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春日局が大名家の婚姻を決めたことがありますか。
三田村鳶魚は維新後、最後の広島藩主・浅野長勲候からいろんな話を聞き出しています。 「春日局は、諸大名の娘を柳営に呼びつけて、それを見て、誰は誰のところという風に命令した。この時分から婚姻は、仰出された婚礼と、願い出による婚礼の二通りになったのだ。」 浅野候は、250年ほど前のことを語っているのですが、春日局にまつわるこんな話が語り継がれてきたことは事実でしょう。 質問ですが、春日局が決めた大名家の婚姻はありましたか。 よろしくお願いします。
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こんにちは。 寛永5年(1628)に豊島刑部刃傷事件が起こり、目付の豊島刑部が、老中井上正就を刺殺し、自らもその場で自害した刃傷事件です。この原因は、井上正就が息子(正利)の結婚相手の斡旋を豊島刑部に依頼し、豊島の奔走で島田直時の娘との婚約がなされたのに、春日局が横合いから別の縁談(鳥居正次の娘)を持ち出し、井上が春日局の話に乗ったことにより、豊島が面目をつぶされたと思ったことによります。 ここに見えるように、春日局の権勢は表の老中を上回るものがあります。これは、家光の将軍相続などに絡み、家光にとって春日局は母親に準じた存在であり、このことが春日局の権勢の源泉になっていて、井上の息子の婚姻に口を挟んだと思います。 ただ、この時期、春日局だけが大名などの婚姻の取り持ちをしたわけではありません。武家諸法度の中に、「一国主・城主・壱万石以上近習并物頭ハ私不可結婚姻事。 附、与公家於結縁辺者、向後達奉行所、可受差図事」とあるように、大名や旗本の幕府主要役職者の婚姻は、幕府(将軍)の許可が必要とされていたため、また、大名の改易(取り潰し)が続いていました。そこで、大名側も対応して大別すると、1、将軍をはじめ幕府有力者に結婚相手の選択を丸投げする。2、大名家側で婚姻相手を選んだとしても、相手との仲介や、幕府への届出等に懇意の旗本を介在させことが行われます。この内1に純粋に依頼がなくとも将軍・幕府から直接仰せ出された婚姻を含め仰出された婚礼となったのではないでしょうか。1の幕府有力者には春日局以外に、老中(年寄)土井利勝なども依頼が多く、7~80件ほどの依頼をされていたとされています。また、春日局については、少年期の家光付きの小姓などの家光側近の婚姻などが多かったようです。なお、刃傷事件の原因となった井上の息子正利と、鳥居正次の娘は、刃傷事件に関わらず婚姻し、子息正任をえています。 また、大名の婚姻に関して政権の許可がいることは豊臣政権でも同じで(これを破って諸大名と婚姻を結び、天下取りの一助としたのが家康)、当然のことながら政権側から仰せ出される婚姻も存在します。このことは織田政権や戦国大名も同じようなもので、細川忠興と明智玉(細川ガラシャ)の婚姻も、信長の命令(勧め)によるものです。 つまり、春日局が決めた大名家の婚姻はありましたが、同じような行動をした幕府実力者もおり、「この時分から婚姻は、仰出された婚礼と、願い出による婚礼の二通りになった」と言うことは、豊臣・織田・戦国大名の例から考えても間違いだと思います。 豊島信満(刑部) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E4%BF%A1%E6%BA%80 以上、参考まで。
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- あずき なな(@azuki-7)
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テレビの見すぎです(笑) 春日局はテレビで語られてるほど実権も無ければ目立った存在でもありません 実際 大名家の婚姻の権限は将軍か老中の意思が無いと決められません 春日局が力を持ってたとしてもそれはあくまで大奥での事であり 政治や表向きの事に口出しは出来ないはずです 質問の内容が事実だとしても 春日局の決定の上には将軍の意思があったのは間違いありません 将軍が命じて春日局に取り仕切らせた というのが現実でしょう 彼女の一存で決めることは幕府の政治機構の仕組み下では不可能です
お礼
ご回答ありがとうございます。 春日局は、大原麗子のような美人だったそうです。(NHK談)
お礼
いつも的確なご回答ありがとうございます。 大変よく解りました。 ご回答をヒントに検索してみました。 春日局が諸大名の娘を柳営に呼んだという話は、『武野燭談』に出ているようです。 長勲候は、この本の話をしたのでしょう。 「武野燭談」の巻之五には、 「春日局は諸大名の婚姻には特に干渉し、諸大名の息女たちを時々大奥の広座敷まで呼び出して、それぞれの縁組を申し渡すのが常だったという話が載っている」そうです。 武野燭談 http://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E9%87%8E%E7%87%AD%E8%AB%87 >「この時分から婚姻は、仰出された婚礼と、願い出による婚礼の二通りになった」と言うことは、豊臣・織田・戦国大名の例から考えても間違いだと思います。 分かりました。 浅野長勲候の話には、思い違いも多々あるそうです。