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都市国家と神殿の関係について教えてください

0fool0の回答

  • 0fool0
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回答No.2

端的に言うと、国家の「規模」ですね。 大きさ的なモノもそうですが、政治システム等も含めて、各地方・地域・集団が統一されていない状態です。 一つの文化圏であったりはしますが、それぞれの都市の自治権が強いというか、統一政権が無い横並びの状態です。 都市国家の次が、一般的には統一国家で、この中でも封建制から中央集権制まで、色々有ります。 そして都市国家の時代は多くは神権政治です。 国や地方・民族によって度合いが違いますので、一概に一括りには出来ませんが、日本人のニュアンス的には邪馬台国の卑弥呼が近いでしょうか?(厳密には日本は古代ギリシャとは違う) 古代エジプトや殷王朝、マヤやアステカで神権政治が強かった理由は様々ですが、科学文明の発達度合いと、交易の範囲の狭さ(インフラ)が理由だと思います。 簡単に言えば、人心が迷信に振り回される度合いです。 この「神」に祈っても打開策が見つからなくなった時に、統一政権が求められる様になります。 >「ローマ教会の権威・権力からの独立」とゆー部分で何故、教会が権威・権力を持ってるのですか? これは時代が全く違い、基督教独特とも言える文化です。 1077年の「カノッサの屈辱」からの話で、この時に教皇派と皇帝派の二元論の思想が決定的に基督教の歴史に刻まれたのです。 この事件の下世話な説明をすると、要は「司教の「任命権」とそれに付随する「徴税権(と言うか収入源)」の取り合いの話です。 この事件が後に教会の権威を補償する事象となり、徐々に教会は強大な権力=経済力を持つ事になります。 ちなみにドイツのビール純粋令は、教会の力を削ぐ事もその一因に数えられているほどです。 更にプロテスタントはイギリス王家が、都合により保護・推奨した教義です。 ・・まぁ、パイの奪い合いです。

colmoschin
質問者

お礼

「お礼」を使ってしまいましたが「補足」の最後の行のところで「基督教」の間違いでした よろしくお願いします

colmoschin
質問者

補足

回答をありがとうございます 早速ですがNo.1の回答者の話を引用すれば「共同体=都市」の統一機構が都市国家であり例えば古代ギリシャのポリスであり、古代ギリシャが統一国家と言う認識でよろしいですか? また重々質問になりますが「神に祈っても打開策が見つからなくなった時に、統一政権が求められる様になる」根拠を教えていただきたいです つまり何故、打開策が見つからないから統一政権が求められるのか、メカニズムが理解できない私です(>_<) 以上の2点について、よろしくお願いします 基督今日については見慣れないキーワードがいくつか出てきたので勉強してみたいと思います

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