• 締切済み

論理的って

よく議論なんかで論理的じゃないとか、矛盾してるだとか 殺し文句のように使われてます 知的な人の嗜みでもあるかのように「論理的」であることに執拗になってます 議論にしろ、知的な人にしろ、学問にしろ、なぜ論理的であることにこだわるのですか? また、論理的であるとして、それがどのような価値を持つのでしょうか? 回答よろしくお願いします

みんなの回答

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.12

”なぜ論理的であることにこだわるのですか”     ↑ 甲をインプットしたら、乙という結論が 自動的に出る。 これが理論の役割です。 つまり、甲が正しければ、乙も正しいことに なります。 故に、甲の正しさだけを立証すれば、乙の正しさ も自動的に立証できます。 理論的でない、ということは、甲をインプットした のに、丙という結論を出してしまう、ということです。 これでは、丙の正しさは立証されていないことに なります。 だからこだわるのです。 ”論理的であるとして、それがどのような価値を持つのでしょうか”      ↑ 前述したように、正しさが立証される、という 価値を持ちます。 質問者さんが疑問を感じるのは、経済や政治などの 議論が、理論を装っているだけであるから、 ないしは、前提である甲の立証がなされていないから、 そもそも社会学の理論そのものが正しくない場合が 多いからです。 社会学の理論は、自然科学の理論と異なり、実にいい加減です。 だから質問者さんのように、理論なんか信用出来ない、 何の価値があるんだ、ということになるのです。 これが「学」といえない日常の議論になるともう 大変です。 理論というのは名前だけ、という状態です。

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回答No.11

すみません。#6の者です。 先の書き込みの中の、2段落目の最後の; >「公理系が完全である(系の中で証明できない >公理の排除)」事と「無矛盾である(Aと非Aを >同時に導かない)」事が、証明された。」 の最後の『~事が、証明された。』は、『~事が、 両立しない事が証明された。』です。 どうも申し訳ありません。

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noname#208724
noname#208724
回答No.10

論理的であることを望むのは、やはり話の筋が通らないと意味わかんなくなるから。 だけど論理的であることにこだわる人は、論理的に生きている自分を誇り高い人間だと思いたいのではないでしょうか。または、論理には限界があることを知らないのだと思います。 たとえば石と岩の違いを論理的に説明せよ、と言われても困るわけです。おそらく言語の問題まで後退し、人間の顎の骨格にまで後退していくんじゃないですか? ここに、論理が役に立たない極端な例をあげます。 あの宇宙膨張説を唱えたハッブルなんか、観測したグラフデータがなんと、直線で結べない程にバラバラに点在していたにもかかわらず、直線を適当に2本引き、遠い星ほど速度が速くなっているから線の開きができたんだって言い出したんですよ。 その説をごり押しして現在に至るんだそうです。まあ現在では精密な観測をした結果、その説が正しいと認められたそうですが、事の発端はハッブルの第六感とか霊感のようなものと言えます。 最近では、おぼかたさんが有名ですが、論文がコピペだとか。再現性がないとか。しかし再現性について言うならば、私が考えるには、その確率を無視できないのです。 たとえば再現できる確率が、1億分の1だった場合、その再現性を証明できるでしょうか? 論文はダメだとしても、細胞そのものは出来上がっているかもしれないんです。現実ができていれば、論理なんか後付でかまわないと思うんですが。 だから科学者がやる思考実験と聞いても、私からみれば霊感商法と大差なく思えてしまいます。 私の霊感では、人は毎日羽ばたいていれば、そのうち腕に羽が生えてくると考えています。もはや論理はどこへやら消えてしまいました。 まあ論理的であることの価値となると、誤解されにくいってことかな。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.9

>ということは因果関係を示す事柄以外には論理を用いることができないことになってしまいます ほかに何をお望みなのでしょう?

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noname#232913
noname#232913
回答No.8

自分の考えを相手が理解しやすいように話す、説明する論法と考えるといいと思います 簡単に言うと納得させやすい伝え方(説明に関して言えば) 論理的と言うと難しく聞こえるだけで、子供でも論理的に話すことはできます 知的な人は専門用語などを多様して論理的に説明しますが、これは議論などで相手に自分は知識があると牽制する目的もあるので、論理的であることと知識が豊富であることが混同されがちで、難しいものだと誤解されがちですが 例えば 小学生が宿題を毎日忘れず提出できるのはなぜか?と友達に聞かれたとして うちのお母さんは怒ると恐い、どんなときに怒るかというと僕が宿題をしない時だ、恐いお母さんが嫌いな僕は宿題を忘れることはない。 内容は大したことないですが、これも立派な論理的な説明と言えると思います ちなみに同じ質問で お母さんが恐いから忘れない これだとなんとなく察しはつく内容ですが 論理が飛躍しているというパターンだと思います(説明不足) 論理が破綻しているパターンは、どうにでも例題は作れますよね 他者にどうしたら分かってもらえるかという思考が本質なので、小学生に専門用語を多用した論理的説明はもはや論理的ではなく、ただの自己顕示 >どのような価値を持つか 他者の立場で考える優しさという価値があると思います。

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noname#194996
noname#194996
回答No.7

>殺し文句のように使われてます 別にそんな思いを持ったことはありませんが、私は他人が意味の通らないことを言うのに遭ったらやはり耐えられなくなって、たいていの場合再度言い直してもらっって確認したり、けんかにならない範囲で問い返したりします。論理的に話を進めるのは最低のマナーというか人間どうしが理解し合う必要条件だと思いますよ。考えても見てください。相手がどう考えても矛盾したことを、これは正しいのだ、というだけに固執したら、話しあいという気分にはならないのではないでしょうか。論理的にそれを正すには、その矛盾が矛盾ではないということを私にもわかるように説明しなくてはなりません。それが常識です。 >論理的であるとして、それがどのような価値を持つのでしょうか? 価値以前のことです。そうしなければ挨拶以上の話し合いにならない、言葉が実質通じなくなるということです。もちろん意味をわざにはずして笑いをとるということはたまにありますが、日常でそれを毎回やっていたらそのひとは信用されなくなるでしょうね。 会話は論理以前のものから、実質的な(相手に自分の言いたいことを伝えたい)会話までいろいろありますが、特に後者の会話は論理的でなければ役に立ちません。けんかになることが多いです。まさしく日韓の「会話」がそういう状況ですね。会話じたいに論理以前のものがふくまれていますし、会話を成り立たせている前提そのものが異なっているので、それをまずたださねばならないのですが、それが出来ないのはお互いに論理的に話し合おうという考えがないからだと思います。

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回答No.6

論理的とは、厳密に定義された単語を用い、 明確に関係づけられた式とした言明である。 その記述する内容が、現実である(=正しい) かどうかとは無関係だが、少なくとも論理的 でなければ発信者の意図する内容とは異なる 受信者の理解が可能であり、内容が正しいか どうか以前に、記述自体が正しいかどうかが 不確定になる。 こうした、「正しい」の意味が、「論理的に 矛盾がない」と「現実を正確に記述する」と いう2つの事を意味し、「真理」に両者の 具備が期待される時、不完全性定理において 「公理系が完全である(系の中で証明できない 公理の排除)」事と「無矛盾である(Aと 非Aを同時に導かない)」事が、証明された。 それは、「有限的な存在性は認識される (階層現象を表面的に捉える)事で派生する」 という不確定性原理の射影であり、「無から の自我仮説(時間軸)と時空仮説(空間軸) の相補分化」という起源を意味する。

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  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.5

なかなかいい質問ですね。 このサイトでも知的を最高峰と考える人は論理的や科学的にこだわっています。 確かに、現代では論理的や科学的という説明が重要視されています。 しかし、論理的や科学的という説明に固執している場合も多く見受けられます。 自説に重みをもたせる目的で論理的や科学的という見せかけを執拗に行っているのです。 よく読めば知識をひけらかして恫喝しているのですね。 そのような論理的や科学的内容には注意を要します。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.4

この世界は因果の法則で成り立っているからでしょう。 論理的というのは因果の法則にかなっているということで自然だという意味じゃないですかね。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます 論理=因果関係 ということですか? ということは因果関係を示す事柄以外には論理を用いることができないことになってしまいます それともなんでもかんでも因果関係として捉えることが論理的なのでしょうか?

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回答No.3

 簡単に言うと、前提条件から必然的に結論を導けるというのが論理的という意味。前提条件のすべてがすでに正しいと認められているのなら、結論もやはり正しいということになる。  現実では、思いもよらないものが影響していてすべてそろっていると思っていた前提条件が足りなかったとか、そういうことで正しいと思っていた前提条件が実は正しくなかったとかで理論を修正しなくてはならないというのが多々起こるのですが。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます >結論もやはり正しいということになる その正しいとは論理的に正しいという意味ではなく 真実や真理が意味するところの正しさでしょうか? もしそうならなぜ論理的であることが正しさの証明になるのでしょうか?

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