称の国家が成立したのは、1830年です。 それまでは、沢山の都市国家が集積した地方の名称という認識のされかたをしていました。 国という字は元は國です。 口の中に地域の域の右側を書きます。 古代中国では城壁で囲まれた内側が国でした。 中近東にアフガニスタンとかカザフスタンなどと〇〇スタンと付いている国名が多いですが、スタンというのは、彼らが生活している地域という意味で明確な境界を持たない大陸独特の言葉が由来となっています。 人類史的に言えば現在の国家の概念は極めて新しいものです。 >何故、教会が権威・権力を持ってるのですか? キリスト教やイスラム教では、自分たちが信じる唯一絶対なる神の信徒以外は異教徒であって地上から排除されるべきものと看做されています。 キリスト教が言う自由、平等、博愛も、彼らの信じる神の基で保障されるものであって異教徒には適用されません。 この教義に従ってスペイン人は南米のインディオを虐殺殲滅してインカ帝国を滅亡させました。 インディオを虐殺した船乗りたちはみんな敬虔なカトリック教徒でした。 一日の虐殺行為が終われば神に感謝の祈りをささげて眠りにつきました。 ローマ教会が絶対なる権力を持っていた中世には、法皇は神の代理人とされていました。 教会から破門されるということは、この世から放逐された、排除されるべき異教徒とみなされることを意味していました。 いかなる武力を持った王であれ、一たび破門されれば、他の王のみならず家臣、領民からも見放されました。 路頭に迷うことになります。場合によっては命の保証もありませんでした。 現在のキリスト教圏の国ではさすがにここまでの政治権限は認めていません。 教会の宗教的権限は今でも存続しています。 アメリカ大統領も聖書に手をおいて就任を宣言します。教会の祝福を受けます。 イスラム教圏であるイランなどでは、現在も法学者と呼ばれる人のなかで最高位の人が絶対なる権限を持っています。 イラン政府が米国といかなる外交交渉をしてもこの人の承認を得ない限りは実行されません。 宗教改革で謳われた信仰の自由というのは、カトリック教会の定めた儀礼に従うことなく神を崇拝する自由を謳ったものであって、キリスト教以外の宗教を信じる自由を謳ったものではありません。 ルネッサンス以降の科学者も神の摂理をよりよく理解するための手法として科学的手法を開発し発展させただけです。 コペルニクスも地動説学者から反論を受けた際に、神はそのような複雑なルールはお考えになられない、と反論しています。 アインシュタインも確率論者から反論を受けて問い詰められたときに、神はサイコロを振らない、と友人に書き送っています。 全知全能の唯一絶対なるものである神を信奉するキリスト教やイスラム教、ユダヤ教というのは、日本人の感覚とは全くことなる感覚を持っていることをご理解ください。 古代社会においては、病気であれ天災であれ、人間の対応能力を超えた災いは、不可知なものがもたらすものであると考え日本ではこの不可知なものを神と名づけました。 この神に仕え神の声を伝える人を社会的な指導者としました。 学術的にはこれをシャーマンと呼びます。 日本では卑弥呼が有名です。 古代ギリシャでもこれらのシャーマンとしての性格を持った聖職者がいました。 このような性格を持った人を支持する考え方がやがてローマ法皇のような人を生み出しました。 科学が万能でそれ以外の考え方は無価値であるというのは明らかに科学教の信徒です。 欧米の科学者は神の存在も宗教も否定していません。 科学とは別の考え方に基づいたものあると看做して決して粗末には扱いません。

colmoschin
質問者

お礼

回答をありがとうございます 皆さんの知識には驚かされます 特に、ここ2日間は神や宗教のことばかり分析してました 私は聖書と現実を・・・何て言ったかな、カッコいい言葉があるのですが思い出せません(^^) とにかく聖書と現実を照らし合わせて対応させて思考する習慣があるので分析に時間がかかりました 多神教の概念は色々説明できますが唯一神の知識がないので勉強しております アインシュタインの「神はサイコロを振らない」からローマ皇帝シーザーの「サイは投げられた」を思い出しました(笑) これからも よろしくお願いします

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